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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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LOGAN/ローガン

  1. 2017/06/11(日) 12:29:22|
  2. 洋画
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 生花市場がはじまる時間になると、重彦はひとりでに目を覚ます。
 真っ暗な天井をかすんだ瞳で見上げながら、重彦はのどの奥でうなり声をあげた。身に染みついた習慣というものは、ときに人を腹立たしい気分にさせる。花屋の看板をたたんで、ささやかな家財を軽トラックの荷台に積め込み、眠らないあの街をあとにしてもう二十年になる。故郷の地にふたたび根を張るには充分な時間だ。生まれ育ったこの家の大黒柱には、重彦が五歳のときにつけた背丈の傷が刻み込まれている。それなのにいまでも大田市場のセリの声がまどろみのなかに聞こえてきて、おまえはとんでもない寝坊をしたぞと囁いてくるのだ。
 腰を痛めないように苦労しながら寝床から出ると、全身に寝汗を掻いていることに気づいた。建てつけの悪い窓を通して、潮騒の音が聞こえてくる。ここは千葉の片隅の、地図の上でしか名前を覚えているものがいないような寒村だ。
 ホームエネルギーマネジメントを導入したあたらしい家を建て直そう、という娘たちの誘いを、重彦は断りつづけていた。老い先短い身に、どうしてそんなものが必要なものか。どうせすぐにお迎えがくる……自分が老人らしいひがみに流されかけていることを感じて、重彦は首を振った。
 顔をあらって……いや、やはりシャワーを浴びた方がいい。それから凜が起きてくる前に、ゆっくりと朝食をつくろう。
 二日酔いでもないのにふらつく足に気合いを入れ、重彦は洗面所にむかった。
 台所の明かりに気づいて、足を止める。
「凜……」
 三人の娘たちはみな早々に嫁ぎ、計ったようにきっかりと、それぞれ三人の孫を産んだ。いまでもなんだかんだとみな重彦を慕ってくれて、正月には勢揃いした娘や孫たちが、台所にひしめきあう。年寄りがあまり口を出したり、手を貸したりしない方がいい、そう思った重彦は特注の大きなクルミ材のテーブルを買うにとどめた。
 十五人は掛けられる大きなテーブルに、凜がひとりでちょこんと座っている。紅柿色のカーディガンにつつまれた、うすっぺらい身体。腰まで伸びた長い黒髪が、痩せた肩の上でばらけていた。やせこけた指にはスプーンをつかんでいる。テーブルの上にランチョンマットが敷かれ、その上に白い陶器のシリアルボウルが置かれている。凜はそこからシリアルをすくって口元へ運んでいる。
 胸に刺さってくるような孤独な光景だった。この子はいつも独りを好む。正月に親戚同士があつまって騒いでいるときにも、すっと身を引いて、居間の柱にもたれて本を読んでいるような娘だ。
 憮然と立ちつくした重彦の顔を、凜が見つめかえしてきた。口のまわりに牛乳がついている。きょとんと見開いた大きな瞳は、亡くなった妻にそっくりだ。孫のなかで、凜の顔立ちにだけ房枝のおもかげが残っている。
「凜、おまえ……」
 重彦は云った。
「また夜中に抜け出したのか」
 カーディガンの肩に、松の葉っぱがついている。誰かに撫でつけられたように、頬には泥汚れがついていた。
 凜は、返事を惑うように一瞬、天井を見つめ、それからまた重彦の顔を見た。
「おじいちゃん」
「ああ」
「……怒る?」
「いや」
 答えながら椅子に腰かけようとして、思わずうなり声が出る。この孫娘の前ではしゃんとしたところを見せてやりたいが、歳には勝てない。
「どこに行ってたんだ」
「海岸沿いに、ずっと」
「おまえみたいな年頃の娘が、そんなところを夜中にうろついて、楽しいものかね」
 凜はスプーンを置いて、首を傾げた。
「おじいちゃん、腰を揉んであげようか」
 重彦はいまいましい思いで、首を横に振る。
「おまえに何かあっても、すぐに飛んで駆けつけてやれるような身体じゃない。あまり心配かけるな」
「心配なんて、いらない。誰にも会わなかった」
「人の数よりカモメの数が多いような村だからな。だが、そういうことじゃないだろう」
 おまえのお母さんは、心配しすぎて疲れてしまったんだ。そんな大人げないことばをぐっと飲み込む。飲み込んだことばの中身を、凜が察する。すっと視線が逸れた。この年頃の子供というのはみんな超能力者のようなものだ。こと、親やまわりの大人たちの不甲斐なさを察知することに関しては。
 ネコを思わせるような優美な仕草で、凜が立ち上がる。シリアルボウルをもって流しの前に立つと、すぐに流しを水が打つ音が聞こえてきた。
「『あの池のアヒルたちは、池が凍ったときにはどこに行っちまうんだろう』」
 手元を見つめたまま、凜が謎かけのようなことを云う。
「なにかね、それは」
「なんでもない」
 凜はふりかえり、おぼつかない微笑をみせる。
「昼間はあんなにさわがしいカモメたちが、夜にはどこに隠れてるんだろうって思っただけ。じゃあ、あたし、もう寝るね」
 座った重彦の横をすりぬけて、凜は立ち去る。
 すれ違うとき、掘り返したばかりの土の匂いがした。これが五歳の娘ならば泥遊びも微笑ましい。凜はもう十四歳だ。
 それから長い時間、重彦はテーブルクロスの模様をじっと眺めていた。まるでそこに人生の真理が潜んでいるとでもいうように。
 いつのまにか、窓の外が明るくなってきていた。


