生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


Twitterで映画の感想を書くということ。

  1. 2015/10/22(木) 23:50:52|
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Twitterにあがった映画の感想をわたしが読むとき、わたしが見つめているのはあられもないあなたの身体なのだ。
と、いうような話をしたい。

Twitterで映画の感想を呟きはじめて、もう三年近くになる。ネットにはわたしと同じように映画が好きなひとがたくさんいて、
そんな人にフォローされ、フォローし返しているうちに、いつのまにかタイムラインが映画の感想で埋め尽くされるようになった。
上映初日の夕方ちかくになると、映画の感想がぽつりぽつりと上がりはじめる。
お互い何年もフォローしていると、ネタバレのリテラシーについては早々踏み外さない(と思いたい)ので、遠慮無しに読む。
初日から、爆発的な勢いで熱のこもった絶賛ツイートがならぶ映画もあれば、投げ捨てるように短い失望がころがることもある。
ともあれ、わたしのタイムラインを形成しているのは、映画の感想“だけ”ではない。
注意してみれば、意識してもいない舌打ちや笑い声のようなみじかいツイートが、感想の合間を埋めていく。
ちょっとした笑いを誘うようなリツイートがいちばん多いだろうか。にゃんこちゃん動画や、有名人のGIFなども多い。
事故やハプニングの現場写真のリツイート。職場の愚痴。きょう食べた料理や、スイーツの写真。買った玩具や本の写真。
位置情報が丸出しなツイートはずいぶんと減った。職業、学校といったその人の具体的なプロフィールを匂わせるツイートも。
それでも、自撮り写真のアップがなくても、その人の“におい”のようなものがリツイートするしないの選択からでも伝わってくる。

わたしは「映画の感想」を受け取ると同時に、あるいは前後して、その人の“におい”をツイートから受け取る。
三流プロファイリングを気取るつもりはない。誰にでもあることではないだろうか。画面のむこうを徹底的にうかがわせない、
ストイックなあの人のツイートの、ふとした語尾に、生々しい人の吐息や体温を感じることが。
それをひとは“色気”と呼ぶのだが。

わたしは「映画の感想」を受け取ると同時に、あるいは前後して、その人の裸体をみつめることになる。
自分とはまるで違う裸体だ。食べているものも違えば(このアップした写真、高いと評判の**の店だな~)、住んでいる世界も
違う(へぇ、世の中に、こんなことを職業にしている人がいるんだ)。経済状況や、学歴や、考え方だって違う。
そうなればどうしたって、「この人と同じ映画を観て、同じ感想を抱くはずがない」と思う。
三食すべてマクドナルドの人と、成城石井のスーパーで夕食の総菜を買って帰る人が、おなじ価値観なはずがあるだろうか?
そうなると、こんな余計なことまで考えてしまう。
いったいこの人がみたのと、わたしがみたのは、同じ映画なのだろうか?

70年代のある日、チリの生物学者、ウンベルト・マトゥラーナは、ハトをつかった実験をしていた。
ハトの眼にいろいろな波長の光を当てて、脳の神経パターンをしらべる。そこでマトゥラーナは、のちにオートポイエーシス理論
へと結実する、ある重要な事実に気づく。
同じ波長の光を当てても、個体ごとにちがう視神経部分が興奮する。
マトゥラーナは天啓を得た。どの神経が反応するかを決めているのは、脳の部位ではない。
光は刺激にすぎない。ハトの反応は、脳に刻まれた個体特有の歴史や体験が決めている。
同一の視神経への刺激であっても、それが脳のどのような部分に反応するかは、ハトの「こころ」の在り方によって異なるのだ。
これは被験対象が人間であっても変わらない。陽電子放射や、核磁気共鳴といった手段で、脳のどのような部分に反応が
起こっているか、確かめることはできる。だがそれが人間の内部でどのような反応を起こしているかは確かめようがない。
デジタル映写機がスクリーンに投影した光の残像が、光速であなたの視神経に突き刺さり、刺激し、それがあなたのなかに
どのような感慨をもたらしたとしても、それはあなた個人、ただひとりだけが観た「映画」の感想に過ぎない。
あなただけの感覚。あなたにしか見えない世界。それをクオリアとよぶ。

