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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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ちはやふる -結び-

  1. 2018/03/24(土) 10:56:49|
  2. 邦画
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ちはやふる結び、二回観てきました。初日の初回は「あの大好きなちはやふるが終わってしまった」という事実にただただ愕然とし、劇場をあとにした記憶がまったく無く、気がつくと家から10キロ離れた場所で、パンフを片手に呆然と立ち尽くしていました。「なにかとんでもないものを見た」という重い衝撃だけが胸に残り、評価すらもままなりませんでした。

二回観て、ようやく確信できました。「青春どころか……」という劇中のセリフがありますが、これは人のまるごと一生の重みと、青春の一瞬の輝きと、1000年の時の流れを対比させ、その上で青春映画のフォーマットにきっちりまとめこんだ、傑作というより怪物という名がふさわしい、とんでもない作品ではないでしょうか。

前作下の句からの二年のブランクがあり、主要役者陣は前作をステップとしてさらなる飛躍をとげたわけですが、小泉監督はそれすらも作品のテーマとしてとりこんでしまいました。広瀬すずのしゅっとした凛々しい頬のラインは、前作までの幼さの残る丸い頬とはまるで違っています。ああ、時は流れてしまった。この子たちは成長していってるんだ。そう思うだけで訳のわからない涙が流れます。広瀬すずさんは「綾瀬千早を演じた三年間が、ちょうど自分の高校生の三年間と重なっていた」と語られていましたが、まさにこの作品で広瀬すずが演じるのは、天衣無縫で直情的な“一年生”が、後輩たちをしっかりと育ていたわれる“三年生”になった姿です。いわゆるアイドル映画のくくりで、その一瞬のきらめきをスクリーンに残した女優さんは星の数ほどいるでしょうが、広瀬すずは映画というものを自分の成長を記した卒業アルバムに変えることのできた希有な幸運の持ち主です。そしてそれはそのまま、前に進みつづける、変化しつづけることを宿命とした、「ちはやふる」のテーマとも合致しているのです。

ですがこの「結び」でもっとも特筆すべきは太一を演じる野村周平さんです。この二年で素晴らしい成長を遂げて帰ってきました。そしてスクリーンの外で野村周平さんがつみあげた役者としての研鑽が、そのまま映画のなかで「不器用な太一の高校三年間」として表現されているのは上手いというか憎らしい。監督もそれを心得てかどうかわかりませんが、太一の役に過大な負荷をかけてきました。背中だけの演技。顔をフレームアウトさせた声だけの演技。思っていることと正反対のことを語る演技。そこでスベってしまったらこの映画そのものが成り立たない大役ですが、野村周平さんはそこに見事に応えてきました。この成長ぶりには彼のこれから先の活躍にも期待せずにはいられません。

「結び」から登場したニューフェイスも全員すばらしかった。そもそも「ちはやふる」という映画はその魅力の多くを役者陣の息の合った奇蹟のアンサンブルに頼っていたわけで、そこに追加キャストが投入されることに不安を感じていたのはわたしだけではないと思います。案の定、菫を演じる優希美青さんも、筑波を演じる佐野勇斗さんも、既存の瑞沢かるた部のなかにいると微妙な違和感がある。その違和感すらもドラマに活用するキャスティングにはうならされました。彼らはいつわりの停滞にひたっている瑞沢かるた部をひっかき回し、違和感を与えるのがその仕事なのです。それだけで終わってしまえば二人ともただのイヤなヤツですが、波紋をひろげたあとで、しっかり瑞沢かるた部としての活躍が描かれているところも本当にソツがない。また破天荒な新人をサポートするという役柄がくわわってこそ、上白石萌音、矢本悠馬、森永悠希の三人、通称「瑞沢かるた部リズム隊」のド安定の演技が光り、それがブレないベースラインとなって映画を支えているのではないでしょうか。

賀来賢人は、なんなんでしょう、この人は。彼の演じる周防久志は、原作でも超然と浮世離れして、生身でこの役を演じられる人なんていないだろうというくらい“浮いた”存在なのですが、スクリーンにはじめて映ったときのその所作、目の演技に「ああ、周防名人だ」と納得してしまいました。映画においてはニューフェースなのに、まるで上の句が撮られる前から名人として「そこに居た」ようなこの存在感はなんなのでしょう。ほとんどジェダイマスターです。そしてパダワンを導くその厳しさと優しさは、ルーク・スカイウォーカーを超越しています。

三部作を俯瞰で見たときに、これは“太一の青春”三部作として一貫しているなぁ、という印象を持ちました。人としてうらやむべき資質を持ちながら、たったひとつ、本当に欲しいものだけは手に入らない。そのことを“しの”ばざるをえない、太一という男。綾瀬千早という映画の中心で輝く太陽。その太陽に脆い羽根で挑みつづけた太一という男に観客の視点がのるから、この映画は異常なほどの没入度があるのです。それでいて、主役の千早の存在感や魅力は決して損なわれない。広瀬すずは太陽でありつづける。こんなことが両立できる映画はそうはありません。

「絶対に忘れない――今、この瞬間がわたしたちの全て」。これがこの映画のキャッチコピーですが、ここでは青春というものが“瞬間”として扱われています。電光石火の競技かるた。躍動する若者たちの指先で、わずか一瞬で勝敗が決まる運命。その瞬間を映画に焼きつけてやれ、という撮影・照明・音響・美術の熱意は常軌を逸しています。撮影は前二作とおなじく柳田裕男さんですが、前作とはうってかわって動き回るカメラは、ドキュメンタリーのよう新鮮な生々しさを画面に与えます。いまこの瞬間、彼らはここにいるのだ、という存在感がハンパなかった。竹内久史さんの録音は、この映画のMVPではないでしょうか。とにかく音による緊迫感の演出がハンパないです。まったくの無音であったり、選択された音だけが流されたり、その演出も的確です。千早が「ほとどぎす」の下の句を見つけて泣くシーン。あれほどにぎやかで楽しかった上の句の場面が無音で挿入されます。あとづけの演出であることが信じられず、このシーンのために上の句はわざとがちゃがちゃにぎやかにやっていたのではないかと勘ぐってしまうほど、ここの無音は決まっています。そして千早の涙が畳をたたく音。涙が畳をたたく音なんて、ふつうに撮っていたらマイクが拾うはずがありません。それを拾う繊細さ。そこでインサートされるかるた部部室の情景。ほんとうに瑞沢かるた部が三年をそこで過ごしていたとしか思えない細部の凝り方。美術さん、グッジョブです。あるいは塾の自習室に流れるシャープペンシルの音。あるいはかつて太一が千早をおぶった「おんぶ坂」を映したシーンで挿入されるネコの姿。いま、この瞬間にしか存在しない絵・音。この瞬間をなにひとつこぼさないという気迫と繊細さが同居したこの映画は、ほら、おまえがいま映画館の席に座っている瞬間も時間は流れていくのだ、すべては変わっていくのだ、と煽ってきます。鬼のような映画です。

