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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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LOGAN/ローガン

  1. 2017/06/11(日) 12:29:22|
  2. 洋画
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 生花市場がはじまる時間になると、重彦はひとりでに目を覚ます。
 真っ暗な天井をかすんだ瞳で見上げながら、重彦はのどの奥でうなり声をあげた。身に染みついた習慣というものは、ときに人を腹立たしい気分にさせる。花屋の看板をたたんで、ささやかな家財を軽トラックの荷台に積め込み、眠らないあの街をあとにしてもう二十年になる。故郷の地にふたたび根を張るには充分な時間だ。生まれ育ったこの家の大黒柱には、重彦が五歳のときにつけた背丈の傷が刻み込まれている。それなのにいまでも大田市場のセリの声がまどろみのなかに聞こえてきて、おまえはとんでもない寝坊をしたぞと囁いてくるのだ。
 腰を痛めないように苦労しながら寝床から出ると、全身に寝汗を掻いていることに気づいた。建てつけの悪い窓を通して、潮騒の音が聞こえてくる。ここは千葉の片隅の、地図の上でしか名前を覚えているものがいないような寒村だ。
 ホームエネルギーマネジメントを導入したあたらしい家を建て直そう、という娘たちの誘いを、重彦は断りつづけていた。老い先短い身に、どうしてそんなものが必要なものか。どうせすぐにお迎えがくる……自分が老人らしいひがみに流されかけていることを感じて、重彦は首を振った。
 顔をあらって……いや、やはりシャワーを浴びた方がいい。それから凜が起きてくる前に、ゆっくりと朝食をつくろう。
 二日酔いでもないのにふらつく足に気合いを入れ、重彦は洗面所にむかった。
 台所の明かりに気づいて、足を止める。
「凜……」
 三人の娘たちはみな早々に嫁ぎ、計ったようにきっかりと、それぞれ三人の孫を産んだ。いまでもなんだかんだとみな重彦を慕ってくれて、正月には勢揃いした娘や孫たちが、台所にひしめきあう。年寄りがあまり口を出したり、手を貸したりしない方がいい、そう思った重彦は特注の大きなクルミ材のテーブルを買うにとどめた。
 十五人は掛けられる大きなテーブルに、凜がひとりでちょこんと座っている。紅柿色のカーディガンにつつまれた、うすっぺらい身体。腰まで伸びた長い黒髪が、痩せた肩の上でばらけていた。やせこけた指にはスプーンをつかんでいる。テーブルの上にランチョンマットが敷かれ、その上に白い陶器のシリアルボウルが置かれている。凜はそこからシリアルをすくって口元へ運んでいる。
 胸に刺さってくるような孤独な光景だった。この子はいつも独りを好む。正月に親戚同士があつまって騒いでいるときにも、すっと身を引いて、居間の柱にもたれて本を読んでいるような娘だ。
 憮然と立ちつくした重彦の顔を、凜が見つめかえしてきた。口のまわりに牛乳がついている。きょとんと見開いた大きな瞳は、亡くなった妻にそっくりだ。孫のなかで、凜の顔立ちにだけ房枝のおもかげが残っている。
「凜、おまえ……」
 重彦は云った。
「また夜中に抜け出したのか」
 カーディガンの肩に、松の葉っぱがついている。誰かに撫でつけられたように、頬には泥汚れがついていた。
 凜は、返事を惑うように一瞬、天井を見つめ、それからまた重彦の顔を見た。
「おじいちゃん」
「ああ」
「……怒る?」
「いや」
 答えながら椅子に腰かけようとして、思わずうなり声が出る。この孫娘の前ではしゃんとしたところを見せてやりたいが、歳には勝てない。
「どこに行ってたんだ」
「海岸沿いに、ずっと」
「おまえみたいな年頃の娘が、そんなところを夜中にうろついて、楽しいものかね」
 凜はスプーンを置いて、首を傾げた。
「おじいちゃん、腰を揉んであげようか」
 重彦はいまいましい思いで、首を横に振る。
「おまえに何かあっても、すぐに飛んで駆けつけてやれるような身体じゃない。あまり心配かけるな」
「心配なんて、いらない。誰にも会わなかった」
「人の数よりカモメの数が多いような村だからな。だが、そういうことじゃないだろう」
 おまえのお母さんは、心配しすぎて疲れてしまったんだ。そんな大人げないことばをぐっと飲み込む。飲み込んだことばの中身を、凜が察する。すっと視線が逸れた。この年頃の子供というのはみんな超能力者のようなものだ。こと、親やまわりの大人たちの不甲斐なさを察知することに関しては。
 ネコを思わせるような優美な仕草で、凜が立ち上がる。シリアルボウルをもって流しの前に立つと、すぐに流しを水が打つ音が聞こえてきた。
「『あの池のアヒルたちは、池が凍ったときにはどこに行っちまうんだろう』」
 手元を見つめたまま、凜が謎かけのようなことを云う。
「なにかね、それは」
「なんでもない」
 凜はふりかえり、おぼつかない微笑をみせる。
「昼間はあんなにさわがしいカモメたちが、夜にはどこに隠れてるんだろうって思っただけ。じゃあ、あたし、もう寝るね」
 座った重彦の横をすりぬけて、凜は立ち去る。
 すれ違うとき、掘り返したばかりの土の匂いがした。これが五歳の娘ならば泥遊びも微笑ましい。凜はもう十四歳だ。
 それから長い時間、重彦はテーブルクロスの模様をじっと眺めていた。まるでそこに人生の真理が潜んでいるとでもいうように。
 いつのまにか、窓の外が明るくなってきていた。