「小津安二郎の『浮草』の雨の描写は素晴らしかったね」
あなたが云い、わたしはうなずく。だがふたりが見たものはまるで違う。
ある人はスクリーンの雨を見て、肌寒さを感じるかもしれない。ある人は肌にぴったりとくっついた中学校の夏服の感触を
思い出し、ノスタルジーを感じるかもしれない。親に頬をぶたれ、土砂降りの外に追い出された記憶を思い出し、吐き気を
もよおすかもしれない。
もっと単純に、「赤」ということばが脳にむすぶイメージ、それひとつをとってもわたしのクオリアとあなたのクオリアは違う。
赤信号は止まれ。そのルールを守ることで道交法は成り立っているが、それをわたしは「Xを見たら止まれ」というルール
だと思い、あなたは「Yを見たら止まれ」というルールだと受け取る。交差点で同じ「赤」を見ている人は二人といない。
こころはどこまでも閉じている。クオリアは他人とはわかちようがない。あなたの痛みは、死んでもわたしに伝わらない。
あなたが見た映画と、わたしが見た映画は、違う。

十年前ならこんなことは考えなくてよかった。
蓮實重彦が、その映画を見たときの体調や、血糖濃度、不快指数、劇場のノイズなどが、評論に影を落とすことがありえる
だろうか?
町山智浩が、昼メシになにを食ったかとか、プライベートの人間関係がどうだといったことが、彼の信念を曲げることがあり
えるだろうか?
雑誌や書籍で映画評論を読むときに、わたしたちはそんなことは考えもしない。彼らは研鑽を積み上げたプロであり、些事に
評価を左右されないだけの訓練を積んだ、プロフェッショナルだ。
Yahoo!映画やCinemaScapeの映画評を読むときだって、そんなことは考えもしなかった。
状況が変わったのは、ウェブ2.0が浸透しつくしたここ数年だろう。爆発的な勢いでネットに映画評があふれた。そしてたとえば
Twitterでつぶやかれるあなたの映画評は、あなたが生身のからだを持ち、さまざまな事情を抱えた生身の人であることを隠そう
としていない。
情報の発信が選ばれし者の特権である時代は終わり、誰もが、ありとあらゆる「感想」をつぶやきはじめた。

シネフィルと呼ばれる人々は、この状況に眉をひそめるかもしれない(ちょうどそんなリツイートがいま流れてきた)。
そうでない人々は、シネフィルを疎みつつ、独自の価値観を形成しつつある。
莫大な映画的記憶を有さない彼らの武器は、「共感」だと思う。

パシフィック・リムが引き起こした騒動あたりが、契機だったと思う。
原理主義者と呼ばれるような映画の信奉者たちが、その映画を理解しない人を鼻で笑い、ときに攻撃する。
「脚本がどうとか、照明がどうとか、そんなくだらんことでこの映画を評する人間は、この映画を見るな」
そんな尖ったツイートを、他の映画でも何回みたかわからない。スノビズムに対する攻撃なのか、と思ったがどうやら違う。
その映画に共感できるかどうか、そのあたりが分水嶺であるらしい。
気がつけば、「共感」の通過儀礼はウェブ2.0のそこかしこに立ちはだかり、ウォーボーイズたちはニュービーたちを見つめ、
彼らを熱狂的に輪のなかへ導き入れる。

グローバリズムは手袋がひっくりかえったような、奇妙な逆転現象を起こしたように思う。
グーグルアースで世界の反対側のリアルな街角が見られるようになった世界、Netflixでワンクリックで30年前の映画が
見られるようなった世界は、時間的距離と、歴史的距離を喪失させた。
それと同時に奪っていったのは、いま・ここを実感させる現地時間(オンタイム)だ。
ラディカルな進歩は反動を生む、というのは人類の歴史が教えてくれる。
たとえばマッド・マックスの爆音上映が生みだしたのは、歴史と空間がフラットになった世の中のなかで、いま・ここを実感
させてくれる、強烈な共感ではなかっただろうか。だからこそあの映画は現在のカルト映画なんではないだろうか。

去年映画を見始めた少年のツイートと、町山智浩のツイートは、140字1ツイートという制限下において、情報量的に等価だ。
それが等価になってしまう世界で、より多くの価値を獲得するのは“ふぁぼ”とリツイートで、そこに優劣の差は本質的につかない。
より正しく、価値のある情報よりも、より共感を産む情報が優遇される、共感資本主義世界、それがTwitterなのだと思っている。