これだけで終わっていれば「青春は悲劇だ」という桐島、部活やめるってよとおなじ結論に達してもおかしくない映画です(千早と奏が屋上にいるシーンがマジックアワーであるのは桐島へのオマージュではないでしょうか)。そこにこの映画は、「1000年」というものさしを持ってくる。いまこの瞬間は、この青春は、過ぎ去って行く。誰にも止められない。でもそれでも人の営みは、人の思いは、人の恋心は、1000年先にも残ることがある。ことばが、思いが、1000年先の誰かの背中を押すことだってある。明日の長さは永遠と一日。この瞬間の思いが、1000年の過去と繋がることがあるならば、1000年先の未来に繋がることだってあるかもしれないじゃんか、こん畜生! そうであれ。繋がれ! 繋がれ! ……そんな思いが、この映画であるのだと思います。これは1000年先へのラブレターです。

1000年という恐ろしい長さの縦軸。綾瀬千早という不動の軸を中心に、そこに集う人々を誰ひとりとりこぼさない横軸。この縦横の広がりの膨大さは宇宙そのもので、それこそが「ちはやふる」という物語なのです。それを余すことなく映画化してくださった小泉徳宏監督には、ただ感謝しかありません。
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この世界の片隅に

  1. 2016/11/19(土) 01:53:00|
  2. 邦画
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映画、この世界の片隅に、を観た。

まったく唐突だけれども、わたしには少々困った友人がいる。
生まれたときからのつきあいで、なんの縁かは知らないが、かたときもそばを離れたことがない。
親友と呼んでもさしつかえのない間柄で、懐の深いその佇まいをわたしは愛してやまないのだけれども、やつには悪癖がある。
人なつっこい笑顔を見せたかと思うと、次の瞬間、ふいに顔を曇らせ黙り込むことがあるのだ。
気がおけない幼馴染みだというのに、わたしには決して触れさせない部分がある。
たわいもない戯れの合間に、ふと話題がそのことに及ぶと、能面のように無表情になり、黙り込む。
かと思えば、借り物のような味気ないことばで話題を流そうとする。
わたしは親友と呼びたいのに、どうしてもやつのその部分には触れられない。
魂に触れた、忌憚のない間柄だと云い切れない。

だからこの映画を見終えたときに、わたしは目に涙を浮かべながら、やつを抱きしめたい気持ちでいっぱいだった。
ああ、やっと本当のことを話してくれたんだね。
それはなかなか厄介だったね。簡単には口に出せないよね。それでも、やっと、やっと話してくれてうれしいよ。
わたしの友人の名を「日本」と云う。
友人がなんどもなんども口の端に浮かばせながら、70年も生々しい自分のことばに変えられなかった、その傷を「戦争」と云う。

太平洋戦争の戦没者、230万人という数字。
その数字だけで充分だったはずなのだ。とてつもない天文学的な数の死者。
それでも数字を見つめているだけでは、もどかしいくらいに手がとどかない。死んでいった人たちが、なにを見て、なにを聞いて、
なにを感じていたのか。そして遺された人たちが、どんな日々を過ごして命をつないでくれたのか。
どうしてもこの肌に感じられない。
それは「日本」のせいだろうか。とんでもない。恐ろしく近視眼的な、目の前のことしか見えないわたしの想像力のせいだ。
映画のことだけに限ってみてもいい。この70年間の膨大なトライアルを他人事にしてきたのはすべてわたしのせいだ。
「火垂るの墓」を観てわたしは泣いた。他人事として泣いた。節子はわたしの妹ではなかったから。
「沖縄決戦」を観てわたしは震えた。呆然として、それでも数日すると曖昧になった。わたしの近親者は沖縄にいなかったから。
「野火」のおぞましさに驚愕した。それでも拒食症になったりはしていない。昨日も今日も、きちんと食事をおいしくいただいた。
日々の営みをおくりながら、それでもこころのどこかにつきまとううしろめたさ。それも繰り返せばやがてあきらめへと至る。
そんな自分をこころの底で見下しながらも、余裕をぶっこいていたわたしを、ついに「戦争」の真芯に触れさせる映画が現れた。
それが「この世界の片隅に」だったのだ。

確認しておこう。この映画はアニメだ。
つまりはすべてのショット(カット)すべての描線すべての色彩を、制作者の意図のもとにコントロールできる。
そのことにここまで自覚的なアニメ映画を、わたしは知らない。
この映画の冒頭から泣いた、という人をネットでずいぶんと見た。おつかいに出かけた少女が街へ行く。なんということはない
シーケンスだが、タイトルが出るころにはわたしも鳥肌が止まらなくなっていた。この映画の細部に至る膨大な時代考証について
わたしは無知だ。そのわたしでもいま目の前で起こっているのがとんでもないことだと、直感で感じ取れた。
この映画の監督は、観客をまるごと戦時下の広島につれていこうとしている!
あなたがこの映画を映画館のどの席でみたのかは知らない。だがそこは戦時中の日本のただ中に飛び込める、特別あつらえの
プレミアムシートだったはずだ。すがめで見ることなど許さない。俯瞰などさせない。身体まるごと「あの時代」につれていく。
監督のそんな強い意志を感じて、ただ震えるしかなかった。