 しばらく凜をあずかってほしい。
 そう連絡してきたのは、末娘の柚香(ゆずか)だった。
「いやねぇ、ほんとはいい娘なのよぉ」
 言い訳のようにそうつけたしたのが、いかにも柚香らしかった。
 しっかり者の姉ふたりと違い、のんびり者に育った柚香は、どんなときでもまるで茶飲み話をするようなおっとりとした口調で話した。
「あの年頃だからねぇ。いろいろ難しいこと考えてるんでしょうけれど、あたしには話してくんないのよ。ただ、どうしてもお爺ちゃんのところに行きたい、の一点張りでねぇ」
 ときおり、人は花のようなものだと思う。自分に適した土壌に種となって潜り込み、そこで勝手に花を咲かせる。
 長女の茉莉花(まりか)は手が掛からないが、いちどこうと決めたら自分の筋は曲げない娘だった。京大を出て国会の速記者を三年務め、職場で結婚相手を見つけて、惜しげもなくキャリアを投げ出した。母に似て気の強い自分の優秀さを疑ったこともないような三人の息子たちは、いまでは仲良く母の母校に通っている。
 町田の外れで小さな美容院を営む次女の杏子(きょうこ)は、三人の娘に恵まれた。ひとりの娘はバックパッカーになって世界を駆け回り、ひとりは水泳好きが高じてインストラクターになり、ひとりは杏子の店を継ぐと宣言している。どれも杏子に似て器量がいい娘たちで、重彦の寿命が持てば、曾孫の顔が見られるかもしれない。
 自立心旺盛な姉ふたりに囲まれて、末っ子の柚香はひたすらマイペースに育った。短大を出てそこそこの規模の商社に一般職で入社し、そこそこの男と結婚して子供をもうけた。次男は高校の陸上選手で、長兄はアマレスに打ち込んで青山学院大学のレスリング部に所属している。どちらも身長190センチを越える偉丈夫だ。末っ子の凜は、まるで兄二人に養分を吸い取られたように、小柄で冴えない娘に育った。
 その凜が、中学にあがってから学校に通わなくなり、自宅学習に切り替えた。ここ二年ほどは、正月にも顔をみせなくなった。それが急に、重彦の家で暮らしたいという。重彦に断る理由はなかったが、老人ひとりで年頃の娘の相手ができるものか、気に病みはした。
 心配が杞憂にすぎないことが、暮らしてみてすぐにわかった。柚香は手を抜けるところはすべて手を抜くような娘だが、孫の凜は炊事のときには重彦とならんで立ち、洗い物もちゃんとする。洗濯も重彦のぶんまで片づけてくれた。フルオートフードプロセッサーと、分別機能付き洗濯機のある家庭で育った娘とは思えない。
「本で、覚えたの」
 どこで家事を習ったのかと訊いたら、そう答えた。それはそれで得難い資質だと思うが、IoTが隅々まで普及した街のくらしでは、あまり重宝されることではない。
 ともあれ、老人と孫の、奇妙な共同生活が始まり、そして一ヶ月が過ぎた。
 凜は昼間は寝ていて、夕方くらいからふらっとどこかに出かけたかと思うと、縁側で爪を切る重彦のうしろに気がつくと座っていたりする。そんなところもネコに似ていた。過干渉はしないと決めてあった。凜のようなタイプは、きつく叱れば、表面だけおとなしく従ってくるような気がしたからだ。それでは、わざわざ家を離れた意味がない。
 凜は、親と約束した自宅学習のプログラムを黙々とこなしてはいるようだ。学業をおろそかにすれば、柚香にすぐにアラートが行くはずだが、そんな気配はない。ときにぼうっとした瞳をして宙を見つめ、重彦にはなにかを待っているように見えた。それがなにかは知らないが、いっしょに気長に待ってやるしかない。
 独居生活が終わっても、重彦の口数はさほど増えなかった。
 凛は昼間は寝ているので、昼食は重彦ひとりでとることが多かった。洗い物を片付けてしまえば、年金生活の老人にやるべきことはそう多くない。縁側に古い商売道具である花器を持ちだし、布巾で磨くくらいがせいぜいだ。
 都落ちしてくるときに、あらかたの花器は他人に譲ってしまった。手元に残っているのは、どれも房枝が気に入っていた花瓶や壺だ。納屋の奥で埃をかぶせるには忍びなく、ときおりこうやって風に当てて、磨いてやることにしている。
 他に見るものとてなく、視線は自然と庭に向かう。
 重彦は庭の手入れに熱心な方ではない。草むした猫の額ほどの庭に、タイヤのない、錆びた軽トラックが転がっている。
 新宿で花屋をしている時は、それこそ馬車馬のように働かせた車だ。こちらに帰ってきてからは、重い鉢植えを運ぶこともないし、あったとしてもカーシェアリングでこと足りる。撤去してしまうのも忍びなくて、そのまま錆びるにまかせている。
 自分など、きっとこの役目を終えた軽トラックのようなものなのだろうと、重彦は思い、気が重くなる。
 花瓶を磨きながら、知らず、うとうととしてしまったらしい。
 突然、肩を激しく揺さぶられ、重彦は慌てて目を覚ました。
 視界いっぱいに、目を見開いた凛の顔が広がった。
「おじいちゃん、鍵!」
 耳のすぐそばで怒鳴られても、なんのことか要領を得ない。
 しばらく睨みあったあとで、埒があかないと思ったのか、凛は身をひるがえし、そこらじゅうのタンスや棚の引き出しを漁り始めた。
「鍵ってお前、なんの鍵だ」
 尋ねても返事はない。凛はこわばった横顔をこちらに向けたまま、なにかを探し続けている。
 まさか、と思った。
「軽トラックの鍵なら、仏壇の引き出しだ」
 まさか、が当たったらしい。凛はすぐに鍵を見つけると、縁側に座り込んだ重彦の腕をぐいぐい引っ張り始めた。
「早く、おじいちゃん、あんまり時間がないの」
「いったい……」
「早く!」
 凛は重彦の腕を引いたまま、そのまま素足で庭に飛び出す。重彦はあわてて草履を履くと、凛のあとに従った。
 凛が軽トラックのドアを開けると、派手な軋み音が響いた。そのままドアが外れて落ちなかっただけでも幸運だ。
 運転席に乗り込んだ凛は、そのままシートの上を移動して、助手席に移った。ドアの外で呆然と立ち尽くす重彦に手を伸ばす。
「おじいちゃん、早く乗って! あたし、運転できないから」
 凛の表情は真剣そのものだった。冗談とも思えない。
「しかし……」
 重彦はとっくに免許を返納していた。そもそも、そんな話ではない。燃料も積んでいない、タイヤもない軽トラックが、動くはずがない。
「お願い!」
 凛の声が、高くなった。
 必死にこちらを見つめる視線を、重彦は正面から受け止める。
 ああ、ここだ、そう思う。
 この子がこの先やっていけるかどうか。大人をふたたび信用してくれるようになるかどうか。ここが分水嶺だ。 
 ええい、ままよ。舌打ちをこらえて、凜の手を握り、運転席に乗り込む。左の脚が攣りそうになったが、なんとか声は抑えた。
 鍵穴のまわりについた錆を払い落とし、差し込んだ鍵をまわした。
 もちろん、軽トラは身震いひとつしない。
「おじいちゃん、アクセル」
 凜に云われて、馬鹿馬鹿しいと思いながらもアクセルを踏む。ヒビの入ったフロントグラスのむこうに、生け垣がある。それを避けるようにハンドルを切りながら、重彦は凜を問いつめた。
「どこまで行くんだ」
「とりあえず海岸沿いに走って、そこから国道に上がろう」
「なんのために」
「決まってるでしょ」
 凜は信じられないという風に目を見開く。
「逃げるんだよ!」
 ざわっと二の腕に鳥肌が立つような思いがした。
(兄貴、とにかくこの場を逃げないと……!)
 孝弘が血に染まった右手を突き出してくる。
(大丈夫、房枝さんを泣かせるようなマネは、しませんから)
 どしゃ降りの雨にいいようにずぶ濡れにされながら、顔中を口にして大声で叫び続ける孝弘の半泣きの顔……。
「とにかく、北にむかって」
 耳元で怒鳴る凜の声に、重彦は夢想から覚める。凜はどこからもってきたのか、ピンク色のハンドタオルを右手に巻きつけている。
「おじいちゃんは前だけ見てて。うしろからくる奴らは、あたしがなんとかするから」
 止めるヒマもなかった。タオルを巻きつけた右手で、凜はひび割れたサイドグラスを次々に砕いていく。あらかたの破片を片づけると、痩せたからだを思いっきり伸ばし、窓から肩を出して、トラックの後方を振りかえる。
「まだ、追っ手は見えない。でもきっと、そう離れてないよ」
 ハンドルを持つ手が、知らずに震えていた。
 背後から、すさまじい勢いで過去が迫ってくる。その気配が、重彦に指が白くなるほどにきつく、ハンドルを握らせる。この二十年、いやもっと以前から、必死で意識の底に沈めてきた悪夢だった。
 ハンパなところで下手を打った重彦が、どうしてあっさりと組を抜けられたのか。花屋になりたい。そう云った重彦を、組の連中は冷笑でもって受け入れた。指を詰めろと云われることもなかった。組の総会や、手打式、結婚、葬式、なにかあるごとに花屋としてお呼びがかかり、結局最後まで縁は切れなかった。それでもそれ以上は深入りすることもなく、重彦は“街の花屋”としての体面を保てた。白黒の写真で額縁におさまった孝弘の笑顔が、重彦の未来を切りひらいてくれた。
 いつしか、重彦は軽トラックのアクセルを全力で踏み抜いていた。
 曇った瞳に映るのは、フロントグラスのむこうの光景ではない。ずっと避けてきたのに追いつかれた、過去だった。
 忌まわしい記憶を避けるように、右へ、左へ、重彦はハンドルを切る。
 そうやって、どれくらい、悪夢の中をドライブしていたのか、わからない。
 ふと我に帰ると、重彦はにぎりしめたハンドルを呆然と見つめていた。
 壊れた軽トラックは、庭から一メートルたりとも動いていない。
 深く息を吐き、思い出したようにかたわらに視線を移すと、助手席で凜が眠りこんでいた。
 苛立ちとも、皮肉ともつかない感情が泡のように胸からいくつもわきあがり、消えていく。
 サイドシートにうずくまった凜のからだの下から、なにかが覗いていた。重彦は手を伸ばし、それを引き出す。凜はよっぽど深い眠りについているのか、起きる気配もない。
 それは古い映画のパンフレットだった。表紙はすり切れて、いまにも外れそうだ。映画のパンフレットなるものを手にとること自体、何十年ぶりかの体験だった。いまでは劇場で映画を観る行為はごく一部の好事家のものになっていて、全国のほとんどの映画館は閉館に追いやられている。
 重彦はパンフレットに目を落とした。セピア色に染まった表紙のなかを、幼い少女を抱いた老人が走っている。表紙の下部に、映画のタイトルが大きく、「LOGAN」と描かれていた。
 重彦は凜の寝顔に視線を奔らせた。凜が、本を読む代わりにタブレットで映画をたまに観ていることには気づいていた。若いのに珍しい趣味だとは思っていた。パンフレットの発行年数を確認すると、二十年もむかしだ。こんな古い映画のことを、凜はどこで知ったのだろう。
 「LOGAN/ローガン」は2017年のアメリカの映画だった。監督はジェームズ・マンゴールド。撮影はジョン・マシソン。編集はマイケル・マカスカー。主演はヒュー・ジャックマンという男で、タイトルにもなったローガンという老人を演じている。ローガンはウルヴァリンの別名を持つミュータントで、若き冒険の日々に別れを告げて、メキシコ国境のむこうがわにある廃工場で細々と暮らしている。平穏な日々に終わりを告げたのは、ローラという幼い少女だった。彼女もまたミュータントで、ローガンはローラを連れて逃避行の旅に出る……。
「こんなものは現実じゃない」
 思わず、吐き捨てるような口調で重彦は云った。
「ただの、おとぎ話だ」
 一気に興ざめした気がした。凜は、おそらくどこかの配信サービスでこの古い映画を観たのだろう。そして、主人公たちの境遇に自分を重ねてしまったのだ。なんとも子供らしい、感情と直結した行動ではないか。
 凜がなにを考えているのか、重彦にはわからない。それなりの生きづらさを感じていることは、見ていればわかる。だが多少遠回りであれ、現実のなかで居場所を見つけることができるくらいには賢い子供だと思っていた。
 こんな映画にかぶれて、現実と虚構の区別もつかなくなったのか。
 身内を贔屓したくなる気持ちもわかる。だが重彦はどう考えてもヒーローではない。やたらめったら歳をとった、ただの老人だ。ミュータントのスーパー能力などありはしない。現実に叩きのめされ、腰を折り曲げながら、なんとか生き延びてきただけの男だ。
 視線を感じて顔をあげると、眠そうに半目を開けた凛と目が合った。
 過干渉はしない、その誓いをいま破るべきだと知った。家へ帰れと、凜に云ってやろう。現実と戦えと。
 重彦が口をひらくよりわずかに早く、凜が沈黙を破った。
「守ってあげるね」
 眠そうなかすれた声で、凜がそう云った。
「あたしが、怖いものから、守ってあげるからね、おじいちゃん」
 半目になった凜の瞳が、べつの瞳と重なった。
(あたしでよかった……)
 十年にいちどと云われた、東京に大雪が降った夜のことだった。呼んでから二十分待っても救急車は来ず、重彦はたまらず軽トラックの助手席に房枝を乗せて、雪のなかを病院めがけて走り出した。
(あたしでよかったんですよ、あなた。子供たちにはなんの苦労もさせずに済んだ。この世の嫌なところを見せずに育てられた。あなたはきっと、長生きしますよ)
 大声で怒鳴る重彦の声にかぶせるように、房枝は最後の息を吐いた。
(あなたじゃなくて、あたしで……)
 気がつくと、凜が起き上がり、重彦の肩を揺さぶっていた。
 おじいちゃん、おじいちゃん……甲高い凜の声が、耳に突き刺さる。
「大丈夫だから」
 凜は云った。
「あたしになんでも切り裂く爪はないけれど、その気になれば、怖いものに噛みつくくらいのことはできるから」
 老人と孫は、ずいぶんと長い時間、見つめ合った。
 凜がどうして自分のところに来たいと云ったのか、その理由がはじめてわかった気がした。
 凜は、まるで仔猫をかかえて気が立った母猫のように、全身の毛を逆立てて、やってくる脅威に備えている。その姿に、なんだか微笑したくなった。
 結局のところ、怯える必要などなかったのだ。
 自分の映画はとうに終わっている。どんな悪夢が訪れたとしても、それはいまの重彦にかすり傷ひとつつけられない、ただの過去だ。
 ただ、
 ただ、凜の映画はちがう。それはまだ始まったばかりだ。エンドロールは遥かに遠い。
 重彦は左手を伸ばし、トラックのギアを入れた。
「北に行きたいと云ったな」
 ハンドルを握りなおしながら、重彦は訊ねる。
「そこになにがあるのかね」
「国境」
 即答した凜のことばに、重彦は笑い出しそうになる。千葉から“国境”を目指すのは、ずいぶんと大変だ。
 だがきっと行き着けるだろう。物語とはそういうものだ。
 アクセルを踏む。エンジンの響きが、シート越しに伝わってくる。ゆっくりと、窓のむこうを景色が流れていく。
「凜」
「はい」
「うしろはまかせた」
 こぼれるような凜の笑顔を視界の隅に捉えながら、重彦はさらにアクセルを踏む。割れたフロントグラスから吹いてきた風にくちびるをくすぐられ、たまらず笑い出してしまう。
 どこまでもつづくノースダコタへのハイウェイを、祖父と孫娘の笑い声をこぼしながら、軽トラックが疾走していく。
 今夜はどこで泊まろう。
 どちらにしろ、ベッドで凛と横になりながら、「ローガン」を観よう。重彦は秘かにそう決めていた。