その中で、廃れていく価値観もあれば、産まれてくる価値観もあるだろう。
共感資本主義だけがネットのあたらしい姿ではない、と思うけれど、少なくとも日本では、しばらくこの事態はつづきそうだ。
ソースに依った正しい情報よりも、共感を得た情報が優遇されるこの事態に、危機感をもつ人もいるかもしれない。が。
フラットにどこまでもつづく、地平線の見えないこのぶっこわれた世界。
ワイヤード・ウェイストランドに生きるウォーボーイズたちの覚悟を、もっと真摯に受け止めるべきだとは思う。
砂漠で水をみつける能力は、彼らが誰よりも秀でている。それが人間の価値観のすべてだとは云わないが、まったく新しい
水の都がその先にひろがっているかもしれないではないか。五十路に近いこの身だが、その背中を見守りたいと思う。

こころは閉じていて、クオリアは個人のものに過ぎない。
そう書いた。それでは閉じたこころの持ち主が数十億集まって、どうやってこの世界は成り立っているのか。
わたしとあなたの中間、べつのレイヤー、なにもない空間に、クオリアをもちより、互いのクオリアを変質させることで、だ。
おっぱいにしか興味のないわたしは、「カリフォルニア・ダウン」の娘のおっぱいを褒めちぎる。
あなたは、特撮の素晴らしさや、家族愛の尊さについて語る。
なるほど、そんな見方もあるのか、そう思った瞬間に、互いのクオリアは変質しているのだ。
二人のやりとりを見つめる第三者が、そのリプライの応酬をみつめていたとしよう。
その人の中には、わたしとも、あなたとも違う、まったく新しいクオリアが産まれている。
日々、何ツイート、何百ツイート、何千ツイートを繰り返し、わたしたちは互いのクオリアを変質させあっている。
そしてたまたま、おなじものを見られるはずのない、「とじたこころ」の持ち主が、おなじものを見たと錯覚するとき。
ひとは、最大限の歓びを感じるのだ。「とじたこころ」しか持たないくせに。そんな厄介なものが人間らしい。
トライアル&エラーを何億回と繰り返し。
そのひとつが、あなたがいま押そうとしている「ツイート」のボタンなのだ。こころして押したまえ、御同輩。
大河の最初の一滴となり、世界を変える。その共感を産む、最初のひとつが、そのツイートなのかもしれないのだから。


「あのー、すっごいもう、一見して、一見してもうぶっ壊れてる女がおるよね。
女ね。ナオン。一見してわかる人いるよね。ぶっこわれとる女。
いっとることぜんぜんわからん。なにいってるんすかみたいな女の人、いるよね。
つじつまもあわんし、会話もできん。ディスコミュニケーション状態に陥っとるんやけれども。
一瞬だけまともなこといって噛み合う瞬間とか、あるよね。
ああいうのって、たま、らんよね」
             (NUMBER GIRL“SENTIMENTAL GIRL'S VIOLENT JOKE”)


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ゴジラ私論・序章

  1. 2014/08/01(金) 07:48:20|
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レジェンダリー版ゴジラの公開にむけて、地道にゴジラ映画の予習をしていたのだけれど、間に合わなかった。
昭和ゴジラ十五作中十作鑑賞、平成・ミレニアムにいたっては鑑賞ゼロというていたらく。
そんなわけでレジェンダリー版ゴジラはいちおうIMAXで鑑賞したのだけれど、いまの段階ではまだ語る気になれない。

というのも、どうもゴジラシリーズというのは厄介な代物で、一作ごとにゴジラの役どころが変わり、どれか一作を観た
だけで「ゴジラとはこれじゃーっ!」と語れるものではなさそうだからだ。ゴジラの行動原理も、世界におけるゴジラの
意味も、みな違う。その当たり、「ジェームズ・ボンドという人が中心にいます」以外の共通項がなく、一作ごとに
リテラシーが変わっていく007シリーズと近しいものがある。いまのところ私のゴジラの印象は混沌としている。