大潮の日、草津の叔父に三人がすいかをとどけに行く、あのシーンを覚えておられるだろうか。
眠り込んだ妹のすみを、叔父が揺り起こす。すみがぐずった声をあげる。
ああ、知ってる、そう思った。わたしは親類縁者と縁が切れているので、眠っている姪を揺り起こした経験などない。
それでもあんな風に眠りこけている子供の、頬についた畳の感触や、縁側のむこうから吹いてくるやさしい風や、
叔父のてのひらの優しい感触や、叔父の手にきっと伝わったすみの温かさをはっきりと感じた。
わたしの感受性がすぐれているなどと云いたいのではない。これは技術の結果だ。ディテールへの際限のない執着、世界を
まるごとつくりだそうという意志。その執着や意志が、わたしの過去から、近似値にある体験を引きずり出してきただけだ。
冒頭からつみあげたディテールと執念による世界の構築は、序盤のこのシーンでわたしからすでにスクリーンのむこうの
他人事という感覚を奪っていた。

昭和十九年、広島の江波に住む少女、浦野すずは、呉に住む事務官、北條周作に見そめられて呉に嫁ぐ。
この映画の大半が描くのは、それからのすずの、なんということはない日常だ。
“日常”?
すずが呉に嫁いだ昭和19年2月は、クェゼリン島で日本軍が玉砕した月だ。トラック島の空襲では巡洋艦那珂らが沈み、
翌月にはインパール作戦が開始されている。
そんな中での、銃後の“日常”で、すずは米を研ぐ。縫い物をする。早起きして井戸から水を汲みにいく。
すずは働き者だ。倫理的なことが云いたいのではない。映画はアクションであり、この映画はすずの動きまくる手足の描写の
集合体だ。映画の被写体としてすずは申し分ない“働き”をするのだ。
それは二つの意味をもたらす。ひとつは、懸命にうごきまわるすずに、観客はどうしたって感情移入せざるをえないという事。
もうひとつは、終盤でこの映画が描くある“喪失”の意味を、観客が充分に納得できるようにする事。

この映画は、ある意味でよきたくらみを秘めもつミステリーだ。
誰も思わない。米を研ぐ。縫い物をする。包丁をふるう。荷物をもつ。井戸から水を汲む。自転車を漕ぐ。庭の草を毟る。
それらのすべてがたくらみなのだとは。
だから終盤に至って、呆然とする。
自分たちの観てきたものが、唐突に変質し、別物になる様にただ驚愕し、震えるしかない。

そしてその時にはもう遅いのだ。
70年に及ぶわたしたちの回避行動はついに無為に終わったのだ。
他人事ではない。
すっきりと泣いて、映画館を出て、翌日には綺麗さっぱり忘れられるような可愛いしろものではない。
愛おしい日々、愛おしい風景。それらに観客が陶酔しているあいだに、監督はしっかりうしろの扉を閉めてしまっている。
すずさんは。すずさんの家族は。すずさんの住む街は。
他人じゃない。余所の街じゃない。
だから戦争とあなたは、他人ではない。

片淵監督は、こうの史代の原作のすごさを伝える代弁者である、ということをおっしゃっている。
この映画のすごさを語るときに、こうの史代の原作のすごさを伝えないのは片手落ちというものだろう。
おそらく片淵監督の意図によるものだと思うが、原作最終話のあのあまりにも力強いモノローグは、映画からすっぽりと
抜け落ちてしまっている。映画を観て原作を未読という方には、ぜひ一読を薦めたい。
映画を観る前に再読してみてあらためて感じたのは、ひょっとして戦争を題材とした創作は、女性にこそ適しているのでは
ないかということだった。
「戦争と平和」と「坂の上の雲」をならべてみたところで、林芙美子「浮雲」の凄味にはかなわない、と(個人的に)思う。
「この世界の片隅に」という映画を観て、もっともつよく類似性を感じたのは、近藤ようこの「戦争と一人の女」だった。
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著者近藤ようこさん御本人からいただいたことばを借りるならば「すずさんたちとは対極にいるような退廃的な男女の話」
なのだが、ステレオタイプ化された「戦争」からの脱却をみごとに果たしているという意味において、この両作は近い場所に
あると思う。この映画が琴線に触れたという人はぜひいちど手に取ってみてもらいたい。

最後に、このわたしの経験を話させてもらって、いいだろうか。

生まれてはじめての経験だった、と思う。映画のラストシーンが描く、呉の風景。そこから地続きの場所で、この世界で、
わたしの父や母がたしかに生きている。そうスクリーンのむこうの風景に感じるのは。

わたしは昭和四十三年生まれで、父は昭和十一年生まれだ。
映画の冒頭では父はまだ生まれていない。江波の岸辺に大潮がきた、あの翌年に父は生まれ、映画が描くすずの結婚生活の
期間を七歳から九歳の少年として過ごした。
いま父がどうしているかは知らない。ずいぶんとむかしに家を出て、二度と戻らなかった。いま、生きているのかもわからない。
記憶に残る父は、とにかく無口な男だった。自分の戦争体験については、ついにひとことも語らなかった。
父だけではない。多くの人が、みずからの戦争を語らない。「この世界の片隅に」を観た多くの人が、「ことばが出てこない」と
云った。それは「戦争」という体験を、生身で、あるいは映画を通して知った人の味わった人間として近似値の反応だと思う。

わたしには二重の断絶がある。実の父親と縁が切れている。そして父が語らなかったことによって、戦争とも地続きでは
なくなった。そのことがずっとながいあいだ、わたしの最大の傷であり、弱味だった。

この映画を観ることで、やっとその傷がすこし塞がった気がするのだ。映画の終盤で、なんならすずさんは、わたしの父の頭を
撫でてくれたのだ。わたしはこの映画にとても感謝している。やっと父の話が聞けた気がするから。