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スーサイド・スクワッドが好きだと、小さな声でそう云いたい

  1. 2016/09/13(火) 01:30:19|
  2. 洋画
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Harley-and-Joker-Suicide-Squad.jpg

スーサイド・スクワッドは奇妙にねじくれた映画です。
物語は「バットマンVSスーパーマン」の直後からはじまります。超人的な能力を持った悪人(おそらく施政者側にとってはバットマンもスーパーマンもその一員です)に対抗するため、米国政府は重犯罪者のなかから適任者を選別し、捨て身の作戦に従事させる「タスクフォースX」計画を発動します。そして集められた隊員たちはアメコミの世界のヴィラン――人を超越した能力を持つ者を含む、悪役たちだったのでした。

筋書きだけ聞けば単純明快。アメコミ版「特攻大作戦」です。実際、ジェイ・コートニーによるとキャスト全員が「特攻大作戦」を観たそうで、そのコンセプトについては制作者側としても一致していたのだと思います。
実際、中盤で描かれる彼ら「自殺部隊」の境遇はかなりシビアです。首筋に爆発物をしかけられ、上官の機嫌しだいでいつでもそれが起動可能、というスネーク・プリスキンもかくやという状況のなかで、達成不可能に思えるミッションに挑まされます。もともとは超個性派かつ超個人主義な彼ら犯罪者は、隙あらば逃げだそうとするし、てんでばらばらで統一感がありません。
しかし、そんなダメ人間の彼らも、寝食をともにし、厳しい訓練にはげむことで次第に連帯感が芽生え……。
なんてシーンはこの映画にはありません。
な、ならば厳しい任務のさなか、最初はバラバラだった彼らが徐々に息が合っていき、見事なコンビネーションをみせ……。
なんて描写もこの映画にはありません。
自分のことしか考えていない悪人どもが、ある瞬間から唐突に「おれたちは仲間だ」と云いだします。
そのことを万人に納得させるだけの描写がなかったために、この映画は一部でさんざんな酷評にさらされることになりました。

訓練に耐えるシーンはない。大事な仲間が死んでその哀しみをみなで乗り越えていくうちに連帯感が……なんてシーンもない。
この映画にあるのは「気づき」の描写だけです。あの、酒場のシーンですね。
「わたしたちは悪くて醜いのよ」。マーゴット・ロビー演じるハーレイ・クインがそう云います。
そうか、おれたちはただの悪人でしかなかった。
なにを血迷って、人並みのしあわせなんてもの夢見ていたんだろう。
罪を犯し、手を血で染め、墜ちに墜ちて、廃墟の酒場の、このスツールに座っている。
こんな「悪くて醜い」自分たちの望めることとは、そして出来ることとはなんだろう?