そんなわけでレジェンダリー版ゴジラについてはまたいずれ語るとして、昭和ゴジラを(十作だけ。くぅ)観た印象を
残しておきたい。

ゴジラの映画はみんな歪んでいる。
とりあえずの結論としてはこれにつきる。倫理的におかしいとか云いたいわけではなく、縮尺のことなるふたつの
パートを繋いで、なんとなく一本の映画としてなりたっている、すごく危ういコワレモノとして俺の目には映るわけ。
映画というものが縦1横1.66のたったひとつのスクリーンに映される代物である、という制約を、いちばん
がんじがらめに受けているのがゴジラだって気がする。
ゴジラと宝田明はスクリーンの同一ショットに収まらない。
収まったとしてもすごい仰角か、遠くにゴジラがいます、というショットにしかならんわけで、同じ土俵に立っています、
とはどうしたってならない。結果、ゴジラの映画はまったく縮尺の違うふたつの世界を交互に描く、ということにしか
ならんわけで、ゴジラ映画の抱える歪みというのはまさにこれだ。ゴジラが人類の敵であろうが味方であろうが
関係ない。作中の誰かがどれほどゴジラに共感しようと、縮尺という壁を越えることはできないし、ゴジラという
絶対的に違う世界にいる存在と肩をならべることはできない。
ゴジラ映画を観るということは、まるで関係のない二本の映画を同時に観ることに他ならない。
俺の知る限り、その壁を乗り越えたのはジェットジャガーだけだ。

だからゴジラというのは絶対的に孤独な存在なんじゃないかという気がする。
その孤独を塗布してごまかすために、ドラマパートの方で人間たちがあれこれ騒いでみせている。
それでもやっぱりゴジラにとって人類は同じ土俵にのってもいない、どうでもいい存在だという事実をごまかせては
いない気がする。

いままで観たゴジラ映画の中では、「ゴジラ対ヘドラ」と「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」が傑出していた。
「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」は、もうゴジラのことはわかんないし、関係ないや、とすっぱり歪みを
認めて看過した爽やかな作品だ。敵基地への潜入と爆破。ラスト・ミニッツ・レスキュー。冒険映画の要素を
ふんだんに盛り込み、ゴジラはただの狂言回しでしかない。ここまで割り切ると逆に潔い。最後に島に取り残された
ゴジラを観て「かわいそう」みたいなことを登場人物が言うのだが、なにをいまさら。ゴジラはいつも孤独でかわいそう
なのだ。
「ゴジラ対ヘドラ」は、公害と、その権化たるヘドラという問題を縮尺の違う二つの世界が共有することで、特撮
パートとドラマパートの統一感が満たされている。過去の負の遺産の象徴・水爆の化身ゴジラと、現在の負の遺産
の象徴・公害の化身ヘドラが対峙する。この二頭が対峙した時点で人類の負けなのであり、恥なのだ。
その泥仕合感もいい。