そしてもちろん、この映画の描く世界の、反対側の片隅に、あなたの父や、母や、祖父や、祖母がいたはずだ。
だからもう怖がらなくていい。うしろめたさを感じなくていい。
この世界の反対側の片隅に、あなたの萌芽はちいさくかたく潜んでいたはずだ。だからあなたと戦争はもう他人じゃない。
わたしと父が他人じゃないように。

おとうちゃんなぁ。
今晩な、やっとな、おとうちゃんの話、聞けたで。苦しかったやろな。つらかったやろな。歯がゆかったやろうなぁ。
それでもどうしようもあらへんもんな。おれが昭和の豊かさのなかで育っていくなかで、かけることばなんてあらへんかった
やろ。話してもわかってくれへん思うたんやろ。
でももう、わかったんや、おとうちゃん。
おとうちゃんの話がやっと今夜、聞けたから。
話してくれてありがとう、おとうちゃん。
この世界の反対側の片隅で、生きていてくれて、ありがとう。


おまえのやさしい声で ~ 映画 聲の形

  1. 2016/10/06(木) 00:18:13|
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ソロモン諸島の西に位置するパプアニューギニアでは、ビジン・イングリッシュとモツ語を公用語としながら、部族ごとに話す言語がことなり、その種類は1000を越える。
この世界にはおよそ5000の言語が存在するが、その五分の一がこの大きめの島一つのなかで話されている。
人口600万人の国に、1000の言語。
となればもちろん、話す人の数がごく限られる言語も多数存在する。パプアニューギニアは世界でもっとも多数の言語が消滅の危機に陥っている場所で、話者が200人以下に限られる言語が130もある。
想像してみて欲しい。
自分の話すことばが、書くことばが、この世界のうちのたった100人にしか伝わらなかったら。
たった10人にしか伝わらなかったら。
たった1人にしか伝わらなかったら。
そのたった1人と、一生めぐりあわなかったら。
自分には理解できない言語を話し、自分の話す言語を理解してくれないひとたちのいる世界で、あなたはどうやってすごすだろうか。
考えてみてほしい。
この世界。山ほどのコードと、山ほどの裏コードで織りなされた、適切なことば、適切な態度、適切な表情、適切な服装を要求してくるこの世界――それをすべてこなして、なんとかやっとわたっていけるこの世界で、他人のことばが理解できなかったら。
もし自分がそうなったら、わたしなら泣くか笑うかしかできそうにない。どちらも、人間がそれ以外どうしようもなくなったときにやる行為だと喝破したのはカート・ヴォネガットだ。
そして西宮硝子は後者を選択した。微笑むことを。

聴覚の障害により、世界との意思疎通に困難をともなう少女、西宮硝子。石田将也は転校してきた硝子がクラスに馴染めぬゆえに彼女をいじめはじめ、やがてそのこと自体がきっかけでいじめられる側に転じ、かつての硝子への態度を激しく悔いることになる。
原作のマンガも、映画も、障害やいじめといったナイーブな題材とまっこうから取り組んでいる。とくにこの映画では、硝子の声をあてた早見沙織の熱演もあいまって、観るものをいたたまれない気分にさせる。
抑揚の乱れた、聴覚障害者の発する声がいたたまれないのではない。
わたしたちが日々、仮面をつけてドアをくぐり、ギリギリの気分で電車にのり、ギリギリの気分で職場の同僚や学校の友達に微笑む、そんな暮らしのどこにも硝子の存在を受け止めるだけの余裕がないことを思い知らされて、いたたまれなくなるのだ。

しかしこの『聲の形』という物語の特異性は、そんな触れるだけで火傷しそうなセンシティブな題材にのまれることなく、むしろそれを逆手にとって、思春期に抱えるコミュニケーションの困難さという普遍的なテーマに昇華してしまったところにあると思う。どんな映画にも云えることだが、概要だけ聞いて二の足を踏んでいる人にこそ、ぜひ劇場に足を運んでもらいたい映画だ。

西宮硝子という存在は、障害をもっているにも関わらず、いつも微笑んでいて、自分をいじめている将也にさえ「友達になりましょう」と手話で語りかける「前向きで明るい」少女だ。感動ポルノだ!と指を突きつけるのを待ってほしい。彼女が、このカッコつきの前向きで明るい存在である理由は原作でもかなり終盤にならないと明かされず、映画ではついに彼女の口から語られることがない。西宮硝子は一種のブラックボックスとして、カッコつきの「前向きで明るい」存在として棚の上に置かれる。

そして彼女の周囲を衛星のようにめぐる他の登場人物たちは、まるで彼女の引力に引きずられるがごとく、自分のなかに黒々と鎮座する自分と他者とのディスコミュニケーション性について抉りだしはじめるのだ。

石田将也は、小学生のころの増長ぶりが嘘のようになりを潜め、すっかり他者とのコミュニケーションに絶望し、他人の顔をまっすぐに観ることができない。この映画にやたらと少女達のフェティッシュな生足が映るのはなにも大きなお友達の受容を満たすためではなく、他人を直視できないがゆえに足元を見つめながら生きていかざるを得ない将也の主観の反映だ。モブを含め、彼に拒絶されたキャラクターたちは顔に大きな「×」をつけられ、ちょっとピンク・フロイド ザ・ウォールを思い出させる。

植野直花は、硝子とは正反対(に見える)の社交性にあふれた少女だが、その攻撃性を他者にむけることを抑えられるほどには成熟していない。植野はパッと見にこの映画の敵役に見えるが、「あんたは結局、わたしと話すつもりなんてないのよ」と硝子が抱えたディスコミュニケーションを喝破し、正論しか吐けず他人を傷つける結果に涙する。彼女もまた、思春期のディスコミュニケーションに苦しむひとりなのだ。

佐原みよこというキャラクターに、内心共感を覚えていた人はじつは多いのではないか。彼女はかつて硝子に肩入れしたためにクラスから疎外され、不登校となる。そしてその自分の弱さを克服しようと努力する。その克服への告白が、上昇するジェットコースターの動きとシンクロするシーンの心地よさは、一瞬だけ映るフレアの入り込んだ青空とともに、この映画の「陽」の部分の白眉だろう。だが内心では彼女は自分は成長していないのではないかという恐れを感じていて、硝子と関わることでその恐怖とむきあうことになる。

川井みきは将也のいじめを「やめなよー」と半笑いでたしなめ、加害者には積極的に荷担しない。彼女はいちばんうまくコミュニケーションのゲームをくぐり抜けているように見えるが、裏では「仕切り屋」と陰口をたたかれ、みずから旗を振って千羽鶴をあつめようとしても、千羽をあつめきれない。まるでこのゲームを無傷でやりすごせる人間はいないのだとばかりに、彼女も涙にくれることになる。川井を偽善者と断じることは容易いが、断罪する指が自分のほうをむいたときに、わたしたちは果たして無実でいられるだろうか?