「仲間」というのはこの悟りを背景にして、でてくることばなんですよ。
泥水を泥ごとすすって、すすりまくって、茶色く染まった舌からこぼれ落ちてことばでしかありません。
正義の御旗を背負い、おなじくお日様にむかって顔を上げられる、他人様になにひとつ恥じることのない「仲間」ではありません。
墜ちて、墜ちて、自分が人生のどん底にいると悟って、ふと隣をみたときに同じような境遇の連中がそこにいた。
ああ、こいつらはクズだ。そして自分もおなじクズなのだ。そんな悟りの末にやっとでてきたことばが「仲間」なのです。
そんな境遇で「仲間」を見つけたらどうするか。
デビッド・エアーの映画ではいつも結論はおなじです。疑似家族を形成するのです。

「フューリー」も「サボタージュ」も、どん底にいきついた先でおなじ境遇の人間を見つけたものが疑似家族を形成し、それが破壊される話です。それがエアーの偏執なのでしょう。それは「第二次大戦で戦車乗りが勇ましく戦う」話とも「麻薬捜査官が犯罪組織や裏切り者と戦う」話とも、食い合わせのよいものではありません。もちろん「アメコミのヴィランをあつめたチーム」の話とも。
それでもデビッド・エアーはそういう話を書かざるをえない人らしく、ことここまで至って、わたしはその偏執に愛情以外の感情を持てなくなりました。

さて、デビッド・エアーの映画はよく「正義と悪の境界があいまいになる話」を描くと云われてきました。
わたしはそうは思いません。この映画でも実に微妙なライン、ぎりぎりで細い線だけれど確かに引かれている境界線を引いてきました。
それは悪(BAD)と邪悪(EVIL)のあいだにです。

この映画の悪役……というとまぎらわしいか、お話の構成上のラスボスのような敵は、境遇だけ聞けば被害者でもあるように思える人です。
長いあいだ眠りつづけ、心臓は政府に(文字通り)握られ、なけなしの復讐戦から世界を破滅へと追いやろうとします。
最初の弱々しげな外見も含め、この映画の主役たるヴィランたちとおなじく同情の余地があるようにも思えるのです。
ですがこれに、エアーはきっぱりと「NO」を叩きつけます。
邪悪(EVIL)は邪悪だからこそ邪悪なのである、という小学生のようなトートロジーがそこで展開されます。ラスボスがやる悪事はそのトートロジーの先にぽんと置いたものであって、その「悪さ」を掘り下げた末のことではありません。
邪悪(EVIL)は絶対に許されません。救えません。カトリックだというエアーの宗教観がそこには多分に含まれていると思います。
対して主役のヴィランたちは悪(BAD)です。彼らはよりよく生きたいと願い、それにも関わらず罪を犯してしまう。いってしまえば我々凡人の延長線にある存在です。
日本人には判別つきがたいですが、悪と邪悪はぜんぜん別!とエアーは断言するのです。

だからこそ怒る人がでてきます。悪人がひたすらに悪を積み重ねるピカレスクを期待した人。あるいは悪人たちがしかるべき段取りを経て、奇妙な連帯感をもつようになる丁寧ば描写を期待していた人。そんな人たちはこの映画の歪んだ倫理を理解できず、しかるべくして感情移入もできず、死んだような瞳でスクリーンを見つめる羽目になるのでしょう。本当にお気の毒です。

あるのはただ、邪悪が悪に垣間見せる、夢のような幻視だけです。
ディアボロも、ハーレイ・クインも、そこで見るのは「まるで自分が罪を犯さなかったかのような」普通のしあわせを見て、そしてそれが決定的に自分からはほど遠いと悟るのです。邪悪の心理攻撃は裏目に出たのでした。

だから、この映画を「底の底で自分の境遇を受け入れた悪(BAD)の話」としてみれば、それなりに首尾一貫はしているのです。
もっともだからといってあなたがこの映画を楽しめるかどうかまでは、保証はできませんが。
でもわたしは、この映画がとても好きだと、愛していると、ちいさな声で云って、手を挙げたいのです。

インサイド・ヘッド

  1. 2015/07/23(木) 00:49:02|
  2. 洋画
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inside-out-trailer-2_00.jpg

もうだめだ、と思う。
すべての魔法は解けてしまった。いつかこんな日が来るのではないかと思いながら、必死につくり笑いを浮かべていたけれど。
それももう終わりだ。これ以上ごまかしようがない。
嘘みたいに重い足をひきずって、部屋に帰ってきた。床に座り込んだまま、もう一歩も動けない。
このまま膝を抱えて沈み込んで、息もせず黙って死んでしまえればいいのに、と思う。
まばたきも忘れた瞳に写るのは、しわくちゃになったレシートと、携帯電話の請求書と、コンビニのビニール袋。
見慣れた風景が、何千マイルも離れた知らない星の風景のように見える。ひりひりと胸が痛んで落ち着かない。
テレビをつけて、くだらないバラエティをしばらく見つめていたけれど、すぐに消してしまった。
きっともう、笑える日はこない。
泣きそうになって、瞼をぬぐったけれど、涙さえ出なかった。
きっと、もう一生泣けない。怒ることさえできない。もう感情はない。この世のたったひとつの真実が明らかになってしまったから。
わたしはひとりぼっちだ。
わたしには愛される価値がない。


へぇ、そうなんだー。いやぁ、たいへんだねぇ。
しっかし、今日も暑かったねぇ。あはははははははははっ!!
……あ、いや、失礼、ちからいっぱい悲嘆に暮れてるところ、ごめんね。ちょっと気になることがあってねぇ。
きみさ、駅からこの部屋まで、どうやって歩いてきた?
家賃安いもんねぇ。駅から離れてるよねぇ。自転車はこないだ盗まれちゃったから、三キロは歩かなきゃいけないよねぇ。
迷わないでよく家にたどりついたね。よく覚えていない? ふーん。そっかぁ……。
途中さ、いつものコンビニに寄ったよね? それも覚えていない?
テーブルの上のビニール袋をあさってごらんよ。いつものヨーグルトとオレンジーナと高菜おにぎりが入ってるから。
なんか深刻に悩んでたみたいだけどさぁ。コンビニで買うのはお気に入りの定番なんだねぇ。馬鹿みたいだねぇ。
え? それも覚えてない?
部屋に入る前に、郵便受けのロックを外したよね? だって請求書があるじゃんか。
テレビをつけたよね? どうしてリモコンがいつもの右手側にあるってわかったの?
っていうかさ、死にたいなんて云ってる人間が、どうしてしわにならないために上着をハンガーにかける必要があるのか、
ぜーんぜん意味がわかんないんだけど。
自分じゃない? そんな記憶はない? まぁまぁ、怒らないでよ。
じゃあいったい、きみを家まで連れ帰ったのは誰なんだろう?
……ふーむ。
さっき、なんて云ったっけ? 愛される価値が……ああ、そこは、どうでもいいや。そのちょっと前。
「わたしはひとりぼっちだ。」
ふーん……へぇ……。
本当に?

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ディズニー・ピクサーの新作、『インサイド・ヘッド』は、野心に満ちた意欲的な作品でありながら、ハートウォーミングな逸品でした。
主人公(というよりも「舞台」と呼んだ方がふさわしい)のライリーは11才の可愛らしい女の子。
子供らしい快活さに満ちた彼女は、住み慣れたミネソタを離れ、見知らぬ街サンフランシスコに引っ越すことになってしまいます。
故郷の喪失、親しい友人との別れ、新しい環境へのとまどい、そんなものがライリーを追いつめ、快活な少女は一気に
抑鬱状態に追い込まれて、転校初日に学校で泣き出してしまいます。
果たしてライリーは、引っ越し先で自分の居場所を見つけることができるでしょうか?
……というのが「表向きの」物語で、究極までにミニマルなお話です。

ところが、映画の真の主役はライリーではなく、彼女の頭の中にいるヨロコビやカナシミといった五人の感情たちなのですね。
改めて文字で書き起こしてみると、ぶっとんだ設定ですね、これ。ところが映画で見てみると実にすんなりと受け入れられるのです
よ。ライリーの頭の中の世界と、ライリーの日常が交互に描かれるのですが、ほとんど混乱は起きない。このあたりのこなれた
交通整理はみごとです。「シュガーラッシュ」では現実とゲーム機の中を交互に描いていましたが、この映画ではさらに進んだ
「内と外」の描写をたっぷりと堪能することができます。