なにはともあれゴジラ映画を見つづけてみます。このいびつな映画には、人を引きつけて止まない何かがある。

7月に見た二本の映画の主人公を対面させてみた。

  1. 2013/07/25(木) 18:19:33|
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 スクイーザーに押しつけた果実のように楕円に広がった太陽が、無様に地平線の上でつぶれていた。
 黄昏に近いそんな時間になっても陽光は強烈だった。リンネルの袖を肘までまくりあげた堀越二郎の腕に、襟足に、ふつふつと玉のような汗が浮かんだ。あちらこちらで煙を上げている瓦礫を避けながら、彼はゆっくりと足を進めたが、そのあいだなんども立ち止まり、眼鏡を外して顔の汗を拭わなければならなかった。
 何度目かにそうして顔を拭ったとき、ふと二郎は、眼鏡を掛け直す行為にまるで意味がないことに気づいた。
 裸眼で見ても、左右にうずたかく積み上げられた鉄の塊の、リベットのひとつひとつが見て取れる。銃弾の痕も生々しい翼に、くっきりと描かれた日の丸も。
 重油の浮かんだ水たまりを真っ赤に染めた、夕焼けの色も。
 自分がいるのがどういう場所か、おおよそのところはそれで察しがついた。
 少し悩んだあとで、二郎は眼鏡を掛け直した。さしたる意味はないとしても、そうしておかなければ落ち着かなかった。
 そうしたとき、ふとうしろから肩を叩かれ、それと同時に耳元で声が響いた。
「落とし物をしませんでしたか、親友」 
 驚かなかったと云えば嘘になる。「この場所」にいるのは自分と、せいぜいがカプローニの眷属くらいだと思っていたからだ。聞き覚えのない声だった。
 振り返った二郎は、相手を見上げねばならなかった。白人の成人男性だ。二郎には衣装の善し悪しなどわからぬ。だがよほどの余裕が財布にもこころにもなければ似合いそうにもない、豪奢な衣装を男は身につけていた。
「どうしましたか、親友」
 男はささやくようにそう云って、笑った。
 その笑顔を見たとたん、二郎の頭からは彼の衣装のことなど吹き飛んでいた。ありとあらゆる不安や、不信を吹き飛ばす、無限の慈愛と安心を与える微笑――それは人生でおよそ数回と見られないであろう、希有な微笑だった。
「失礼。名乗るのが遅れました。わたしはジェイ・ギャツビーと申します。育ったのはアメリカですが、教育はオックスフォードで受けました――貴方は東洋の紳士なのですかな、親友」
「どうも」
 あわてて居ずまいを正し、眼鏡を位置を治すと、二郎は静かな小声でそう返した。
「堀越二郎と申します。三菱重工業で航空機をやっています」
「なるほど――」
 ギャツビーと名乗った男は、ひとりうなずきながら、左右に山と積まれた航空機の残眼を見回した。
「飛行機、ですか。あなたもあのリンドバーグと同じ、命知らずな冒険家なのですかな、親友?」
「いえ、わたしは目が悪いので、飛行機乗りにはなれませんでした」
「ほう」
「代わりに、飛行機の設計者になったのです」
「なるほど。それでは、これは貴方の夢だったか」
 ギャツビーはそう云うと微笑んだ。
「そうではないですか? わたしはニューヨーク、ウェストエッグの自宅のプールサイドで、電話を待っていたのです。電話に出た記憶も、床についた記憶もない。気がつくとこの奇妙な場所にいた。考えられることは二つです。夢を見ているか、誰かの夢に紛れ込んだかだ」
「いえ」
 二郎は首を振った。
「これはわたしの夢ではありません」
 物問いたげなギャツビーを置き去りにして、二郎はそのまま歩き出した。
 油の強い匂いが鼻をついた。
 夢にしては感覚に突き刺さるすべてが鮮明にすぎた。ねじくれ、焼け、折れ曲がり、飴のように溶けた、鉄の塊。そのひとつ、ひとつが目に飛び込み、二郎のこころを掻き乱した。
「待ってください、親友」 
 うしろからギャツビーの声が追いかけてくる。
「これはあなたの落とし物なのではないですか?」
 振り返った二郎の前に、ギャツビーは無骨そうな手に握りしめた、鉄片を差し出した。
「ヤァ、これは栄十二型の冷却フィンだ」
 眼鏡のむこうの二郎の顔が、少年のように輝く。
「しかも無傷の新品だ。どこにありました」
「あなたが立っていたあの場所の、すぐうしろに」
「これは恐縮です、ギャツビーさん。あなたに御礼を云わねばならない」
「良いのです。あなたの夢に勝手にお邪魔した、わたしが悪い」
 ギャツビーは肩をすくめた。
「いい加減、認めたらどうですかな。わたしは海上飛行機を所有しておりましたが、飛行機の墓場の夢を見る趣味などない。これはあなたの夢なのでしょう?」
 手にした鉄片をぎゅっと握りしめたまま、二郎は答えない。ギャツビーはため息をついた。
「東洋人は内向的だと云うが、あなたの態度は解せませんよ、親友。わたしの時代にあったものとはずいぶん形が違うが、わたしのような門外漢にだってはっきりとわかる。これは戦うための飛行機だ。異国に攻め入り、相手の土地に爆弾を落とすための飛行機だ。違いますかな?」
「……そのとおりです」
「そして恐らくは、これはあなたが設計した飛行機なのではないですか?」
「そうです」
 二郎はまっすぐに前をむいたまま答えた。