 しばらく凜をあずかってほしい。
 そう連絡してきたのは、末娘の柚香(ゆずか)だった。
「いやねぇ、ほんとはいい娘なのよぉ」
 言い訳のようにそうつけたしたのが、いかにも柚香らしかった。
 しっかり者の姉ふたりと違い、のんびり者に育った柚香は、どんなときでもまるで茶飲み話をするようなおっとりとした口調で話した。
「あの年頃だからねぇ。いろいろ難しいこと考えてるんでしょうけれど、あたしには話してくんないのよ。ただ、どうしてもお爺ちゃんのところに行きたい、の一点張りでねぇ」
 ときおり、人は花のようなものだと思う。自分に適した土壌に種となって潜り込み、そこで勝手に花を咲かせる。
 長女の茉莉花(まりか)は手が掛からないが、いちどこうと決めたら自分の筋は曲げない娘だった。京大を出て国会の速記者を三年務め、職場で結婚相手を見つけて、惜しげもなくキャリアを投げ出した。母に似て気の強い自分の優秀さを疑ったこともないような三人の息子たちは、いまでは仲良く母の母校に通っている。
 町田の外れで小さな美容院を営む次女の杏子(きょうこ)は、三人の娘に恵まれた。ひとりの娘はバックパッカーになって世界を駆け回り、ひとりは水泳好きが高じてインストラクターになり、ひとりは杏子の店を継ぐと宣言している。どれも杏子に似て器量がいい娘たちで、重彦の寿命が持てば、曾孫の顔が見られるかもしれない。
 自立心旺盛な姉ふたりに囲まれて、末っ子の柚香はひたすらマイペースに育った。短大を出てそこそこの規模の商社に一般職で入社し、そこそこの男と結婚して子供をもうけた。次男は高校の陸上選手で、長兄はアマレスに打ち込んで青山学院大学のレスリング部に所属している。どちらも身長190センチを越える偉丈夫だ。末っ子の凜は、まるで兄二人に養分を吸い取られたように、小柄で冴えない娘に育った。
 その凜が、中学にあがってから学校に通わなくなり、自宅学習に切り替えた。ここ二年ほどは、正月にも顔をみせなくなった。それが急に、重彦の家で暮らしたいという。重彦に断る理由はなかったが、老人ひとりで年頃の娘の相手ができるものか、気に病みはした。
 心配が杞憂にすぎないことが、暮らしてみてすぐにわかった。柚香は手を抜けるところはすべて手を抜くような娘だが、孫の凜は炊事のときには重彦とならんで立ち、洗い物もちゃんとする。洗濯も重彦のぶんまで片づけてくれた。フルオートフードプロセッサーと、分別機能付き洗濯機のある家庭で育った娘とは思えない。
「本で、覚えたの」
 どこで家事を習ったのかと訊いたら、そう答えた。それはそれで得難い資質だと思うが、IoTが隅々まで普及した街のくらしでは、あまり重宝されることではない。
 ともあれ、老人と孫の、奇妙な共同生活が始まり、そして一ヶ月が過ぎた。
 凜は昼間は寝ていて、夕方くらいからふらっとどこかに出かけたかと思うと、縁側で爪を切る重彦のうしろに気がつくと座っていたりする。そんなところもネコに似ていた。過干渉はしないと決めてあった。凜のようなタイプは、きつく叱れば、表面だけおとなしく従ってくるような気がしたからだ。それでは、わざわざ家を離れた意味がない。
 凜は、親と約束した自宅学習のプログラムを黙々とこなしてはいるようだ。学業をおろそかにすれば、柚香にすぐにアラートが行くはずだが、そんな気配はない。ときにぼうっとした瞳をして宙を見つめ、重彦にはなにかを待っているように見えた。それがなにかは知らないが、いっしょに気長に待ってやるしかない。
 独居生活が終わっても、重彦の口数はさほど増えなかった。
 凛は昼間は寝ているので、昼食は重彦ひとりでとることが多かった。洗い物を片付けてしまえば、年金生活の老人にやるべきことはそう多くない。縁側に古い商売道具である花器を持ちだし、布巾で磨くくらいがせいぜいだ。
 都落ちしてくるときに、あらかたの花器は他人に譲ってしまった。手元に残っているのは、どれも房枝が気に入っていた花瓶や壺だ。納屋の奥で埃をかぶせるには忍びなく、ときおりこうやって風に当てて、磨いてやることにしている。
 他に見るものとてなく、視線は自然と庭に向かう。
 重彦は庭の手入れに熱心な方ではない。草むした猫の額ほどの庭に、タイヤのない、錆びた軽トラックが転がっている。
 新宿で花屋をしている時は、それこそ馬車馬のように働かせた車だ。こちらに帰ってきてからは、重い鉢植えを運ぶこともないし、あったとしてもカーシェアリングでこと足りる。撤去してしまうのも忍びなくて、そのまま錆びるにまかせている。
 自分など、きっとこの役目を終えた軽トラックのようなものなのだろうと、重彦は思い、気が重くなる。
 花瓶を磨きながら、知らず、うとうととしてしまったらしい。
 突然、肩を激しく揺さぶられ、重彦は慌てて目を覚ました。
 視界いっぱいに、目を見開いた凛の顔が広がった。
「おじいちゃん、鍵!」
 耳のすぐそばで怒鳴られても、なんのことか要領を得ない。
 しばらく睨みあったあとで、埒があかないと思ったのか、凛は身をひるがえし、そこらじゅうのタンスや棚の引き出しを漁り始めた。
「鍵ってお前、なんの鍵だ」
 尋ねても返事はない。凛はこわばった横顔をこちらに向けたまま、なにかを探し続けている。
 まさか、と思った。
「軽トラックの鍵なら、仏壇の引き出しだ」
 まさか、が当たったらしい。凛はすぐに鍵を見つけると、縁側に座り込んだ重彦の腕をぐいぐい引っ張り始めた。
「早く、おじいちゃん、あんまり時間がないの」
「いったい……」
「早く!」
 凛は重彦の腕を引いたまま、そのまま素足で庭に飛び出す。重彦はあわてて草履を履くと、凛のあとに従った。
 凛が軽トラックのドアを開けると、派手な軋み音が響いた。そのままドアが外れて落ちなかっただけでも幸運だ。
 運転席に乗り込んだ凛は、そのままシートの上を移動して、助手席に移った。ドアの外で呆然と立ち尽くす重彦に手を伸ばす。
「おじいちゃん、早く乗って! あたし、運転できないから」
 凛の表情は真剣そのものだった。冗談とも思えない。
「しかし……」
 重彦はとっくに免許を返納していた。そもそも、そんな話ではない。燃料も積んでいない、タイヤもない軽トラックが、動くはずがない。
「お願い!」
 凛の声が、高くなった。
 必死にこちらを見つめる視線を、重彦は正面から受け止める。
 ああ、ここだ、そう思う。
 この子がこの先やっていけるかどうか。大人をふたたび信用してくれるようになるかどうか。ここが分水嶺だ。 
 ええい、ままよ。舌打ちをこらえて、凜の手を握り、運転席に乗り込む。左の脚が攣りそうになったが、なんとか声は抑えた。
 鍵穴のまわりについた錆を払い落とし、差し込んだ鍵をまわした。
 もちろん、軽トラは身震いひとつしない。
「おじいちゃん、アクセル」
 凜に云われて、馬鹿馬鹿しいと思いながらもアクセルを踏む。ヒビの入ったフロントグラスのむこうに、生け垣がある。それを避けるようにハンドルを切りながら、重彦は凜を問いつめた。
「どこまで行くんだ」
「とりあえず海岸沿いに走って、そこから国道に上がろう」
「なんのために」
「決まってるでしょ」
 凜は信じられないという風に目を見開く。
「逃げるんだよ!」
 ざわっと二の腕に鳥肌が立つような思いがした。
(兄貴、とにかくこの場を逃げないと……!)
 孝弘が血に染まった右手を突き出してくる。
(大丈夫、房枝さんを泣かせるようなマネは、しませんから)
 どしゃ降りの雨にいいようにずぶ濡れにされながら、顔中を口にして大声で叫び続ける孝弘の半泣きの顔……。
「とにかく、北にむかって」