まず、「内」の方です。ライリーの頭の中ですね。この描写がみごとなんです。
もちろん人間の脳のはたらき、というのは完全に解き明かされたわけではありません。
いままでのフィクションですと、たとえば90年前後あたりの日本のサブカルチャーではやたらめったら脳内報酬系がフィーチャー
されてました。猫も杓子もドーパミン。猫も杓子もA10神経系。エヴァンゲリオンでもとくに脈絡なく出てきましたねぇ。恥ずかしい。
80年代後半くらいから脳科学が進歩して、ニューロンの働きとかいろいろわかってきて、報酬系がみつかったときには、「これで
人間の欲望の源泉がわかった!」と大騒ぎになったものです。もちろん脳内モルヒネだけで人間がわりきれるわけがないので、
そのうち下火になりましたが。
それ以前だと、ユングの元型をモチーフにした作品が多かったような印象があります。自分のなかのいろんな要素が、脳の中で
おしあいへしあいしている、という「インサイド・ヘッド」に似た設定の小説が筒井康隆の「欠陥バスの突撃」ですが、アニマが
でてきたり、かなりユングの元型よりのデザインです。

で、「インサイド・ヘッド」ですが、どうもいまどきの認知神経科学の成果を取り入れているようなのですね。
出来事、に関するヒトの記憶をエピソード記憶と云います。時間と場所、そのときの感情がその記憶には含まれています。
初めてキスをした公園にきたときに胸が痛んだりするのは、その出来事と感情がむすびついたものが、ひとまとめになって
脳内に記憶されているからですね。ヒトはそのエピソード記憶のつらなりによって「自分はこういう人間だ」ということを認識
します。ヒトの性格の元になっているのは記憶なんです。そしてシーケンシャルにつながった事象(イベント)を、ひとつの
物語として認識しています。これを自伝的記憶と云います。

だから、「たいせつなきおく」によって、「おふざけのしま」「ともだちのしま」といったライリーの性格が形成されるのは説得力が
あります。いや、ちょっとずれてきた気がします。これはべつに「ちゃんとお勉強して偉いね!」と称えられるべき映画ではなく。
「とにかく絵でみせてくれるのがすげぇ!!」って映画ですよね。

「インサイド・ヘッド」はマッドマックス・怒りのデスロードとならんで、映画であるという自らの特性をフルに生かした映画です。
絵です。絵で見せてしまう。それがすごい。
長期記憶と短期記憶に関する知識なんてなくても、鮮やかに輝くボールが、ボーリング場のレーンみたいなものの上を動いて
いるのを見つめていれば、それだけでそんなものか、と理解できる。
ボールがびっしりとならんだ長期記憶保存庫を見れば、自分の脳の中にもこれだけの記憶のかけらがあるのかな、と思える。
必要ない記憶を掃除機で吸い上げる掃除人のユーモラスさに大笑いしながら、忘却していく物事の膨大さに身震いする。
「夢のスタジオ」は是枝監督のワンダフル・ライフみたいでわたしはピンときませんでしたが、「イマジナリー・ランド」の夢想の
楽しさには本当にわくわくしました。
そしてその美しい脳内世界が「ブレイン・ダメージ」によって崩壊していくわけですが、その顛末が「外」の世界の出来事と
絶妙にシンクロしているのが本当にすばらしい。

この映画の「内」の世界は、色鮮やかに、被写界深度深めに、くっきりとした輪郭で描かれるのですが、「外」の世界は陰翳に満ち、
リアルなタッチで描かれます。その違いは誰にでも見て取れると思います。
下手な演出で描かれれば、外と内は乖離して、誰にも感情移入できない奇妙な物語が二つできていたと思うのですが、この
映画は違う。「外」の世界の軋轢は「内」の崩壊をもたらし、そしてその恐ろしさが身震いするような戦慄をもって伝わる。

数日前、うちのTLで中島みゆきの「ファイト」が話題になっていました。
「ガキのくせにと頬を打たれ、少年たちの瞳が歳を取る」。という歌詞は胸につきささりますが、普通、物語というのは光を
失った子供の瞳を大写しにするくらいが限界なわけです。「インサイド・ヘッド」はそこに踏み込むのです。

ライリーが親友とのあいだに溝を感じたとき。
彼女の脳の中では「ゆうじょうのしま」が大崩壊します。
塔は倒れ、地はひび割れ、えらい騒ぎになる。
それがライリーの脳内にいるヨロコビたちの危機をもたらすのです。内と外のプロットがみごとに連動している。本当にうまい。
そしてバスの窓に映った、11才の少女の感情の死んだ瞳を見るとき、わたしたちは思うのです。
この瞳を知っている。どこかで見たことがある。
そうか。
あのときは小さなことだと思う。でも確かに、あのとき目に見えないどこかで、ひとつの王国が滅んだのだ、と。

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わたしはひとりぼっちだ。
誰もわたしを理解してくれない。
わたしには愛される価値がない。
だから誰も愛し返してなんか、やるもんか。


うんうん、誰かを思ってやったことの価値が、相手に理解されないってつらいよねぇ。くーっ、共感できるわぁ!
どうしてこんなに頑張ってるのにって思うよねぇ! 
……え?
いやいや、いまのはきみのためのことばじゃないよ。なんでそう思ったの? 草生えるわwww
きみにはそんな労りを受ける資格がない。
いまのことばは、とうに自分を見限ったきみのからだを精一杯労って、長期記憶貯蔵(LTS)したいままでのきみの暮らしを
トレースし、きみを迷わず家にたどりつかせた非陳述記憶ちゃんへのことばだ。
明日を生きるつもりがないきみの明日のために、必死でアブドウ糖をグリコーゲンに変えている肝臓ちゃんへのことばだ。
明日を生きるつもりがないきみの明日のために、必死でグルカゴンをつくっているランゲルハンス島ちゃんへのことばだ。
明日を生きるつもりがないきみの明日のために、歯をくいしばってガス交換をしている左下葉気管支肺胞囊へのことばだ。
心臓はドゥーフ・ウォリアーのごとき戦いの鼓動をやめることがなく、循環器はV8エンジンのような唸りをあげつづける。
物言わぬすべての細胞とすべての組織が、見も知らぬ明日へときみを送り届けようと必死になっている。
それなのに、きみは「きみ」というごく狭い意識の中で、檻に閉じこもり、身勝手な孤立感にがんじがらめになって、苦しんでいる。
きみの口が、自意識過剰で自己評価の低いきみに支配されておらず、内臓か、筋肉か、どこか違う場所にあったなら。
その細胞が叫ぶことばはひとつだろう。「明日へ! 明日へ! 明日へ!」
それなのにきみだけが明日を信じられない。
誰一人、きみを殺したいやつなんていないのに。
きみのしあわせだけを願っているのに。
本当だよ?

===========================================================

とつぜん訪れた危機により、ヨロコビとカナシミは脳内司令部から放り出され、ライリーの脳の中を彷徨うことになります。
ヨロコビはその彷徨のあいだ、「たいせつなおもいで」を後生大事にかかえています。
「たいせつなおもいで」をふたたび脳内司令部にもどすことが、ヨロコビの旅の(最初の)目的なわけですが、わたしたちは
彼女のその動機にさほど感情移入できません。
手からすべり落ちそうになってあわてたり、ビンボンといっしょに持ち出されてそれを取り返そうとしたり、ヨロコビにとって
それが大事なものだということはわかるのですが、ただのマルタの鷹、マクガフィン、以上のものには思えないのです。
それがないと話が進まないから、ヨロコビはそれにこだわるのだろう、と。
そう冷めて思ってしまうのは、巧みに誘導された感情曲線により、ヨロコビの動機に観客がセルフィッシュなものを感じてしまう
からです。
ヨロコビは、誰でも好意をもってしまう、明るくて前向きな少女として登場します。ところが、あれ、あれ、という感じでヨロコビに
対する好意には疑問符がついてしまう。ひどく前に出るその態度には、仕切りたがり屋!と野次をとばしたくなりますし、
カナシミに対するほとんど虐待ともいえる差別的な態度に、憤慨した人も多いでしょう。
なんだよ、こいつウザいな、どうせこいつが司令部に戻りたいのも身勝手なエゴからなんだろう?
ところが、物語の決定的な場面で、ヨロコビは「たいせつなおもいで」を涙を流しながら抱きしめるのですね。
いとおしく過去の記憶を愛撫しながら、これ以上この世に大切なものはない、という感じに。
それは親が子を愛撫する、そんな愛情そのもので。
そこで観客はヨロコビの行動すべてが、ライリーの幸福のみの追求という究極的に利他的な原理の上に成り立っていることを知る。
そのころ外ではライリーが死んだような瞳でバスの窓を見つめているわけです。
それで、これは偉いことだ、と思うわけですよ。ライリーが幸福でないということは世界が滅びるのと同義なくらい大変なことなん
ですよ。なぜならば、ヨロコビが叫び、走り、転げ回ったそのすべてがライリーのためであることを観客は知ってしまったからです。
この映画の表向きの話は究極にミニマルだ、と書きました。
クラスメイトからいじめられたわけでもない。ライリーの挫折はあくまでも内面的なもので、外に敵はいない。
それでいいと思うんですよね。ライリーこそが世界なんです。ライリーこそが宇宙なんです。
彼女のしあわせこそが、この映画の究極の目的なのですから。
そしてね……。
まぁ、このあたりでわたしなんかは思ってしまうわけです。
もうまったく記憶には残っていないのだけれども。あるいは記憶にも残らない脳の片隅でのお話なのかもしれないけれど。
自分のたいせつな思い出を、どこかの誰かが抱きしめてくれたかもしれない、と。
そしてそれは誰でもそうなのかもしれない。
そうでなければ、わたしたちはいままで生きてこられなかったのではないでしょうか?