じつは誰よりも深い闇をかかえた真柴も、コミックリリーフの役を一身に担う永束も、少なくとも映画のなかでは血を流すことはなくとも、ひとりベッドのなかで枕をかかえて身悶えした夜があるはずだ。硝子の守護者であり、一見、彼らの青春とはファインダーを置いて距離をとっているようにみえる妹の結絃も、姉という巨大なディスコミュニケーションのブラックボックスの前で苦渋を味わう。

そして映画は、血だらけのディスコミュニケーションを描いたあとで、まるでそうなるのが当然というように、まっすぐに死にむかう。
橋での決定的な断絶のあと、この映画はおそろしく静謐で、なにかの予感に満ち溢れた夏休みに突入する。
画面からモブが消え、養老の滝や、養老天命反転地をさまよう硝子と将也はまるで世界から迷子になったようだ。
そして美しく、無残な、花火が夜の闇を照らす。

この映画が素晴らしいのは、死の予感に満ち満ちた夏休みから、一転、生への希望を描く、その反転の手並みが素晴らしく容赦がなくかつ周到だからだ。映画がタイトルバックからひたすらに描きつづけた、落下。将也が本来であれば映画がはじまって一分で飛び込むはずだった、「高い橋」。それを妨げる花火。「墜ちるなよ、少年」という警告のことば。繰りかえされる川への落下。これだけの手筈を踏んで、ようやく仮死を経て再生へといたる、本物の生が描かれる。それに触れることで、西宮硝子のブラックボックスは開放され、表情は豊かになり、一転してベクトルは死から生へとむかう。

この映画の前半は小鳥たちのためのチュートリアルであり、いつかフレームにおさまる、飛翔する二羽の鳥をとらえるためのはばたきにすぎなかったのだ。

そこからの最後の顛末は、どうぞ自分の目でたしかめて欲しい。綺麗事と目をそむける人もいるかもしれない。あたたかい希望に涙する人もいるかもしれない。
どちらの方も、監督・山田尚子が、その気になれば全身の皮膚を総毛立たせるような、瘴気あふれる本物の“死”を描ける作家だということを忘れないで欲しい。たとえそれが“過程”であってもわたしの目はごまかせない。
惜しむらくは、思春期の普遍的な問題によりすぎてしまったために、障害者としての硝子が現実とどう折り合いをつけていくのか、その具体的な行為が描かれなかったことだ。しかしおそらくは原作者も、監督も、本当に描きたかったものはそこではないと思う。

この文章を、わたしはMSゴシックのサイズ10で記している。
この世界に、わたしのことばを理解できる人がどれくらいいるだろうか。一億人? 二億人?
この拙いブログの文章を読んでくれる人がどれくらいいるだろうか。十人? 二十人?
わからないけれども、どちらにしろわたしは自分のことばがどこかに伝わるであろうという幸運にあぐらを書いてこの文章を書いた。
それすらもできず、はかりしれない孤独を抱えて、自分のなかだけでことばをぐるぐると回している人がきっとこの世には居る。
何度もこのことばを出して申し訳ない、そのことを考えると本当に、いたたまれない気分になる。
どうか、自分が、世界が、もう少しだけやさしく、もう少しだけ余裕をもてて、硝子のような人々の声に少しでも耳を傾けられますように。
あなたのやさしい声で紡がれることばが、どうか、誰かの耳にとどきますように。
勇気をだして、両手をあげて、「友達」のかたちをつくる。
その小さなきっかけに、この映画が成ればいい。

たそがれ酒場

  1. 2015/05/27(水) 23:44:48|
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 酒の席で日本酒を頼む。そのときに人肌で、とひとこと添えてみたいという憧れがある。
 下戸とは云わないが、晩酌の習慣を持たず、酒に溺れたこともない私にはわからないが、酒飲みのあいだには秘儀めいたしきたりというものがあるらしい。
 燗の温度の指定などもそのひとつで、温度の高いものから順に、飛びきり、熱燗、上燗、ぬる燗、人肌、日向(ひなた)。まるで呪文だ。人肌燗はぬる燗の40度よりも若干低めの35度。なるほど、人肌である。
 人間の肌の温度にあたためられた酒を口に含んで酔う、というのはなにやら艶めかしい行為ではないか。
 アルコールを飲む行為そのものが人との距離を縮めるから、艶容さはいや増す。
 自分の知らない、人の生々しい深奥をのぞく、神秘めいたすべを酒飲みは知っているのではないか。
 これは飲酒の習慣とは縁遠い人間なら、誰でもいちどは妄想する類のものだろう。
 
 内田吐夢の「たそがれ酒場」は、ひとつの酒場の店内に舞台を限定した映画だ。
 ベネシャンブラインドの隙間からたそがれの陽が差し込む開店前の酒場を冒頭とし、あかりの消えた明け方の酒場をラストショットとする。
 夢のような一夜のあいだに、さまざまな人々が酒場にあつまり、酔い、去っていく。
 終戦から十年。未舗装の道路にむかって開け放たれた入り口からは土の匂いが漂ってくる。くすぶった紫煙の匂い。笑い声。怒声。野次。女給たちの姦しい声。汗。ピアノの音。そして歌声。
 騒然とした「たそがれ酒場」で飲む酒は、ここちよい人肌にあたたまっていそうだ。
 