 耳元で怒鳴る凜の声に、重彦は夢想から覚める。凜はどこからもってきたのか、ピンク色のハンドタオルを右手に巻きつけている。
「おじいちゃんは前だけ見てて。うしろからくる奴らは、あたしがなんとかするから」
 止めるヒマもなかった。タオルを巻きつけた右手で、凜はひび割れたサイドグラスを次々に砕いていく。あらかたの破片を片づけると、痩せたからだを思いっきり伸ばし、窓から肩を出して、トラックの後方を振りかえる。
「まだ、追っ手は見えない。でもきっと、そう離れてないよ」
 ハンドルを持つ手が、知らずに震えていた。
 背後から、すさまじい勢いで過去が迫ってくる。その気配が、重彦に指が白くなるほどにきつく、ハンドルを握らせる。この二十年、いやもっと以前から、必死で意識の底に沈めてきた悪夢だった。
 ハンパなところで下手を打った重彦が、どうしてあっさりと組を抜けられたのか。花屋になりたい。そう云った重彦を、組の連中は冷笑でもって受け入れた。指を詰めろと云われることもなかった。組の総会や、手打式、結婚、葬式、なにかあるごとに花屋としてお呼びがかかり、結局最後まで縁は切れなかった。それでもそれ以上は深入りすることもなく、重彦は“街の花屋”としての体面を保てた。白黒の写真で額縁におさまった孝弘の笑顔が、重彦の未来を切りひらいてくれた。
 いつしか、重彦は軽トラックのアクセルを全力で踏み抜いていた。
 曇った瞳に映るのは、フロントグラスのむこうの光景ではない。ずっと避けてきたのに追いつかれた、過去だった。
 忌まわしい記憶を避けるように、右へ、左へ、重彦はハンドルを切る。
 そうやって、どれくらい、悪夢の中をドライブしていたのか、わからない。
 ふと我に帰ると、重彦はにぎりしめたハンドルを呆然と見つめていた。
 壊れた軽トラックは、庭から一メートルたりとも動いていない。
 深く息を吐き、思い出したようにかたわらに視線を移すと、助手席で凜が眠りこんでいた。
 苛立ちとも、皮肉ともつかない感情が泡のように胸からいくつもわきあがり、消えていく。
 サイドシートにうずくまった凜のからだの下から、なにかが覗いていた。重彦は手を伸ばし、それを引き出す。凜はよっぽど深い眠りについているのか、起きる気配もない。
 それは古い映画のパンフレットだった。表紙はすり切れて、いまにも外れそうだ。映画のパンフレットなるものを手にとること自体、何十年ぶりかの体験だった。いまでは劇場で映画を観る行為はごく一部の好事家のものになっていて、全国のほとんどの映画館は閉館に追いやられている。
 重彦はパンフレットに目を落とした。セピア色に染まった表紙のなかを、幼い少女を抱いた老人が走っている。表紙の下部に、映画のタイトルが大きく、「LOGAN」と描かれていた。
 重彦は凜の寝顔に視線を奔らせた。凜が、本を読む代わりにタブレットで映画をたまに観ていることには気づいていた。若いのに珍しい趣味だとは思っていた。パンフレットの発行年数を確認すると、二十年もむかしだ。こんな古い映画のことを、凜はどこで知ったのだろう。
 「LOGAN/ローガン」は2017年のアメリカの映画だった。監督はジェームズ・マンゴールド。撮影はジョン・マシソン。編集はマイケル・マカスカー。主演はヒュー・ジャックマンという男で、タイトルにもなったローガンという老人を演じている。ローガンはウルヴァリンの別名を持つミュータントで、若き冒険の日々に別れを告げて、メキシコ国境のむこうがわにある廃工場で細々と暮らしている。平穏な日々に終わりを告げたのは、ローラという幼い少女だった。彼女もまたミュータントで、ローガンはローラを連れて逃避行の旅に出る……。
「こんなものは現実じゃない」
 思わず、吐き捨てるような口調で重彦は云った。
「ただの、おとぎ話だ」
 一気に興ざめした気がした。凜は、おそらくどこかの配信サービスでこの古い映画を観たのだろう。そして、主人公たちの境遇に自分を重ねてしまったのだ。なんとも子供らしい、感情と直結した行動ではないか。
 凜がなにを考えているのか、重彦にはわからない。それなりの生きづらさを感じていることは、見ていればわかる。だが多少遠回りであれ、現実のなかで居場所を見つけることができるくらいには賢い子供だと思っていた。
 こんな映画にかぶれて、現実と虚構の区別もつかなくなったのか。
 身内を贔屓したくなる気持ちもわかる。だが重彦はどう考えてもヒーローではない。やたらめったら歳をとった、ただの老人だ。ミュータントのスーパー能力などありはしない。現実に叩きのめされ、腰を折り曲げながら、なんとか生き延びてきただけの男だ。
 視線を感じて顔をあげると、眠そうに半目を開けた凛と目が合った。
 過干渉はしない、その誓いをいま破るべきだと知った。家へ帰れと、凜に云ってやろう。現実と戦えと。
 重彦が口をひらくよりわずかに早く、凜が沈黙を破った。
「守ってあげるね」
 眠そうなかすれた声で、凜がそう云った。
「あたしが、怖いものから、守ってあげるからね、おじいちゃん」
 半目になった凜の瞳が、べつの瞳と重なった。
(あたしでよかった……)
 十年にいちどと云われた、東京に大雪が降った夜のことだった。呼んでから二十分待っても救急車は来ず、重彦はたまらず軽トラックの助手席に房枝を乗せて、雪のなかを病院めがけて走り出した。
(あたしでよかったんですよ、あなた。子供たちにはなんの苦労もさせずに済んだ。この世の嫌なところを見せずに育てられた。あなたはきっと、長生きしますよ)
 大声で怒鳴る重彦の声にかぶせるように、房枝は最後の息を吐いた。
(あなたじゃなくて、あたしで……)
 気がつくと、凜が起き上がり、重彦の肩を揺さぶっていた。
 おじいちゃん、おじいちゃん……甲高い凜の声が、耳に突き刺さる。
「大丈夫だから」
 凜は云った。
「あたしになんでも切り裂く爪はないけれど、その気になれば、怖いものに噛みつくくらいのことはできるから」
 老人と孫は、ずいぶんと長い時間、見つめ合った。
 凜がどうして自分のところに来たいと云ったのか、その理由がはじめてわかった気がした。
 凜は、まるで仔猫をかかえて気が立った母猫のように、全身の毛を逆立てて、やってくる脅威に備えている。その姿に、なんだか微笑したくなった。
 結局のところ、怯える必要などなかったのだ。
 自分の映画はとうに終わっている。どんな悪夢が訪れたとしても、それはいまの重彦にかすり傷ひとつつけられない、ただの過去だ。
 ただ、
 ただ、凜の映画はちがう。それはまだ始まったばかりだ。エンドロールは遥かに遠い。
 重彦は左手を伸ばし、トラックのギアを入れた。
「北に行きたいと云ったな」
 ハンドルを握りなおしながら、重彦は訊ねる。
「そこになにがあるのかね」
「国境」
 即答した凜のことばに、重彦は笑い出しそうになる。千葉から“国境”を目指すのは、ずいぶんと大変だ。
 だがきっと行き着けるだろう。物語とはそういうものだ。
 アクセルを踏む。エンジンの響きが、シート越しに伝わってくる。ゆっくりと、窓のむこうを景色が流れていく。
「凜」
「はい」
「うしろはまかせた」
 こぼれるような凜の笑顔を視界の隅に捉えながら、重彦はさらにアクセルを踏む。割れたフロントグラスから吹いてきた風にくちびるをくすぐられ、たまらず笑い出してしまう。
 どこまでもつづくノースダコタへのハイウェイを、祖父と孫娘の笑い声をこぼしながら、軽トラックが疾走していく。
 今夜はどこで泊まろう。
 どちらにしろ、ベッドで凛と横になりながら、「ローガン」を観よう。重彦は秘かにそう決めていた。