「零式艦上戦闘機二一型。わたしの息子です」
「やっとわたしたちのあいだに、共通点を見つけましたよ、親友」
 ギャツビーはそう云うと、首元からメダルを取りだした。
「これはモンテネグロからわたしに贈られたメダルです。ギャツビー氏の栄誉を讃えて――わたしたちはともに戦争の英雄というわけだ」
「英雄?……あなたはこの山ほどの瓦礫を見て、そう云えるのですか、ギャツビーさん」
「これだけの数がつくられた飛行機だ。さぞかし名機だったのでしょう。山ほどの敵の機体をおなじだけの瓦礫の山にしたはずだ。あなたは英雄ですよ」
 ギャツビーはそう云うと、二郎の肩を馴れ馴れしくつかんだ。そんな仕草も、彼がすると不思議と様になっていて、二郎は不快にならなかった。
「息をして、ものを喰らい、眠る。ただそれだけの営為を繰り返すなら、それは獣と変わりません。わたしはあなたを讃えよう、親友。この瓦礫はあなたが夢をつかもうと努力した証だからだ。それはあなたが人間である証でもあるのです。あなたは掴みたかった。力? 栄誉? 富?――あるいは」
 ギャツビーの顔に、ふと遠くを透かし見るような表情が浮かんだ。
「あるいは、貴方もわたしとおなじ定めの下に生まれた男なのかもしれない。ただ一人の、夢の女を手に入れるために、泥の足と塩の足で支えられた、巨大な城を手に入れたのかもしれない」
「申し訳ない、ギャツビーさん」
 二郎はそう云いながら、額の汗を拭く。
「わたしには、貴方がなにをおっしゃっておられるのかわからない」
「パーティーです!」
 ギャツビーが昂ぶった声でそう云った。
「わたしはそうした。パーティーを開いた。毎夜、毎夜の馬鹿騒ぎ、浮かれ騒ぎ。それは巨大なたくらみだったのですよ、親友。たった一人の女を迎え入れるための。貴方もそうしたはずだ。パーティーを開いたはずです。花火を上げて……」
 鋭い音とともに、空から東京に落ちてくる焼夷弾。対空放火の放物線。
「自らの力を誇示し――」
 栄十二型の最高速度は533km/h。
「あなたは掴んだのだ、夢を。そして夢の女を。違いますかな、親友?」
(笑ッテ散ッテ行キマス。母上様モ微笑ンデクダサイ)
(清ハ微笑ンデ征キマス。出撃ノ日モ。永遠ニ)
(オ母サン。オ母サン)
 気がつくと。
 二郎はてのひらから血を流していた。
 冷却フィンがてのひらの皮を突き破っていた。
 それを見つめながら、静かに二郎は云った。
「わたしは戦争の英雄ではありません。ギャツビーさん。富も栄誉もわたしには無縁です。そんなものを手に入れたいわけではなかった」
「わかります――」
「わかっていません。わたしはただ、子供が蝶をおいかけるように、夢中になっていたのです。何年も、何十年も夢中になって、気がつくとこの土地に立っていたのです。この場所はわたしの夢ではありません、ギャツビーさん」
 二郎はギャツビーを見つめた。
「わたしの、地獄です」
 ギャツビーの顔に影が差していた。
 さきほどまでの陽気な様子とは一転した、恐ろしく沈鬱な考え込むような表情だった。その神経質な態度のほとんどは、彼自身の内面にむけられているように見えた。
 馬鹿な、とか、それならばなぜ、とか、ぶつぶつと声にならない声が、ときたまギャツビーの口から漏れた。
 二人はしばらく並んで歩いた。
「貴方は夢の女性を手に入れましたか、親友」
 二郎は微笑んだ。そして力強くうなずいた。
「良いことだ。それはとても良いしらせだ」
 二人はいつのまにか、池とも海とも知れぬ、莫大な水のあつまりのそばに立っていた。
「対岸にあるあの明かりが見えますか、親友」
「ええ。呉鎮守府の警戒灯ですね」
「違うっ!」
 そのことばはあまりに強い勢いで、二郎は思わず首をすくめた。
 殺されるかと思った。
 ギャツビーは一瞬で平静を取り戻し、その顔には微笑が戻っていた。
「あれはわたしの夢なのです。貴方とわたしは同じだ、親友。夢を手に入れるために夢中になっていた。ただわたしは迂遠に過ぎたのです」
 ギャツビーはそう云いながら、水の中に足を踏み出した。
「わたしも貴方を見習って、真っ直ぐに愛すべき女のもとへ歩いていくことにしましょう。親友。きっと彼女はわたしを受け入れてくれるはずだ。受け入れてくれるに決まっているのです、親友」
「お気をつけて」
 二郎は手を振った。
「おたっしゃで、ギャツビーさん」
「その名は違う」
 ギャツビーは手を振り替えしながら笑った。もう腰のあたりまで水につかっていた。
「あなたに秘密を教えよう。わたしの本当の名前は――」
 いいよどんだあとで、ことばを途切らせ、ギャツビーはまた大きく手を振った。
 二郎はそのままギャツビーの姿が見えなくなるまで見守っていた。
 やがて日は沈み、水面に霧が出て、遠くにぼんやり光る明かりだけしか見えなくなった。
 二郎は死ねなかった。
 生きることが、彼の使命だった。
 わたしたちは帰りの燃料をもたない飛行機に乗った、ひとりのパイロットだ。どんな逆風に流されたとしても、それでもわたしたちは、前へ、前へと、進まなければならない。
 

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