生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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ラストスタンド

  1. 2013/04/30(火) 18:25:57|
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シュワルツネッガーの新作主演映画が、スクリーンに登場です。
こうやって書いてみて、改めて凄ぇなぁと思う。
今年は1982年じゃないんですよ。84年でもない。93年でもない。
世紀末をなにごともなく通り過ぎ、21世紀になって十年以上経ってから、シュワルツネッガーの主演映画が拝める。
これって凄いことなんじゃないかなぁ。
ちなみにさっき挙げた三つの年号は、ともに「コナン・ザ・グレート」、「ターミネーター」、「T2」の上映年です。
お互い、長い、長い年月を過ごしてきましたね。彼も、観客も……。

折しもスクリーンにはこの時期、ジャッキー・チェンの最後の大作主演映画、『ライジング・ドラゴン』も上映中です。
80年代を沸かせた三大スーパーヒーローのうちの二人(残りの一人はもちろんスタローン)の主演映画が、同時に
スクリーンで拝めるなんて、これちょっとまともに考えればこれが最後のチャンスだと思うんですよ。

いまはあんまり新作映画を観る気持ちの余裕もねぇ、なんておっしゃるお父さん、かつてあの時代を汗臭いボンクラと
して共に過ごした同志。いまはもう立場が違ってしまった(こちとら家族も金ないただの映画きちがいだ)けれど、
そんなお父さんと映画館でいっしょにこの映画を観られたなら、おれはとっても素敵なことだなぁ、なんて思いますね。

かつてロス市警で伝説的な麻薬捜査官として知られたレイ・オーウェンズ。
寄る年波には勝てず、いまでは一線を退き、国境に近い田舎町ソマートンで保安官として静かに暮らしている。
折しもヴェガスでは、FBIの手に寄って、麻薬王ガブリエル・コルテスが移送されようとしていた。
まったく関係のないニューメキシコの田舎町と麻薬王は、思いがけない手段によるコルテスの脱走と、
彼の乗ったモンスターマシーン、シボレー・コルベットZR1により、時速400キロのスピードで急速に接近していく。
コルテスの部下による襲撃を受けたオーウェンズは、コルテスの逃走目的地が自分のいるソマートンであることを
知り、最後の砦――ラスト・スタンドとして、その前に立ち塞がる。
だが彼の味方は三人の頼りない副保安官と武器マニア、そして一人の囚人だけだった――。

というあらすじを書いて、主演はシュワルツネッガーですってことを伝えて……
本ブログ、本投稿の目的は以上で終了です。
いや、そんなもん、このあらすじを聞いて、それで主演がシュワちゃんだって聞いて、燃えないような人とは
本質的に話が合わないです。人間として相容れないものを感じます。ありがとう。わたしはこちらの道を行く。
きみはきみの道を行け。それはそれで小気味よい。さらば、良き旅を!ってなもんではないですか。

だんだんなにを書いているのかわからなくなってきましたが、大丈夫です。
要は、この映画はその大前提としてですね、ものすごくわかりやすい「この映画はこういう映画ですよー」
「狙いとしているのはこのあたりで、お客さんを喜ばせたいツボはこのあたりですよー」と、
大書きされた看板をぶら下げているようなものなのです。
あとはスタッフが余計なことさえしなければ、本作の成功は約束されていました。
そしてこのスタッフは……余計なことをしなかったのですよ!(拍手)

監督はキム・ジウン。
良く存じ上げない方でして……と書こうとして、フィルモグラフィを調べたら、この人の作品、一本だけわたし、
観ていました。箪笥、という2003年のホラー映画で、さして怖かった記憶もなく、なんとなくダリオ・アルジェント
っぽい、色彩配置に気を使ったホラーだなぁ、くらいの印象しかありません。代表作とされる
「甘い人生」、「悪魔を見た」
このあたりは未見です。