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この世界の片隅に

  1. 2016/11/19(土) 01:53:00|
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映画、この世界の片隅に、を観た。

まったく唐突だけれども、わたしには少々困った友人がいる。
生まれたときからのつきあいで、なんの縁かは知らないが、かたときもそばを離れたことがない。
親友と呼んでもさしつかえのない間柄で、懐の深いその佇まいをわたしは愛してやまないのだけれども、やつには悪癖がある。
人なつっこい笑顔を見せたかと思うと、次の瞬間、ふいに顔を曇らせ黙り込むことがあるのだ。
気がおけない幼馴染みだというのに、わたしには決して触れさせない部分がある。
たわいもない戯れの合間に、ふと話題がそのことに及ぶと、能面のように無表情になり、黙り込む。
かと思えば、借り物のような味気ないことばで話題を流そうとする。
わたしは親友と呼びたいのに、どうしてもやつのその部分には触れられない。
魂に触れた、忌憚のない間柄だと云い切れない。

だからこの映画を見終えたときに、わたしは目に涙を浮かべながら、やつを抱きしめたい気持ちでいっぱいだった。
ああ、やっと本当のことを話してくれたんだね。
それはなかなか厄介だったね。簡単には口に出せないよね。それでも、やっと、やっと話してくれてうれしいよ。
わたしの友人の名を「日本」と云う。
友人がなんどもなんども口の端に浮かばせながら、70年も生々しい自分のことばに変えられなかった、その傷を「戦争」と云う。

太平洋戦争の戦没者、230万人という数字。
その数字だけで充分だったはずなのだ。とてつもない天文学的な数の死者。
それでも数字を見つめているだけでは、もどかしいくらいに手がとどかない。死んでいった人たちが、なにを見て、なにを聞いて、
なにを感じていたのか。そして遺された人たちが、どんな日々を過ごして命をつないでくれたのか。
どうしてもこの肌に感じられない。
それは「日本」のせいだろうか。とんでもない。恐ろしく近視眼的な、目の前のことしか見えないわたしの想像力のせいだ。
映画のことだけに限ってみてもいい。この70年間の膨大なトライアルを他人事にしてきたのはすべてわたしのせいだ。
「火垂るの墓」を観てわたしは泣いた。他人事として泣いた。節子はわたしの妹ではなかったから。
「沖縄決戦」を観てわたしは震えた。呆然として、それでも数日すると曖昧になった。わたしの近親者は沖縄にいなかったから。
「野火」のおぞましさに驚愕した。それでも拒食症になったりはしていない。昨日も今日も、きちんと食事をおいしくいただいた。
日々の営みをおくりながら、それでもこころのどこかにつきまとううしろめたさ。それも繰り返せばやがてあきらめへと至る。
そんな自分をこころの底で見下しながらも、余裕をぶっこいていたわたしを、ついに「戦争」の真芯に触れさせる映画が現れた。
それが「この世界の片隅に」だったのだ。

確認しておこう。この映画はアニメだ。
つまりはすべてのショット(カット)すべての描線すべての色彩を、制作者の意図のもとにコントロールできる。
そのことにここまで自覚的なアニメ映画を、わたしは知らない。
この映画の冒頭から泣いた、という人をネットでずいぶんと見た。おつかいに出かけた少女が街へ行く。なんということはない
シーケンスだが、タイトルが出るころにはわたしも鳥肌が止まらなくなっていた。この映画の細部に至る膨大な時代考証について
わたしは無知だ。そのわたしでもいま目の前で起こっているのがとんでもないことだと、直感で感じ取れた。
この映画の監督は、観客をまるごと戦時下の広島につれていこうとしている!
あなたがこの映画を映画館のどの席でみたのかは知らない。だがそこは戦時中の日本のただ中に飛び込める、特別あつらえの
プレミアムシートだったはずだ。すがめで見ることなど許さない。俯瞰などさせない。身体まるごと「あの時代」につれていく。
監督のそんな強い意志を感じて、ただ震えるしかなかった。

大潮の日、草津の叔父に三人がすいかをとどけに行く、あのシーンを覚えておられるだろうか。
眠り込んだ妹のすみを、叔父が揺り起こす。すみがぐずった声をあげる。
ああ、知ってる、そう思った。わたしは親類縁者と縁が切れているので、眠っている姪を揺り起こした経験などない。
それでもあんな風に眠りこけている子供の、頬についた畳の感触や、縁側のむこうから吹いてくるやさしい風や、
叔父のてのひらの優しい感触や、叔父の手にきっと伝わったすみの温かさをはっきりと感じた。
わたしの感受性がすぐれているなどと云いたいのではない。これは技術の結果だ。ディテールへの際限のない執着、世界を
まるごとつくりだそうという意志。その執着や意志が、わたしの過去から、近似値にある体験を引きずり出してきただけだ。
冒頭からつみあげたディテールと執念による世界の構築は、序盤のこのシーンでわたしからすでにスクリーンのむこうの
他人事という感覚を奪っていた。

昭和十九年、広島の江波に住む少女、浦野すずは、呉に住む事務官、北條周作に見そめられて呉に嫁ぐ。
この映画の大半が描くのは、それからのすずの、なんということはない日常だ。
“日常”?
すずが呉に嫁いだ昭和19年2月は、クェゼリン島で日本軍が玉砕した月だ。トラック島の空襲では巡洋艦那珂らが沈み、
翌月にはインパール作戦が開始されている。
そんな中での、銃後の“日常”で、すずは米を研ぐ。縫い物をする。早起きして井戸から水を汲みにいく。
すずは働き者だ。倫理的なことが云いたいのではない。映画はアクションであり、この映画はすずの動きまくる手足の描写の
集合体だ。映画の被写体としてすずは申し分ない“働き”をするのだ。
それは二つの意味をもたらす。ひとつは、懸命にうごきまわるすずに、観客はどうしたって感情移入せざるをえないという事。
もうひとつは、終盤でこの映画が描くある“喪失”の意味を、観客が充分に納得できるようにする事。

この映画は、ある意味でよきたくらみを秘めもつミステリーだ。
誰も思わない。米を研ぐ。縫い物をする。包丁をふるう。荷物をもつ。井戸から水を汲む。自転車を漕ぐ。庭の草を毟る。
それらのすべてがたくらみなのだとは。
だから終盤に至って、呆然とする。
自分たちの観てきたものが、唐突に変質し、別物になる様にただ驚愕し、震えるしかない。