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それでも、不安でしょうがないんだ。

それでも、俺はここで南アフリカ産のブブゼラを吹きつづけるけどね。
ブオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
あ、ごめんね。ネタが古かったね。
きみの口からどんなにマイナーな音色が漏れても、俺はここでそれを吹き飛ばすようなすっとんきょうな音を奏でつづけるよ。
それがきみの耳に届かなくても。
俺は地平線の彼方のそのまたむこうで、ずっと、ずっと、きみのためにエールを送って、手を振り続けるよ。
俺に会いたくなったら、実家に帰ったときに、押し入れの古い玩具箱を開けてみればいい。
そこに俺はいるかもしれないし、いないかもしれない。
どっちでもいいじゃないか。俺はいまでもきみを見つめているし、死ぬまできみの味方なんだ。

ああ、ところで残念な知らせがある。
もう云ったっけ?
きみは一生、ひとりぼっちになんかなれないんだよ。







Viva Fear! ~ ゴーン・ガール雑感

  1. 2015/01/27(火) 00:17:32|
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ありし日、アメリカ公民権運動の父マーティン・ルーサー・キングが、とある女性記者にこう訊ねられた。

「人種差別と同じくらい、女性差別も重要な問題だと思いませんか?」

これに対するキングの答えがふるっている。

「どこにそんな差別があるというのか、よくわからない」

黒人の地位向上のために奔走したキング師は、間違いなく偉大な人物であっただろうし、同胞の苦難を見捨てて
おけないだけの共感力と鋭敏さを持っていた人だったはずだ。だが、肌の色で差別を受けることの屈辱を熟知して
いたはずの彼をもってしても、すぐとなりにいたはずの女性の苦渋には気づけなかった。
キング師は家庭外での浮気も多く、それを見とがめた知人にこんな言い訳を放っている。

「月に25日から27日も家をあけているからだ。ファッキングは不安を和らげる一つの方法だ」
(上坂昇著『キング牧師とマルコムX』)


ここに見られるのは典型的な「鈍さ」の問題だ。
「外」で名の知られた仕事を成し遂げた男たちが、「内」に帰ると秘められた鈍感さを剥き出しにして弱者に
マウントをとる、というのは井上ひさしのDVから岡田斗司夫の愛人リストまで一貫して共通する構図だ。
「外」では、高い知性と豊かな感受性をもって知られる彼らの、あまりにお粗末な「内」での粗相に人々は驚く。
そして女性たちは嘆くのだ。男はどうしてこんなに鈍いんだろう?

そりゃ決まっている。弱者の都合なんて見て見ぬ振りをしていた方が、強者にとっては楽で都合がいいからだ。
特権的立場にいるうしろめたさを感じるのは嫌なものだし、真実にむきあうには労力がいる。
それよりも無言の圧力と意図的な鈍さで、弱者を黙らせてしまったほうがよっぽど楽だ。
「外」でだったら背筋とアンテナを伸ばし、相手の顔色を伺い、相手の感情を忖度し、ことばを選んでコミュニケート
するなんてことをしたとしても、「内」でまでそんな面倒なことはしたくない。
いいじゃないか、このままで、俺たちいままで上手くやってきたじゃないか。
なんでそんな面倒くさいことを云うんだよ、安らげるはずの「内」でそんなことは聞きたくない。
弱者(おまえ)のことは俺がいちばんよく知っているんだよ。細かいことを気にしすぎだよ、神経質だな。
空気を読めよ。
そうだ、もうすぐ記念日だな。プレゼントはなにがいい?
……。
かくして意図的に鈍くなり、見たくないものを見ない強者たちによって「内」はゴミ箱と化す。
典型的なゴミ箱の名前を「家」と云う。

そういうふうに些細なことを云わずに黙っているのがぼくの癖になっている。そのほうが好都合だからだ。本音を
言うと、女のように細かいことをごちゃごちゃ説明しなくても、エイミーが気持ちを察してくれないかと期待していたのだ。
(ギリアン・フリン著『ゴーン・ガール(上)260ページ)


もう公開からずいぶんと日にちが経っているし、ネタバレ全開で書かせてもらうけれども、『ゴーン・ガール』は搾取される
弱者が逆襲をこころみる話だ。

ニューヨークでライターをしていたニック(ベン・アフレック)は、ニューヨーク育ちの洗練された美女であるエイミー(ロ
ザムンド・パイク)と恋に落ち、二人は結ばれる。夫側の家族の事情により、ニックの故郷であるミズーリ州の小さな
街に移り住んでから二年後、結婚五周年の記念日に、エイミーは失踪する。
現場に残されたいくつかの証拠から、ニック自身がエイミーを殺害したのではないかとの疑いが強まる。だがすべては
夫に不満を抱いたエイミーの狂言だった――。

エイミーはなぜ失踪したのか?
映画ではニックが若い女(エミリー・ラタコウスキー)と浮気したことが直接的原因ということになっていて、それは原作
でも要因のひとつではあるのだけれど、小説ではもう少し重層的な描き方がされている。
ひとつは2009年のリーマン・ショック以降、アメリカの中流層が急速に貧困層に流れていったこと。
ニックもエイミーも大卒のライターであり、それが2010年の7月以降、相次いで仕事を失う。
日本でもおなじことが起こっているので、事態の想像はしやすいだろう。雑誌の発行部数が激減し、ライターというのは
花形職業ではなくなった。文系の大学を出れば、出版業界で容易く職を得られて、食っていける、なんて構図が絵に描
いた餅になってしまった時代。まさに「いま」のとばっちりを受けた我々の同士がニックとエイミーだということが、映画だ
と理解しづらい。
もうひとつが、ニューヨーク生まれニューヨーク育ちのエイミーが、夫に引きずられて引っ越した先がミズーリだったこと。
原作では悲惨きわまりないアメリカ地方都市の現状が詳細に描かれていて、それが重要なバックボーンのひとつに
なっている。
ふたりの住む新興住宅地は、映画では華やかな場所であるように描かれていたが、リーマン・ショックで土地を手放す
人が続出し、ゴーストタウンのようになり、空き家にホームレスが棲みついている。コンピュータの普及のせいで印刷
工場がなくなり、失業者はどこにもいけずスラムを作っている。地方都市の花形だったはずの大型モールは撤退し、
そこでは怪しげなヤカラたちが徘徊している。トム・ソーヤをモチーフにした古風な観光スポットは、「よりはなやかで、
にぎやかで、マンガじみた観光地」に客を奪われた。
なんのことはない、日本で言うところのファスト風土だ。魅力も活気もない、枯れきった土地に、ニューヨークっ子が
連れてこられた、というのが顛末であり、「田舎のネズミと町のネズミ」のような寓意のある話なのだ。
これに痴呆の入ったニックの父と、ガンに冒されたニックの母の介護の問題がからみ、もちろん前述のニックの浮気の
問題もあり、エイミーは幾重にも追いつめられていく。
だがなによりもエイミーを追いつめ、彼女に最後の銃爪をひかせたのは、ニックの「鈍さ」だったのではないかと思う。