 冒頭、開店前の酒場からはじまる長回しが印象的だ。
 テーブルの上にのった椅子の林のむこう、スクリーンの下方から、小杉勇が演じる元絵描きがのぼってくる。この酒場は道路から一階ぶん階段を上がった場所にあるのだ。元絵描きがゆっくりと視線を上げる。すると思ってもみなかった場所に、ピアノが据えてある。酒場の床からさらに上へとのぼる、広い踊り場のような場所だ。
 そこでは小野比呂志演じるピアノ演奏家と、宮原卓也のバリトン歌手が、演奏をつづけている。
 中二階のような場所にピアノがある、という構造にまず驚く。そして小杉勇の見上げる目線から、ピアノ演奏家とその弟子の奏でる歌が、この映画においては地上(グラウンド・ライン)よりもツーステップ高い場所、俗世から浮いた気高い場所にあることが示される。
 歌というものの持つ意味が過多で、肩を組み合う戦友のようなものだった時代。
 素っ気なくスピーカーから流れる有線放送の代わりに、生演奏と生の歌声をとどける歌声喫茶があった時代。
 この映画が描いているのはそんな時代だ。
 
 シューベルト、チャイコフスキー、「カルメン」、歌謡曲、軍歌、労働歌。
 ジャンルもでたらめな曲の数々が、客からのリクエストとして挙がるのだが、演奏家と歌手は黙々と仕事をこなす。
 選ばれる曲のチャンプルーぶりが、そのまま「たそがれ酒場」に集まる人種のごった煮感を表現している。
 サラリーマン風の三人連れがいる。
 はちまき姿の労務者たちがいて、スーツをぱりっと着こなした新聞記者の一団がいる。
 いまではただの競馬狂いになった元軍人と、その上官がいる。
 バリトン歌手は人気ストリッパーに秘めたる慕情を抱き、女給のひとりは地回りのやくざと敵対する流れ者に恋をする。
 
 群像劇が好きだ。「マグノリア」や(ハギスの)「クラッシュ」などは大好物だ。そこに「グランド・ホテル」を嚆矢とするアンサンブルキャストの一群をくわえても、「たそがれ酒場」はそのどれともことなる。映画を縁取る構造物が違うのだ。
 グランドホテルの客をへだてる壁は、たそがれ酒場にはない。
 酔客はみな、たがいの肩が触れそうな場所に座っている。
 わけへだてしない、距離の近さが「たそがれ酒場」の最大の特徴だ。
 清濁あわせ飲んだその場所は、酒場というよりも巨大な混浴風呂のようだ。
 
 「たそがれ酒場」のチャンプルー感がもっとも顕著にあらわれているのが、加東大介演じる元軍人と、その元上官の東野英治郎が激昂するくだりだ。
 酒場に、学生服を着た一団と、彼らの恩師らしき人物が来店する。
 彼らは店に、ぬやまひろしの「若者よ」のレコードをかけてくれるように頼む。

 ♪若者よ 身体を鍛えておけ
  美しい心が たくましい身体に
  からくも支えられる時が いつかは来る♪
  
 その歌詞に、元帝国軍人たる東野英治郎が逆上する。なんと生ぬるい歌を!というわけだ。尾羽打ち枯らした彼らにしてみれば、若さを鼓舞するようなその歌声は耐え難い。
 そこへ、窓の外から人々の歌声が聞こえてくる。聞けば、懐かしの軍歌、「歩兵の本領」だ。喜び勇む東野と加東だったが、実は窓の外の群衆が歌っているのは、労働歌として替え歌された「聞け万国の労働者」だった、というオチ。
 激昂する東野を、はちまき姿の労務者がにらみつける。労働者の味方である学生を、旧態依然とした元軍人などが抑えつけるのはとんでもない。
 一方では、瞳に挫折を宿した、時代が異なるならば「アカシアの雨に打たれ」たような風情の年かさの学生たちが、襟首のぱりっとした学生服を、苦々しげに見つめている。
 いったいこの構図はなんなんだろう?
 
 考えてもみてほしい。
 現代。日曜日の午後一時、駅前のサイゼリアに、バナナリパブリックのブレザーにびしっと身を包んだアッパーミドルの父親が、そつなく着飾った娘を連れてやってくる。
 店の中にはGAROの新台開店で当てが外れたリフォーム専門の塗装工が居て、羽振りのよさそうな親子に絡み始める。
 それを定年退職した団塊世代の元公務員が止めに入る。
 その騒ぎを、ミラノ風ドリアをつつきながら、雇い止めにあったばかりの派遣社員が苦々しげに見つめて、手にしたiphoneでヘイトスピーチをネットに撒き散らす。
 やがて物憂げなイタリア民謡を流すスピーカーが、初音ミクの千本桜を流しはじめて、店内の客たちは世代の差も立場の差も超えて、肩を組んで歌い始める。
 そんな構図を思い描くことができるだろうか?
 わたしたちは目に見えない壁に十重二十重に取り囲まれ、いつのまにか息をすることすらままならない。壁は誰にも見えないけれども、そこを越えることは許されず、もはや壁のない世界を想像することすら難しい。
 街のどこにもゲットーはないけれども、立場のことなる人と、混み合った酒場で相席する機会すらこの身には過ぎた恩恵だ。
 そんな身にしてみれば、たそがれ酒場のごった煮な空気は、切ないような、情けないような複雑な憧憬を呼び起こす場所だった。
 