そしてその時にはもう遅いのだ。
70年に及ぶわたしたちの回避行動はついに無為に終わったのだ。
他人事ではない。
すっきりと泣いて、映画館を出て、翌日には綺麗さっぱり忘れられるような可愛いしろものではない。
愛おしい日々、愛おしい風景。それらに観客が陶酔しているあいだに、監督はしっかりうしろの扉を閉めてしまっている。
すずさんは。すずさんの家族は。すずさんの住む街は。
他人じゃない。余所の街じゃない。
だから戦争とあなたは、他人ではない。

片淵監督は、こうの史代の原作のすごさを伝える代弁者である、ということをおっしゃっている。
この映画のすごさを語るときに、こうの史代の原作のすごさを伝えないのは片手落ちというものだろう。
おそらく片淵監督の意図によるものだと思うが、原作最終話のあのあまりにも力強いモノローグは、映画からすっぽりと
抜け落ちてしまっている。映画を観て原作を未読という方には、ぜひ一読を薦めたい。
映画を観る前に再読してみてあらためて感じたのは、ひょっとして戦争を題材とした創作は、女性にこそ適しているのでは
ないかということだった。
「戦争と平和」と「坂の上の雲」をならべてみたところで、林芙美子「浮雲」の凄味にはかなわない、と(個人的に)思う。
「この世界の片隅に」という映画を観て、もっともつよく類似性を感じたのは、近藤ようこの「戦争と一人の女」だった。
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著者近藤ようこさん御本人からいただいたことばを借りるならば「すずさんたちとは対極にいるような退廃的な男女の話」
なのだが、ステレオタイプ化された「戦争」からの脱却をみごとに果たしているという意味において、この両作は近い場所に
あると思う。この映画が琴線に触れたという人はぜひいちど手に取ってみてもらいたい。

最後に、このわたしの経験を話させてもらって、いいだろうか。

生まれてはじめての経験だった、と思う。映画のラストシーンが描く、呉の風景。そこから地続きの場所で、この世界で、
わたしの父や母がたしかに生きている。そうスクリーンのむこうの風景に感じるのは。

わたしは昭和四十三年生まれで、父は昭和十一年生まれだ。
映画の冒頭では父はまだ生まれていない。江波の岸辺に大潮がきた、あの翌年に父は生まれ、映画が描くすずの結婚生活の
期間を七歳から九歳の少年として過ごした。
いま父がどうしているかは知らない。ずいぶんとむかしに家を出て、二度と戻らなかった。いま、生きているのかもわからない。
記憶に残る父は、とにかく無口な男だった。自分の戦争体験については、ついにひとことも語らなかった。
父だけではない。多くの人が、みずからの戦争を語らない。「この世界の片隅に」を観た多くの人が、「ことばが出てこない」と
云った。それは「戦争」という体験を、生身で、あるいは映画を通して知った人の味わった人間として近似値の反応だと思う。

わたしには二重の断絶がある。実の父親と縁が切れている。そして父が語らなかったことによって、戦争とも地続きでは
なくなった。そのことがずっとながいあいだ、わたしの最大の傷であり、弱味だった。

この映画を観ることで、やっとその傷がすこし塞がった気がするのだ。映画の終盤で、なんならすずさんは、わたしの父の頭を
撫でてくれたのだ。わたしはこの映画にとても感謝している。やっと父の話が聞けた気がするから。

そしてもちろん、この映画の描く世界の、反対側の片隅に、あなたの父や、母や、祖父や、祖母がいたはずだ。
だからもう怖がらなくていい。うしろめたさを感じなくていい。
この世界の反対側の片隅に、あなたの萌芽はちいさくかたく潜んでいたはずだ。だからあなたと戦争はもう他人じゃない。
わたしと父が他人じゃないように。

おとうちゃんなぁ。
今晩な、やっとな、おとうちゃんの話、聞けたで。苦しかったやろな。つらかったやろな。歯がゆかったやろうなぁ。
それでもどうしようもあらへんもんな。おれが昭和の豊かさのなかで育っていくなかで、かけることばなんてあらへんかった
やろ。話してもわかってくれへん思うたんやろ。
でももう、わかったんや、おとうちゃん。
おとうちゃんの話がやっと今夜、聞けたから。
話してくれてありがとう、おとうちゃん。
この世界の反対側の片隅で、生きていてくれて、ありがとう。


おまえのやさしい声で ~ 映画 聲の形

  1. 2016/10/06(木) 00:18:13|
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ソロモン諸島の西に位置するパプアニューギニアでは、ビジン・イングリッシュとモツ語を公用語としながら、部族ごとに話す言語がことなり、その種類は1000を越える。
この世界にはおよそ5000の言語が存在するが、その五分の一がこの大きめの島一つのなかで話されている。
人口600万人の国に、1000の言語。
となればもちろん、話す人の数がごく限られる言語も多数存在する。パプアニューギニアは世界でもっとも多数の言語が消滅の危機に陥っている場所で、話者が200人以下に限られる言語が130もある。
想像してみて欲しい。
自分の話すことばが、書くことばが、この世界のうちのたった100人にしか伝わらなかったら。
たった10人にしか伝わらなかったら。
たった1人にしか伝わらなかったら。
そのたった1人と、一生めぐりあわなかったら。
自分には理解できない言語を話し、自分の話す言語を理解してくれないひとたちのいる世界で、あなたはどうやってすごすだろうか。
考えてみてほしい。
この世界。山ほどのコードと、山ほどの裏コードで織りなされた、適切なことば、適切な態度、適切な表情、適切な服装を要求してくるこの世界――それをすべてこなして、なんとかやっとわたっていけるこの世界で、他人のことばが理解できなかったら。
もし自分がそうなったら、わたしなら泣くか笑うかしかできそうにない。どちらも、人間がそれ以外どうしようもなくなったときにやる行為だと喝破したのはカート・ヴォネガットだ。
そして西宮硝子は後者を選択した。微笑むことを。

聴覚の障害により、世界との意思疎通に困難をともなう少女、西宮硝子。石田将也は転校してきた硝子がクラスに馴染めぬゆえに彼女をいじめはじめ、やがてそのこと自体がきっかけでいじめられる側に転じ、かつての硝子への態度を激しく悔いることになる。
原作のマンガも、映画も、障害やいじめといったナイーブな題材とまっこうから取り組んでいる。とくにこの映画では、硝子の声をあてた早見沙織の熱演もあいまって、観るものをいたたまれない気分にさせる。
抑揚の乱れた、聴覚障害者の発する声がいたたまれないのではない。
わたしたちが日々、仮面をつけてドアをくぐり、ギリギリの気分で電車にのり、ギリギリの気分で職場の同僚や学校の友達に微笑む、そんな暮らしのどこにも硝子の存在を受け止めるだけの余裕がないことを思い知らされて、いたたまれなくなるのだ。

しかしこの『聲の形』という物語の特異性は、そんな触れるだけで火傷しそうなセンシティブな題材にのまれることなく、むしろそれを逆手にとって、思春期に抱えるコミュニケーションの困難さという普遍的なテーマに昇華してしまったところにあると思う。どんな映画にも云えることだが、概要だけ聞いて二の足を踏んでいる人にこそ、ぜひ劇場に足を運んでもらいたい映画だ。