聡明で、美人で、行動力もある彼女は、自分のえらんだ伴侶の目がみるみる死んでゆき、「鈍さ」の鎧をまとって、
都合のいい無言による了承を強いる行為に耐えられなかったのではないか。だから彼女は選んだ。
すぐそばにいる、夫という見知らぬ他人を死刑にし、かつて愛した夫を取り戻す道を。

ベン・アフレックは熱演だと思うけれども、映画のニックには、原作のニックにあったある重要な要素が欠けている。
それは彼の父親の描写だ。映画では父は刑務所でわずかに姿を見せるだけだが、原作では父のバックボーンに
関する詳細な描写がある。
アル中でミソジニーのかたまりであり、「クソ女、クソ女、クソ女……」とうわごとのように繰り返す痴呆症の父。
ニックはその父を嫌悪していて、同時に父の血が自分のからだの中に受け継がれていることに心底恐怖する。
エイミーによって舞台がつくられた「なかった妻殺しの現場」は、ひょっとしたらニックが血の中に受け継ぐ暴力性
と女性蔑視により、「あり得たかも知れない妻殺しの現場」なのだ。
父の世代が呪いのように身に纏ったミソジニーに対する嫌悪と、それが自分の中に眠っていることへの恐怖。
これはいまを生きる多くの男性が誰にも云えずにひそかに抱えている葛藤ではないだろうか。
多くの女性は男がそんな葛藤を抱えていることなど知らないし、そもそも知ったことじゃないよ、と言われるのが
オチだろうが。

ニックは、自分の中に眠る「地方の男尊女卑のいやーな空気を受け継いだ血」を封印して、都会(ニューヨーク)で
まるでNY子のような顔をして、エイミーと出会う。ニックにとって、このとき彼女は遥かに見仰ぐ大都会に属する、
「外」の人間であったはずだ。「外」と接しているときは、ニックも嫌な自分を出さず、人好きのする、セクシーな男で
いられた。

それが失業により「外面」に傷がつき、勝手知ったる「内」であるところの故郷に引っ込んだところから、彼はエイミー
を「内」へと追いやる。待っているのは「鈍さ」による無言の搾取だ。
ところが、エイミーの失踪により、彼は死の危険にさらされる(ミズーリ州には死刑がある)。
究極の危機により、「鈍さ」に錆びついていた彼の脳は奮い立つ。アンテナを張り巡らせ、思考し(鈍かった時期の
ニックが脳味噌を使っていたとはわたしには思えない!)、敏感になり、周囲の動きを把握する。いざ「外」へ。

そしてそんなニックこそが、実はエイミーが再会を待ち望んだ、彼女の「愛する夫」だったのだ、というのがこの物語の
最大の皮肉になっている。
エイミーの術策により追いつめられたニックが、逆転の一手としてテレビの出演をこころみる。
彼はもう必死だ。しくじれば待っているのは最悪、死なのだ。ニックはこころの底からエイミーのことを思い、エイミーの
こころに至ることを願い、ことばを絞り出す。
それをテレビで見つめるエイミーの微笑みを、わたしは最初に観たときに、復讐が成し遂げられた残酷な歓びによる
ものだと思い、嫌悪した。
いまはまったく違う印象を持っている。
エイミーは、あそこでニックに惚れ直したのだと思う。理由は、彼がセクシーだったから。
追いつめられてわけがわからなくなり、必死になって妻のことだけを考えた男性が、ありったけの知恵と機転を
ふりしぼり、妻の胸にとどくためだけにことばを選ぶ。
女性にとって、そんな男の状態のことをセクシーと呼ぶのだと愚考したのだが、如何?

そもそも、エイミーによる壮大な狂言は、ニックという男がどういう欲望を持ち、どういう行動原理を持つ男か、熟知
していないとまったく成り立たない。エイミーは冷徹に事態を俯瞰しているように見えるが、「ニックを熟知している」
という一点において、図らずもそこに彼への執着と愛が露見してしまう。

あの日記というのも曲者で、創作というものに少しでも関わった人なら周知していることだが、創作物というのは
まったくの絵空事のようでいて、どうしても自分の秘められた欲望というのが露呈してしまう。あり得べき自分と
いうものを創作したあの日記は、まるでニックにむけた迂遠な恋文のようだ。

迂遠な恋文による危険な純愛は成就し、エイミーは帰還し、ニックの待つ家に戻る。
搾取された弱者が、知恵と行動によりその構図をひっくり返すというこの物語のプロットは、ここに至るまでで充分に
痛快なのだけれども、真に驚くべきはそのあと(映画で言えば終盤30分)だ。

血だらけで家に戻ってきたエイミーを、ニックは抱きしめ、その耳元で「クソ女」とつぶやく。
それは父から受け継いだ呪いのことばだ。
さらには怒りにまかせて、彼女の頭を壁に叩きつける。
理性と利己主義によって築き上げられた「いい夫」は敗北し、やはり「地方に根付く男尊女卑の血」が勝利するのか。
だが、そこでニックは気づくのだ。ここでエイミーを殺せば、自分は父とおなじ敗北者になる。それだけではない。
彼女の失踪後、冷たい汗で背筋を濡らしながらもがいてきた自分。それこそが自分にとって最大限に高められた
自分であることにニックは気づく。エイミーを殺し、どこかで退屈な普通の女と結婚したところで自分は満足できない
だろう(原作でも映画でも、ニックはじつにあっさりと若い愛人を手放す)。
父から受け継いだ、惨めな女性蔑視の血に打ち勝ち、最大限に自分を生かす道。
それはエイミーとともに生きることではないのか。
そこまで理解しても、エイミーに対する恐怖は消えない。ニックは寝室にひとりで籠もり、ドアに鍵をかける。
その寝室のカギが落ちる、かちり、という音。
それは実はニックとエイミー、彼ら夫婦の勝利の凱旋ラッパの響きであると思う。
これは「虐げられた妻(エイミー)が、夫(ニック)に復讐しました」で終わる話ではない。
妻と夫が、同時に最良の伴侶を手に入れる、希望の物語なのだ。
エイミーは死んだ目をした「鈍い」夫ではなく、聡明な夫と結ばれ。ニックは自分を「鈍さ」から解放する妻と結ばれた。
なんによってか。愛? ふざけちゃいけない。
かちりと鳴る、寝室のカギがかかる音が象徴するもの。
恐怖によってだ。

紀伊國屋渋谷店の文庫女子問題、通称ダサピンク事案が発生したとき、興味を持って関連するツイートを読んでいた。
非常に興味深かったのが、憤慨している女性たちの多くが「舐めるな」という語彙を使っていたことだ。
これは男の「鈍さ」に触れて憤った女性たちの口から頻出することばらしい。わたしも、知人の女性からそのことばを
ぶつけられたことがある。
「おなじ人間だと認めろ」という、極めてまっとうな主張がその真意だという理解をしている。男の「鈍さ」によって摩耗した
精神が、みずからの窮地をことこまかに説明する余裕すら失わせ、「舐めるな」ということばになるのではないだろうか。
しかし誠に残念ながら、このことばの真意はひどく男性側には伝わりにくいと思う。みずから好きこのんで「鈍く」なり、
そのことによる生き安さを確保した人間が、相手の立場に想像力を働かせる、なんてことをするわけがなく、たまに
「理解のある」男性が現れても、「お互いに平等な立場で、理論的に話をしよう」なんて云いだすのがオチではないか。
そもそも互いの立つ場所がすさまじく離れていて、議論に着手する前に相手が日々の生活でどれだけ摩耗しているか
なんてことは「平等」の中には入っていないのだから、これも不毛な話だと思う。
だったらどんな風に解決すればいいのか。
愛によってか。
だからちがうつってんだろ、殺すぞ、ボケ。

人類愛、なんて呆然としたものを振りまわしたところで実効的なものなどあるわけがなく、愛はたぶんこれからどれだけ
月日を重ねても、「わたしはあなたが好き」「ぼくはきみが好き」ということの積み重ねでしかすぎない。愛はこれからも
無数の勝利を刻むだろうが、それらはすべて局地戦で、戦略的にはなんの意味もない。
愛じゃ足りない。愛じゃ追いつかない。
ほんとうは人間すべてが想像力を発達させれば問題解決なのだが、世の中には愛の情動を育てる契機は山ほどあれ
想像力を育てる契機なんてほとんどないのだから、望み薄だ。