 人肌の、その温度。
 生ぬるい空気に慣れてくると、映画が進むごとに、この酒場がまたとない、かけがえのない場所に思えてくる。
 そこは楽園ではなく、そう描かれてもいない。ため息もあれば、涙もあり、あげくの果てには刃傷沙汰もある。
 だけどもとりあえず、とりあえず、自分とはまるで異なる人種が、同じ酒場のとなりの席にいてくれる。それだけのことがとんでもない恩寵だと思えてくる。
 ほろ酔い加減で振りかえれば。
 酔客に煙草を売って回る老女がいる。彼女はうろたえ気味に煙草を差し出し、拒まれ、また今夜も売れなかったとため息をつくのだ。
 ほろ酔い加減で振りかえれば。
 席から席へと八層飛びのごとく駆け抜けて、他人から酒をかすめとるお調子者がいる。どんな人にも愛想がよく、適当に話をあわせ、その実彼にはなんの内実もないのだ。
 ほろ酔い加減で振りかえれば。
 戦争孤児となった女給がいる。彼女は流れ者に大阪への逃避行を誘われるが、病気の母と幼い妹のために、この街にとどまることを選ぶのだ。
 ほろ酔い加減で振りかえれば。
 ストリッパーの女がいる。彼女は初心なバリトン歌手に恋心を寄せられ、そのことを歓びつつも、無邪気に浮かれることができない我が身を呪い、それでも微笑みを返す。
 振りかえれば。
 たそがれ酒場の席のあちら、こちらに、見知った顔が見える。貴方の。そしてわたしの。
 わたしたちはたったひとつの酒場で席をおなじくし、酔った頭のなかで手垢のついた夢をもてあそび、酒のちからを借りて毎晩のごとく飛翔をこころみるが、たどりつく先はため息と苦笑いの漏れるグラスの上だ。
 わたしたちは互いにどうしようもなく孤独で、互いの傷をどうすることもできず、ただおなじ場所に存在するだけだ。
 それでも、目線を同じくする場所に、この場所に生を受け同じく死ぬ運命にあるのだという実感だけが、わたしたちを救うのではないだろうか。
 
 「たそがれ酒場」という映画は、フレームの奥行きを出すために、面白い試みをしている。
 前述のとおりこれは群像劇で、座席のひとつを選んでドラマが進行するのだけれども、X軸のむこうがわで、必ず他のうごきがあるのだ。
 たとえば地回りのやくざ(丹波哲郎!)がひそひそ声で悪巧みをするむこうで、元軍人が競馬新聞をめくっていたりする。
 座席のあいだをひっきりなしに他の客が歩き回り、あるいは店に入ってきて、あるいは店から出て行く。その合間を縫うように女給たちの元気な声が響く。
 加藤大介演じる元軍人などは、デモ隊の歌う労働歌に激昂し、店からふいと出て行ってしまい、戻らない。そのまま「たそがれ酒場」から、この映画から、この物語から、退場してしまう。
 彼の退場をいぶかしんでいるヒマはない。新しい客が、新しいシーンが、新しい物語が、つぎつぎにこの酒場にやってくるのだ。
 そのうちに「たそがれ酒場」という場所が、なにかの隠喩ではないかという疑いが芽生えてくる。
 わたしたちはふらりとこの店にやってきて、まばたきのようなわずかな瞬間、出会いを繰り返すのだ。そしていつか千鳥足でこの店を出て、こう思うのだ。ずいぶんと酔い、そして喉が嗄れるまでよく喋ったものだ、と。
 「たそがれ酒場」という映画は90分ほどで終わってしまうけれども、エンドロールのあとで暗くなった画面を見つめていれば、やがてすでに顔なじみになった彼らは帰ってきて、また酔ってくだを巻始めるのではないかと期待してしまうのだ。
 これは奇蹟だと思う。すでに鬼籍に入ったひとも多い、役者の演じる彼らに、わたしたちは実在感を感じる。映画というのは、人類が発明した唯一の奇蹟なのかもしれない。
 映画になにを求めるのか。人それぞれだろうと思うけれども、わたしはきっとそこに人肌を求めているのだと思う。わたしはきっと寂しいのだ。人と人の肌が触れ合う、リアルな瞬間に出会って、驚いてみたいのだ。
 
 わたしに「たそがれ酒場」の存在を教えてくれたのは、とある知人のひとりだ。彼女は今月、亡くなった。
 与えられたものだけが多く、返し得た恩はあまりにも小さく。勇気のなさからかけることのできなかった言葉の数々は、わたしを責め立てた。わたしは絶望し、途方に暮れた。そんなときにこの映画のことを思い出した。
 
 映画好きにとって、眠れぬ夜を癒してくれる映画の一本を教えてくれることが、どれほどありがたい恩恵か、わかるだろうか。
 たとえ眠れぬ夜が、その人の不在がもたらしたものであったとしても。
 永遠に消えることのなくなった寂しさを抱えたことを痛感しつつ、いまのわたしは満ち足りている。彼女とふたたび出会えることのできる場所を、見つけたからだ。
 
 そこには死んだ人間も、生きた人間も区別がない。
 死んだ役者がリアルな生を見せつけるその場所に、そんな区別など意味のあるものか。
 くだらない歪んだプライドが見せつける壁など越えて、いつかまた、「たそがれ酒場」に行こう。
 そこにはすべての人間がいるはずだ。決して楽園ではない。ため息も涙もある。
 それでもそこには、みんながいるはずだ。
 
 本当にありがとうございました。
 ご恩は忘れません。安らかにお眠りください。
 いつか、また、たそがれ酒場で会いましょう。
 
 

5つ数えれば君の夢

  1. 2014/12/16(火) 23:20:10|
  2. 邦画
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東京女子流の少女たちがはしゃいでみせる、楽しいエンドロールで、本作はその本質が「アイドル映画」であることを
てらいもなく晒してみせる。

じゃあ「アイドル映画」とはなんぞや、ということになればこれは制作者と観客がある共犯関係を結ぶことになる映画、だ。
わざわざ云ってみせるのも恥ずかしいが、その犯罪とはもちろん窃視であり、本来は自然に属する「少女」を枷にはめ、
その枷からいまにも突き破って出そうな少女の「素」の存在を匂うことに歓びを感じる残酷ショーだ。

なんだっていいけれど、たとえば大林宣彦版「時をかける少女」を思い出してみよう。
弓を構える原田知世に、ぐーっとカメラが近づく瞬間、そのカットのわずかな冗長さ、そこに籠もった熱に、我々は
制作者からの「どや、この娘、ええやろ?」という目配せを受け取るわけだ。そして「ええです。監督、ええですわ」と
こころの中でうなずきつつ、表面はただの無害な映画観客を装って、なにくわぬ顔で劇場をあとにする。
アイドル映画ってのはそんな完全犯罪を積み重ねて、ここまできたわけですね。