西宮硝子という存在は、障害をもっているにも関わらず、いつも微笑んでいて、自分をいじめている将也にさえ「友達になりましょう」と手話で語りかける「前向きで明るい」少女だ。感動ポルノだ!と指を突きつけるのを待ってほしい。彼女が、このカッコつきの前向きで明るい存在である理由は原作でもかなり終盤にならないと明かされず、映画ではついに彼女の口から語られることがない。西宮硝子は一種のブラックボックスとして、カッコつきの「前向きで明るい」存在として棚の上に置かれる。

そして彼女の周囲を衛星のようにめぐる他の登場人物たちは、まるで彼女の引力に引きずられるがごとく、自分のなかに黒々と鎮座する自分と他者とのディスコミュニケーション性について抉りだしはじめるのだ。

石田将也は、小学生のころの増長ぶりが嘘のようになりを潜め、すっかり他者とのコミュニケーションに絶望し、他人の顔をまっすぐに観ることができない。この映画にやたらと少女達のフェティッシュな生足が映るのはなにも大きなお友達の受容を満たすためではなく、他人を直視できないがゆえに足元を見つめながら生きていかざるを得ない将也の主観の反映だ。モブを含め、彼に拒絶されたキャラクターたちは顔に大きな「×」をつけられ、ちょっとピンク・フロイド ザ・ウォールを思い出させる。

植野直花は、硝子とは正反対(に見える)の社交性にあふれた少女だが、その攻撃性を他者にむけることを抑えられるほどには成熟していない。植野はパッと見にこの映画の敵役に見えるが、「あんたは結局、わたしと話すつもりなんてないのよ」と硝子が抱えたディスコミュニケーションを喝破し、正論しか吐けず他人を傷つける結果に涙する。彼女もまた、思春期のディスコミュニケーションに苦しむひとりなのだ。

佐原みよこというキャラクターに、内心共感を覚えていた人はじつは多いのではないか。彼女はかつて硝子に肩入れしたためにクラスから疎外され、不登校となる。そしてその自分の弱さを克服しようと努力する。その克服への告白が、上昇するジェットコースターの動きとシンクロするシーンの心地よさは、一瞬だけ映るフレアの入り込んだ青空とともに、この映画の「陽」の部分の白眉だろう。だが内心では彼女は自分は成長していないのではないかという恐れを感じていて、硝子と関わることでその恐怖とむきあうことになる。

川井みきは将也のいじめを「やめなよー」と半笑いでたしなめ、加害者には積極的に荷担しない。彼女はいちばんうまくコミュニケーションのゲームをくぐり抜けているように見えるが、裏では「仕切り屋」と陰口をたたかれ、みずから旗を振って千羽鶴をあつめようとしても、千羽をあつめきれない。まるでこのゲームを無傷でやりすごせる人間はいないのだとばかりに、彼女も涙にくれることになる。川井を偽善者と断じることは容易いが、断罪する指が自分のほうをむいたときに、わたしたちは果たして無実でいられるだろうか?

じつは誰よりも深い闇をかかえた真柴も、コミックリリーフの役を一身に担う永束も、少なくとも映画のなかでは血を流すことはなくとも、ひとりベッドのなかで枕をかかえて身悶えした夜があるはずだ。硝子の守護者であり、一見、彼らの青春とはファインダーを置いて距離をとっているようにみえる妹の結絃も、姉という巨大なディスコミュニケーションのブラックボックスの前で苦渋を味わう。

そして映画は、血だらけのディスコミュニケーションを描いたあとで、まるでそうなるのが当然というように、まっすぐに死にむかう。
橋での決定的な断絶のあと、この映画はおそろしく静謐で、なにかの予感に満ち溢れた夏休みに突入する。
画面からモブが消え、養老の滝や、養老天命反転地をさまよう硝子と将也はまるで世界から迷子になったようだ。
そして美しく、無残な、花火が夜の闇を照らす。

この映画が素晴らしいのは、死の予感に満ち満ちた夏休みから、一転、生への希望を描く、その反転の手並みが素晴らしく容赦がなくかつ周到だからだ。映画がタイトルバックからひたすらに描きつづけた、落下。将也が本来であれば映画がはじまって一分で飛び込むはずだった、「高い橋」。それを妨げる花火。「墜ちるなよ、少年」という警告のことば。繰りかえされる川への落下。これだけの手筈を踏んで、ようやく仮死を経て再生へといたる、本物の生が描かれる。それに触れることで、西宮硝子のブラックボックスは開放され、表情は豊かになり、一転してベクトルは死から生へとむかう。

この映画の前半は小鳥たちのためのチュートリアルであり、いつかフレームにおさまる、飛翔する二羽の鳥をとらえるためのはばたきにすぎなかったのだ。

そこからの最後の顛末は、どうぞ自分の目でたしかめて欲しい。綺麗事と目をそむける人もいるかもしれない。あたたかい希望に涙する人もいるかもしれない。
どちらの方も、監督・山田尚子が、その気になれば全身の皮膚を総毛立たせるような、瘴気あふれる本物の“死”を描ける作家だということを忘れないで欲しい。たとえそれが“過程”であってもわたしの目はごまかせない。
惜しむらくは、思春期の普遍的な問題によりすぎてしまったために、障害者としての硝子が現実とどう折り合いをつけていくのか、その具体的な行為が描かれなかったことだ。しかしおそらくは原作者も、監督も、本当に描きたかったものはそこではないと思う。

この文章を、わたしはMSゴシックのサイズ10で記している。
この世界に、わたしのことばを理解できる人がどれくらいいるだろうか。一億人? 二億人?
この拙いブログの文章を読んでくれる人がどれくらいいるだろうか。十人? 二十人?
わからないけれども、どちらにしろわたしは自分のことばがどこかに伝わるであろうという幸運にあぐらを書いてこの文章を書いた。
それすらもできず、はかりしれない孤独を抱えて、自分のなかだけでことばをぐるぐると回している人がきっとこの世には居る。
何度もこのことばを出して申し訳ない、そのことを考えると本当に、いたたまれない気分になる。
どうか、自分が、世界が、もう少しだけやさしく、もう少しだけ余裕をもてて、硝子のような人々の声に少しでも耳を傾けられますように。
あなたのやさしい声で紡がれることばが、どうか、誰かの耳にとどきますように。
勇気をだして、両手をあげて、「友達」のかたちをつくる。
その小さなきっかけに、この映画が成ればいい。

スーサイド・スクワッドが好きだと、小さな声でそう云いたい

  1. 2016/09/13(火) 01:30:19|
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Harley-and-Joker-Suicide-Squad.jpg

スーサイド・スクワッドは奇妙にねじくれた映画です。
物語は「バットマンVSスーパーマン」の直後からはじまります。超人的な能力を持った悪人(おそらく施政者側にとってはバットマンもスーパーマンもその一員です)に対抗するため、米国政府は重犯罪者のなかから適任者を選別し、捨て身の作戦に従事させる「タスクフォースX」計画を発動します。そして集められた隊員たちはアメコミの世界のヴィラン――人を超越した能力を持つ者を含む、悪役たちだったのでした。