恐怖だ。
「舐めるな」という舌から血を流すような訴えを吐く相手と、おなじ目線で立つには恐怖しかない。
ソーシャルネットワークのどんづまりがもたらす、転落の危機が蔓延したこの世界で、手を携えて生きるにはそれしかない。
地位があろうが、名声があろうが、不用意な発言ひとつで地の底に落とされるこの世界。
広告に大金をばらまいてイメージアップをはかる大企業が、バイト店員のリーク一発でブラック企業よばわりされる世界。
歌手、芸能人、新聞社、批評家、評論家。かつては雲の上の存在だった彼らも、いまでは安全圏にいない。
誰ももう、「鈍さ」による搾取から得られる安寧の上にでんと構えてはいられない。
恐怖万歳!(Viva Fear!)
女を怖れ、男を怖れ、子供を怖れ、老人を怖れ、都市を怖れ、地方を怖れ、外国を怖れ。
びくびくと怯えながら。この世にいるすべての人々を恐れながら、生きていこう。
どんなに弱く、力なく見えても、彼らはあなたに致命傷を与える、蜂の一刺しを持っている。
そしてかつては見下していた相手を恐怖すること。それは相手の力を認め、相手を自分の目線まで引き上げることだ。
それが「舐めない」ってことなんじゃないだろうか。

2009年に外れた鍋の底が、永遠に右肩下がりのグラフを生みだしたこの世界。
地方が衰退していくなか、旧時代のヘイトと蔑視が息を吹き返しつつあるこの世界。
そこを生き延びるには恐怖することだ。

『ゴーン・ガール』はそんな「いま」の世界をサバイブする方法を提示した、未来への希望に溢れた物語だと思う。



マップ・トゥ・ザ・スターズ

  1. 2015/01/22(木) 01:02:15|
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ハリウッドには怪談話があふれている。
あの有名な蝋人形館には子供の幽霊が出るらしいし、ハリウッド・パシフィック・シアターにはワーナー・ブラザースの
ひとり、サム・ワーナーの霊が出没するという。パラマウントスタジオは墓地の跡地に建っていて、スタッフは幽霊に
悩まされているなんて、まことしやかな話まである。

ずっと気になっているのは、ハリウッド・ルーズベルト・ホテルに出没する、マリリン・モンローの幽霊の話だ。
このホテルは第一回アカデミー賞の授賞式会場でもあり、例年ラジー賞が授賞式を行うという由緒正しき(?)建造物
なのだが、そこにマリリン・モンローの霊が出るという。
モンローとホテルの由縁については不明だが、彼女の霊は昼夜を問わず、廊下を歩いていたり、鏡の前に立っていたり、
水着姿でプールサイドにいるところを目撃されている。
おかしな話だと思いませんか。なぜよりによって幽霊が水着姿で?
アメリカでも幽霊は水辺の近くを好むのかもしれない。でもそんなリラックスした姿をなぜ見せるのか。
どこかユーモラスなその情景に、恐怖は感じない。代わりに立ち上ってくるのはひとつの疑問だ。
ひょっとしてマリリン・モンローは自分が死んだことを知らないんじゃないのか。

デビッド・クローネンバーグの新作、「マップ・トゥ・ザ・スターズ」を観た。
セラピストの父(ジョン・キューザック)、ステージママの母(オリヴィア・ウィリアムズ)、そして人気子役のベンジー
(エヴァン・バード)。ワイス家は人もうらやむハリウッドセレブだ。そこへ少女アガサ(ミア・ワシコウスカ)がネットで
知り合った脚本家を訪ねて、ハリウッドにやってくる。とあるきっかけから、有名女優ハバナ(ジュリアン・ムーア)
がアガサを秘書として雇ったことから、物語は不穏な方向へと舵を切っていく……。

あらすじだけを追っていくなら、これは「ハリウッドの裏幕もの」だ。盛りを過ぎた女優のサンセット大通り的な執念
あり、麻薬に溺れる天才子役の退廃あり。ライバル俳優同士が火花を散らし、食っていくために運転手を兼業する
脚本家(ロバート・パティンソン)はひそかな野望を抱く。

ところが画面から伝わってくるのは、生身の人間のドロドロとした欲望などではなく、どこか遠い過去の物語を見て
いるような――それこそエンドロールが示唆するような遠い星の世界の出来事のような――絶妙な隔絶感なのだ。
冷たく、湿度がない。
産毛も抜けない子役たちが、すれきった露悪的な会話をかわす。
そこに興味を惹かれこそすれ、生々しさや嫌悪感は感じない。
星座の物語――暴力、姦通、近親相姦、etc――に眉をひそめたりはしないように。

影を失ったようなあいまいな彼らと対照的に描かれる、ある存在がある。
幽霊だ。
ふっとカメラがパンしたところにいる、この世ならざるもの。
子役のベンジーは、こころない慰めを与えたまま死別したファンの少女の霊に悩まされ、ハバナは亡き母の霊に
脅かされる。
この霊が、おどろおどろしい演出などなく、生きた人間とフラットに描かれる。それは黒沢清の映画に出てくるような
“触れる幽霊”で、神秘的なヴェールで遮られてなどいない。寝室に、撮影スタジオに、プールサイドに(前出のマリリン・
モンローの霊からインスパイヤされたとまでは云わないが、気になる類似だ)、日常の風景の中に呵責なく干渉してくる。
そして霊を見た者たちは、ホラー映画のように大仰な驚き方をするのではなく、こころの傷にふいに触れられたときの
ような“痛いところを突かれた”顔をする。それは生きている厄介な隣人に対する態度のようで、観ていると、だんだん
生者と死者の境界があいまいになってくる。

そしてようやく、映画の最初から感じていた、ぶあついビニールを隔てたような、遠い感じの意味するものがわかってくる。
この映画では生者と死者が逆転している。生きたものは死んでいて、死んだものは生きている。

ハリウッドという幻想と現実の境界で、いったいどれほどの架空の死が描かれてきたか。
そこで架空の人生を身にまとい生きる人たちは、もはや本当の死というものがわからないし、生きている感覚もない。
だからこそベンジーはファンの少女のリアルな死に触れて、はじめて揺らぎ、「安定した虚構」という足場を失う。
ハバナは、映画の中で描かれてこそいないが、女優人生の中で架空の死をいくつも経てきただろう。
だが、自らの苦痛の源泉であり、最大の憎悪の対象であったはずの母の人生を演じようとしたとき、みずから進んで
「安定した虚構」という足場を捨て去る。セラピストにかかってまで母から与えられた苦痛を癒そうとしながら、その母を
映画の中で演じようとする彼女は矛盾そのものだ。その滑稽な矛盾が彼女を押しつぶしていく。
日々の糧と名声を虚構から得ようとする彼らが、影を失ったような存在にならないはずがない。

そして対照的に描かれる死者の存在感は、ハリウッドという場所が、虚構の死をつみあげる死の殿堂であることを
喝破してみせる。生がもっとも死に近くなり、死がもっとも生に近づく、黄泉比良坂。それがハリウッドではないだろうか。

ミア・ワシコウスカが存在感のある演技で息を吹き込んだ、アガサという少女は、ハリウッドに、そしてワイス家に溢れる
瘴気を祓いにきた巫女なのだろう。だからこの映画の終わりが、彼女の唱える(あからさまに呪術的な)祝詞で終わるの
は必然といえる。ハリウッドに棲まう悪霊の調伏は、果たして成功したのか。

それは、この物語でじつに中途半端に捨て置かれる、ロバート・パティンソンに託されているのではないかと思うのだ。
彼の物語の顛末が不明なのは、彼がまだ生者/死者と死者/生者の決定的な境を超えていないからだ。
彼はまだ真の「生きた」人間として自分の人生をまっとうすることができる。しかし野望を捨てきれぬならば、ハバナが
落ちて行った奈落へと落ちて行くしかない。

この物語はまだ完結していないが、きっとつづきは星の世界で語られるのだろう。
そしてわたしたちが、その世界に足を踏み入れることはついぞ無いのだ。

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