ところが、この「5つ数えれば君の夢」は、あまりにもその犯罪の手管がずさんなんですわ。たぶん、意図的に。
手品の用語に、サッカートリックというものがありまして。
まぁ、これは手品の最中に不器用なフリをして、わざと失敗するんですね、で、観客をぎょっとさせて、最終的には
成功させる。はらはらしたぶん、最後に綺麗に決まったときの観客は倍増する、というそういう仕組みです。
この映画はアバンタイトルすべてをサッカートリックに使っているという、なんというか奇特な映画です。

冒頭、教室に少女たちがいる。それぞれ別々に会話を交わしながら、どうもみんな画面のこちら側を気にしている。
で、画面が切り替わると、新井ひとみ演じる主人公のひとり、サクという少女が、教室のうしろの棚の上に寝そべってる。
いまどき、奔放な少女を表現するのに、教室のうしろの棚の上に寝そべる、なんてありますか!?
昭和が終わって二十六年も経ってるのに!?
で、サクはクラスメイトが話題にしているミスコンテストのことなんてどうでもいいやとばかりに教室を飛び出す。
で、廊下に出てスキップを始めるんですが。
このスキップが死ぬほどぎこちない。
これもまた、サクの自由奔放さを表現しているのかもしれない。でも結果として画面に映っているのは、演技しろと
云われて要領を得ないまま、とりあえずスキップしてみた新井ひとみ本人の不器用さです。
もう、映画の枠組みの域を超えて、いつ東京女子流の彼女らの「素」が飛び出してくるかわからないスリリングさです。
そして主役の女の子たちそれぞれを画面に据えた、いまどき滅多にみないダサいスプリットスクリーン。
あまつさえ、画面に出たタイトルに合わせて、彼女たちがタイトルコールしてくれます。
「こんにちは、東京女子流です! わたしたち、いま映画に出てます! これから演技します! よろしくね!」
そんなメッセージが伝わってきて清々しいですが、こっちはかけらも物語世界に没入できません。

はからずも、この拙い導入で、こちらはアイドル映画の犯罪性について、しみじみと実感せざるを得なくなり、死ぬほど
居心地が悪くなります。
女子校の文化祭を舞台にした映画といえば中原俊『櫻の園』(1990)が思い浮かびますが、あの作品は本作とは
対照的に、じんのひろあきの脚本に少女たちをがっちり縛りつけた、作り物のまさに箱庭的世界でした。
その作為性ゆえに、われわれ男性は窃視的犯罪性を意識することなく、少女たちの世界に浸れたのです。
ですが「5つ数えれば君の夢」は、絶えず「少女を演じている少女」の存在を意識させつづけます。
となれば、こちらもアストラル界を浮遊する霊体などではなく、四十過ぎたおっさんとしての自分を意識せざるを得ません。
現実で、四十過ぎたおっさんがサムネにあげた小西彩乃の顔がアップで見えるくらい近づいたら逮捕されてしまいます
ので、居心地の悪さは耐えることがありません。

ところが、です。
カットの数が激減し、カメラがどっしりと腰を落ち着け、山戸結希という監督が恐ろしく長いブレスを隠し持った監督である
ことに気づくころには、「演技をしているように見えない」少女たちの拙い演技が、違った意味合いを持って見えるように
なります。

文化祭の前夜から当日を頂点として、(物語上の)少女たちの関係は煮詰まります。
さくの、都の、委員長の、苦痛と情熱が、彼女らの口を通して語られます。
正直、脚本の出来は不自然です。わたしが後半で思い出したのは黒沢清「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の洞口依子の
長ゼリフで、まぁいまどきの女子高生の口から「にんぴにん」なんてことばが出てくることはないでしょうから、
彼女たちは完全にセリフを云わされているだけ、です。

ところがそのセリフが、その文面の意図することとはまったくべつに、こころに響くんですね。
朗読、というものが文章の受肉であるように。
哲学的な(監督は哲学科出身らしいです)穿ったセリフが、ことばの意味とはまったく違うところで生々しさを持ってしまって
いる。生きた少女の、生きた声帯を通した、艶めかしい、湿度をもったことばに聞こえるのですよ。

新井ひとみがクライマックスで爆発的に踊るダンス。
まぁ、ナポレオン・ダイナマイト的と云いましょうか、日本だと市川順の「BU・SU」なんてありましたが、まぁ青春映画の
クライマックスではありふれたものと云っていい。
でも直前の、セリフ棒読みなんだけれど魂の籠もった(語義矛盾だなぁ)朗読のあとだと、それがひどく感動的に見えて
しまうんですよ。

あるいは、中江友梨の演じる委員長の、ある告白。これもまぁ、告白の内容は、うん、わかる、というものです。
フェミニズム的視点のある悲痛な逆転、というのが描かれて印象的ではありますが。
ただこれも、聞いてる側は「委員長」の吐露なのか、中江友梨の吐露なのかわかんなくなるんですね。
そのスリリングさ、生々しさ、危うさ、というのが本作の魅力ではないでしょうか。
その意味ではこの映画は「アイドル映画」の王道だと思います。

最後に。
この作品でいちばん印象的だったのは、女子校の少女たちの百合的恋愛感情、ではなくてですね。
彼女たちの視点から描かれる、男たちの、それこそ犯罪的なまでの鈍感さですね。
愚鈍で粗野な男、というのは映画で山ほど描かれてきたわけですが、この映画の男たちは違うんですよ。
知的で、相手をきづかう能力もあり、なんなら魅力的と云ってもいい。
ただ、どいつもこいつも凄まじく鈍感なんですよ。目の前にいる女の子がそもそもなにを悩み、彼らになにを求めて
いるのか、かけらも理解していない。
他人の目を通して自分の姿を見る、というのは映画における最大の歓びだと思っています。
そんな意味ではこの映画はロスト・イン・トランスレーション級の「他人から見た俺」映画だったと思います。

致命的なまでに鈍感な男たちに、救いを求めざるを得ない女性という存在に同情を示しつつ、本稿を終わります。


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