おそらくは細かいカット割りを主体とする、それこそジェイソン・ボーン以降のアクションムービーでメシを食ってきた
人なのだなぁ、ということは見ればわかります。流血の量はあからさまに80年代とは違いますし、赤い霧のような
流血の飛び散り方も、なんとなくジョニー・トーっぽくて現代リファインされています。
ですが、そのストーリーの運び具合。とくにFBIのあまりのマンガじみた無能さと、シュワちゃんの部下
が麻薬王の部下に突然の襲撃を受けるところの凄まじい既視感。「ああ、おれ、遠いむかしにこんな映画の
こんな展開を100万回見たな」という既視感。
それは問答無用で80年代のあの日々に、わたしたちを連れ去ってくれます。
この末法の世に、まったくありえない奇蹟が起きたのです。
福島第一原発も、東日本大震災も、9・11も、下手をすればチェルノブイリという名前すら知らなかったあの頃。
無邪気な世界を信じていたあの頃に、この映画は連れて行ってくれます。
あの頃と変わらないはずのコーラの味が、ほんのりとほろ苦いのは気のせいでしょうか。

あいにくと、このブログ主はアクション映画オンチです。
四十五年生きてきて、ブルース・リーの凄さに去年気づきました。それくらいオンチです。
だからこの映画のアクションを、ことこまかに解説することはできません。だからひとつだけ。

悪党とともに、屋上から落ちたレイ・オーウェンズ保安官が、苦しそうに顔を歪めます。
80年代のシュワルツネッガーだったら、こんな時に眉一本動かさなかったはずです。でもいまは違う。
悪党から殴られたことでなく、屋上から落ちた、その痛みで顔を歪めている。
まったく人間的な、あまりにも人間的な苦痛です。
あるいは予告編で有名になったあのシーンですよ。ダイナーにドアをぶち破って転がり込んで、ふうと息を吐いて。
「歳かな……」。80年代のシュワルネッガーだったら、想像できないシーンでありセリフですよ。

ではレイ・オーウェンズはヒーローではないのか。彼のようなロートルは、ヒーローを名乗る資格はないのか。
馬鹿なことを云ってはいけない。
なぜなら、なぜこの保安官がこれほどまでに歳を取り、疲れているのか、我々は知っているからだ。
若い頃は蛮人コナンとして暴れ回り未来から来た機械の刺客として人を殺し、
髪の毛をオールバックにして潜入捜査に踏切り、テレビの殺人ショーで逃げ回り
あるいはクレムリンから来た共産主義の法の執行者となり、火星でデブになり、
あるいは二度、三度と、機械に支配された未来から飛んできて……

とにかく大変だったんだよ!
レイ・オーウェンズが田舎町でリタイアを決めるまでの大変さを、俺たちは全員知ってるんだよ!
だから彼が老骨にムチを打って、走り、殴り、飛び、銃を撃つとき。
俺たちは泣くんだよ。
もう彼の物語のいちばん良いところは終わっているのに。栄光の若き日は二度と帰ってこないのに……。
それでも、まだヒーローだからという理由だけで戦う、レイ・オーウェンズに泣くんだよ。

劇場に行こう。後悔する前に。
彼の頬の皺を、喉の皮膚の醜いたるみを、讃えよう。
それはおれたちが同じように過ごしてきた日々の、勲章なんだ。

ラスト・スタンド。これはダーティーハリーに間に合わなかった俺たちのためのグラントリノだ
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『コズモポリス』 映画における殻としての車

  1. 2013/04/29(月) 09:40:22|
  2. 洋画
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      昼間はストリートで、虚しいアメリカン・ドリームを待ちわび
      夜は 自殺機械に乗って栄光の殿堂を走りぬける
      クロームのホイールをはき ガソリンをつめ 九番高速で檻からとび出す
      そして ラインを外れて突っ走る
      ベイビー この町はおまえの背骨をはぎ取っちまうぜ
      それは死の罠 自滅の罠だ 若いうちに抜け出そうぜ
      おれたちのようなはぐれ者は 走るために生まれてきたんだから

                    ――ブルース・スプリングティーン“ボーン・トゥ・ラン”


 初めまして。はまりーと申します。
 当ブログでは、劇場公開作品を中心に、映画の感想をつらつらと書き連ねていきたいと思います。
 もっとも、ブログ主はシネフィルということばからもっとも遠い、映画勉強中のドシロウト。
 ときおり思い返したように過去作を振り返ったり、いまさらのように映画史の勉強を始めるようなことも
 あるかもしれません。
 難破船のようにふらふらとした航跡を遺すかも知れませんが、それでもなるべく毎日、こまめに更新して
 いきたいと思っています。よろしく御願いいたします。