筋書きだけ聞けば単純明快。アメコミ版「特攻大作戦」です。実際、ジェイ・コートニーによるとキャスト全員が「特攻大作戦」を観たそうで、そのコンセプトについては制作者側としても一致していたのだと思います。
実際、中盤で描かれる彼ら「自殺部隊」の境遇はかなりシビアです。首筋に爆発物をしかけられ、上官の機嫌しだいでいつでもそれが起動可能、というスネーク・プリスキンもかくやという状況のなかで、達成不可能に思えるミッションに挑まされます。もともとは超個性派かつ超個人主義な彼ら犯罪者は、隙あらば逃げだそうとするし、てんでばらばらで統一感がありません。
しかし、そんなダメ人間の彼らも、寝食をともにし、厳しい訓練にはげむことで次第に連帯感が芽生え……。
なんてシーンはこの映画にはありません。
な、ならば厳しい任務のさなか、最初はバラバラだった彼らが徐々に息が合っていき、見事なコンビネーションをみせ……。
なんて描写もこの映画にはありません。
自分のことしか考えていない悪人どもが、ある瞬間から唐突に「おれたちは仲間だ」と云いだします。
そのことを万人に納得させるだけの描写がなかったために、この映画は一部でさんざんな酷評にさらされることになりました。

訓練に耐えるシーンはない。大事な仲間が死んでその哀しみをみなで乗り越えていくうちに連帯感が……なんてシーンもない。
この映画にあるのは「気づき」の描写だけです。あの、酒場のシーンですね。
「わたしたちは悪くて醜いのよ」。マーゴット・ロビー演じるハーレイ・クインがそう云います。
そうか、おれたちはただの悪人でしかなかった。
なにを血迷って、人並みのしあわせなんてもの夢見ていたんだろう。
罪を犯し、手を血で染め、墜ちに墜ちて、廃墟の酒場の、このスツールに座っている。
こんな「悪くて醜い」自分たちの望めることとは、そして出来ることとはなんだろう?

「仲間」というのはこの悟りを背景にして、でてくることばなんですよ。
泥水を泥ごとすすって、すすりまくって、茶色く染まった舌からこぼれ落ちてことばでしかありません。
正義の御旗を背負い、おなじくお日様にむかって顔を上げられる、他人様になにひとつ恥じることのない「仲間」ではありません。
墜ちて、墜ちて、自分が人生のどん底にいると悟って、ふと隣をみたときに同じような境遇の連中がそこにいた。
ああ、こいつらはクズだ。そして自分もおなじクズなのだ。そんな悟りの末にやっとでてきたことばが「仲間」なのです。
そんな境遇で「仲間」を見つけたらどうするか。
デビッド・エアーの映画ではいつも結論はおなじです。疑似家族を形成するのです。

「フューリー」も「サボタージュ」も、どん底にいきついた先でおなじ境遇の人間を見つけたものが疑似家族を形成し、それが破壊される話です。それがエアーの偏執なのでしょう。それは「第二次大戦で戦車乗りが勇ましく戦う」話とも「麻薬捜査官が犯罪組織や裏切り者と戦う」話とも、食い合わせのよいものではありません。もちろん「アメコミのヴィランをあつめたチーム」の話とも。
それでもデビッド・エアーはそういう話を書かざるをえない人らしく、ことここまで至って、わたしはその偏執に愛情以外の感情を持てなくなりました。

さて、デビッド・エアーの映画はよく「正義と悪の境界があいまいになる話」を描くと云われてきました。
わたしはそうは思いません。この映画でも実に微妙なライン、ぎりぎりで細い線だけれど確かに引かれている境界線を引いてきました。
それは悪(BAD)と邪悪(EVIL)のあいだにです。

この映画の悪役……というとまぎらわしいか、お話の構成上のラスボスのような敵は、境遇だけ聞けば被害者でもあるように思える人です。
長いあいだ眠りつづけ、心臓は政府に(文字通り)握られ、なけなしの復讐戦から世界を破滅へと追いやろうとします。
最初の弱々しげな外見も含め、この映画の主役たるヴィランたちとおなじく同情の余地があるようにも思えるのです。
ですがこれに、エアーはきっぱりと「NO」を叩きつけます。
邪悪(EVIL)は邪悪だからこそ邪悪なのである、という小学生のようなトートロジーがそこで展開されます。ラスボスがやる悪事はそのトートロジーの先にぽんと置いたものであって、その「悪さ」を掘り下げた末のことではありません。
邪悪(EVIL)は絶対に許されません。救えません。カトリックだというエアーの宗教観がそこには多分に含まれていると思います。
対して主役のヴィランたちは悪(BAD)です。彼らはよりよく生きたいと願い、それにも関わらず罪を犯してしまう。いってしまえば我々凡人の延長線にある存在です。
日本人には判別つきがたいですが、悪と邪悪はぜんぜん別!とエアーは断言するのです。

だからこそ怒る人がでてきます。悪人がひたすらに悪を積み重ねるピカレスクを期待した人。あるいは悪人たちがしかるべき段取りを経て、奇妙な連帯感をもつようになる丁寧ば描写を期待していた人。そんな人たちはこの映画の歪んだ倫理を理解できず、しかるべくして感情移入もできず、死んだような瞳でスクリーンを見つめる羽目になるのでしょう。本当にお気の毒です。

あるのはただ、邪悪が悪に垣間見せる、夢のような幻視だけです。
ディアボロも、ハーレイ・クインも、そこで見るのは「まるで自分が罪を犯さなかったかのような」普通のしあわせを見て、そしてそれが決定的に自分からはほど遠いと悟るのです。邪悪の心理攻撃は裏目に出たのでした。

だから、この映画を「底の底で自分の境遇を受け入れた悪(BAD)の話」としてみれば、それなりに首尾一貫はしているのです。
もっともだからといってあなたがこの映画を楽しめるかどうかまでは、保証はできませんが。
でもわたしは、この映画がとても好きだと、愛していると、ちいさな声で云って、手を挙げたいのです。

『ちはやふる』をまだ知らないあなたのための、ちはやふる32巻レビュー(ネタバレなし)

  1. 2016/07/15(金) 23:48:32|
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『ちはやふる』とは、情熱の因数分解だ。
ここまで巻数がすすんでやっと、そのことが理解できた気がする。

物語は未だ佳境である。千早が、詩暢が、新が、太一が、わたしたちに最後に見せてくれるであろう景色は、まだ見えない。
だけれど9年間この物語につきあってきて、この32巻を読んだ瞬間にふっと、「腑に落ちた」。
そこでやっと気がついたのだ。自分が目にしていたものが、ひとつの数式の展開の過程であるということに。

数式だの、因数分解だの、おまえはさっきからなにを世迷い言をぬかしておるのか、とお怒りの方もおられるやもしれない。
「ちはやふる」はかるたというマイナースポーツを題材にした、きらびやかな青春の情熱を描いた、明朗なスポーツ漫画だ。
そのどこに無機質で冷たい「数式」などということばが入る余地があるのか……と。
では無機質で冷たい(かどうかはわたしは理系ではないのでわからないけれども)数字の代わりに「情熱」でこの式はできて
いるのだと考えてもらいたい。

情熱の足し算で出来たマンガというのは、とてもよく見かける。というよりもむしろマンガの基本構造と云ってもいいかもしれない。
上手くいけばその足し算はかけ算に変わる。
主人公がいて、その情熱が物語を前へすすめるベクトルとなり、友人や恋人やライバルやいろんなものが掛け合わされて、
さいごのさいごにイコールがつく。そこで物語は大団円をむかえる。そこでやっとわたしたちはこの物語の意味に気づく……
と云いたいところだけれども、あるていど経験をつんだ読者であれば、その物語の構造が単純な加算や乗算の産物であること
にあっさりと気がつく。それでもそれを補ってあまりあるキャラクターや他の魅力に補われ、わたしたちは暗黙の了解として
自分が見えた物語の単純な数式に目をつぶる。

「ちはやふる」はそのような構造を持ってはいなかった。
いろとりどりの魅力に目をくらませ、みえみえのイコールをぐずぐずと引き延ばすような数式では構成されていなかった。
ここにいたるまで、いったい何十回、何百回、おどろかされてきたことか。
「えっ、そんな小さなキャラクターを拾うの?」
「えっ、そこまでこのキャラクターを掘り下げるの?」
「えっ、主役そっちのけにして、そのキャラクターが表紙になるの?」
「えっ、そこで負けたほうの心情描写をしちゃうの? やめてよ、泣けるじゃんか!」
読みながら、不思議でしょうがなかった。
「ちはやふる」はおそろしく多彩な膨大な数のキャラクターを描いた群像劇でありながら、主役3人(と、詩暢)の物語であること
からついぞブレない。末次由紀の頭のなかには、彼女が描いたどんな些末なキャラクターであろうとも、無数のサイドストーリー
が展開されているはずだ。たのしい巻末のおまけマンガでその一端に触れつつも、「そんなことはいいから本筋に戻れよ」とは
いちどたりとも読者に云わせない。いやむしろ、なにかを急くような、生き急ぐような慌ただしさで、物語は奔り抜けていくのだ。
とにかく奔っている。いつもだれかが奔っている。一巻、一巻、読むたびに自分のなかに与えられた情熱が行き場を失い、叫びを
あげたくなる。自分もなにかに情熱をぶつけてみたいという衝動に抗えなくなる。
いったい、この物語はなんなのか?

32巻まで読み終えた読者は、どうか1巻の冒頭にもどっていただきたい。
わたしの疑問の答えは、そこにあっさりと提示されているはずだ。
第1話、1コマ目。場所は近江勧学館。18歳になった千早は浦安の間でクイーンと対峙している。
未だ到達していない、「ちはやふる」という物語のひとつの頂点がそこで提示される。
数ページ先に登場するのは、「6年まえ 東京」。そこにいる12歳の千早は、冒頭の千早と同一人物でありながらも
「まだ情熱を知らない」。
ここだ。
「ちはやふる」という物語のイコールは、じつはここにあったのだ。第1巻、第1話の冒頭に。
情熱を極限まで駆り立て、いまやその道程の頂点に手をかけた千早と、情熱を知らない千早。
この二つを、まるで詩暢の祖母が畳の上にサインペンでそうしたように、ガッと乱暴にまっすぐな直線を引いた。
情熱の極限にいる千早がイコールの右辺、情熱を知らない千早がイコールの左辺にいる。
末次由紀は32巻168話をかけて、情熱をこめて、丁寧に、この数式を展開し、イコールの左右が同一項であり、
この因数分解式が正しいということを証明しようとしている。

小泉徳宏監督の劇場版『ちはやふる』を観たときに、広瀬すず演じる綾瀬千早という存在をあらためて不思議に思った。
彼女はまるではるかとおい未来を見通して、一直線にそちらにむかって奔っているようだ。
千早ひとりが、他の登場人物とは、目線がまるでちがうのだ。これは原作でも映画でも、おなじだ。
彼女はどこを見て、どこに進もうとしているのか。もちろん1巻、1話目、1コマ目にむけてだ。
だが「情熱を知らない千早」と「情熱の極限にいる千早」がイコールだと、すぐに読者は了承しえない。
そもそも、綾瀬千早がどんなに人並み外れた感じのよさを持っていても、ひとりで到達できる道ではない。
だからこそ「エンジンを外側にも置く」。仲間たち。家族。ライバルたち。通りすぎる通行人のふとした会話でさえ。
「すべてがかるたにつながります」。すべては綾瀬千早を1話1コマ目に辿りつかせるために。
そのためには、千早を取り巻くひとびととの絆がかりそめのものであってはいけない。そうなっては数式は壊れてしまう。
おそらくは本能的にそれを察知した千早は、「勝つ」ための最短経路を歩む。
孤立した仲間に手をさしのべること。“孤高”という壁にとりかこまれたクイーンを壁から出すこと。家族も、後輩も、みな。
そして千早から情熱を伝播されたまわりの人々もまた、自らの情熱を駆り立て、高みを目指すこと。
どんな小さな話の、どんな小さなコマに描かれた人物も、取りこぼさないこと。
夜空に浮かんだ星のまたたきに、世界というからくり時計のコマが軋む音を聞き、神秘のヴェールのむこうの真実が見える。
そんな風にして、「ちはやふる」というこの物語を読んでいると、それ自体はスポーツに打ち込む少年少女たちのお話にみえて
じつはその背後にあるもっと大きなもの、人というものが生まれて滅するまでのサイクルに一瞬、点滅する真理が見える。
「ちはやふる」は宇宙だ。東京に住む、十代のひとりの少女を描きながら、わたしと、これを読んでいるあなたが属している、
この世界そのものについて描いているのだ。

これを読んでいるあなたが「ちはやふる」を知らなくても、知る気がなくても、わたしのこの文章を読んでたったいま読む気が
なくなっても(あ。それはへこむ……)、そんなことにおかまいなしに、千早は、あなたに手をさしのべる。
“強欲”な綾瀬千早が、あなたのことを逃すはずがないではないか。

「ちはやふる」という物語はまだまだつづく。
この32巻という巻は、この長大な物語のなかでも突出して重要な巻であり、開巻からここにいたるまでの展開で、お話は
ひとつの回収をむかえた。
まだ読んでいないというあなたがうらやましい。そんな常套句をつかうことを許していただけるだろうか。
読み出すには最適のタイミングだ。まだ映画も上映している場所があると聞く。
どちらも問答無用の傑作だ。迷い無く、まずは原作一巻から読んでみてもらいたい。
それでもあなたの人生は変わらない?……いや、そんなことはない。少なくともあなたには友人がひとり増えるはずだ。
もういちど云う。
“強欲”な綾瀬千早が、あなたのことを逃すはずがないではないか。
本屋へ。早く。

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