 さて、当ブログ一発目で扱うネタはこちら。

 デビッド・クローネンバーグ 『コズモポリス』

 おそらくは現代からそう遠く離れてはいない時代のニューヨーク。
 若き投資家、エリック・パッカー(ロバート・パティンソン)は電子の要塞と化したリムジンの中に居座り、
 優秀なクルーを多数抱え、情報の海を泳いで信じられないほどの巨万の富を手に入れています。
 ところがちょっとした情報の読み間違いから、人民元の投資を失敗し、たった一日で彼は破滅へと落ちて
 いきます。エリックの転落の一日を、リムジンの中の視点から捉えたのがコズモポリスです。

 タイミング良く、というべきか悪く、というべきか、ニューヨークには大統領(プレジデント)が訪れています
 亡くなったスーフィー教徒の人気ラッパーの街頭葬儀が行われ、その上に金融危機が原因のデモまで始まって、
 街は大騒ぎです。

 当然、エリックの乗ったリムジンは、歩いた方が早いんじゃないかという遅さでニューヨークの街を
 横切っていきます。我々には、リムジンの窓越しに、この世界のありさまを眺める時間がたっぷりある
 わけです。浮浪者が騒ぎ、抗議のためにガソリンを被って火をつける人々がいる混乱した世界を。

 車の中に視点を限定し、そこから世界を描いた映画と云えば、なんと云っても『タクシードライバー』
 を思い出します。あれは青年トラヴィスの狂気までいきつく孤独がテーマでしたが、同時にタクシーの車窓から
 世界を切り取った、70年代後半のニューヨークの見事なタブローでありました。あの映画のネオンの輝きや
 街娼たちやポン引きたちのうろつく街の匂いの生々しさは、いまでも新鮮です。

 対するに『コズモポリス』ですが、サイバーパンク的な荒んだ未来像を描くこと、目新しい未来を描くことに、
 クローネンバーグはまるで興味がなかったようです。この世界が現在を描いた寓話だからかもしれませんし、
 御年70歳のクローネンバーグが、想像力に息切れを起こしているのもかもしれません。
 ディスコだかクラブだかしりませんが若者たちが踊り狂いレーザー光線が飛び交うあの場所の描き方
 そのどうでもよさげ感(笑)なんか、苦笑してしまいます。

 ですがこの映画、観ていてどうにも説明しがたい心地よさがあるのですよ。
 リムジンの中に舞台が限定されているからかもしれませんが、守られている感じと同時に自閉した、
 なんとも云えない背徳的な心地良さを感じてしまうのです。

 途中でその正体に気づいて、あっと声が出ました。
 これって、インターネットカフェでドリンクバーのコーラを飲みながらマンガを読んでるときの感覚だ、と。
 薄い壁一枚でぎりぎり世界と隔てられている、こころもとなさ。それと相反する頼もしさ。
 エリックの乗ったリムジンは鉄壁の要塞ではありません。デモ隊に揺らされただけでゆさゆさ振動しますし、
 ネズミのハリボテがぶつかると鈍い音まで響きます。ですがエリックは、そしてその折々の同乗者は、
 まったく世界の外には見向きもしないのです。薄い壁一枚隔てられた、羊水に満ちた世界で、偽りの
 安寧を貪るのです。
 これって、成人男子だったら簡単に蹴破れそうな、薄い壁に隔てられ、外部から遮断されたと信じ込み、
 ヘッドフォンでYoutubeの音楽を聞き、かたわらに積み上げたマンガを読み耽っているときのネットカフェ
 感覚そのものなのです。

 エリックの乗ったリムジンを、『ゴールドフィンガー』のアストンマーチンDB5と比べて
 みるという手もありますね。

 ジェームズ・ボンドの乗る、Qの秘密兵器満載のアストンマーチンは、云うまでもなく男の子の自我拡大欲求に
 答えるものです。あれは自閉した空間ではなく、拡大した自我なのですね。アストンマーチンに乗ったボンドは
 より強くなりますが、車を降りたとしても、ボンドは一人の(性的・社会的に)有能な男です。
 そこはネットカフェ空間のいじましい充足感とは無関係の、「大人の男」の世界なのです。

 わたしはコズモポリスのリムジンと比肩しうるのは、ヴェンダース『さすらい』のトラックだと思います。
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 ヴェンダースの描く映写技師ブルーノは、成熟しきれない男です。
 彼は「まっとうな暮らし」に背をむけて、映画のフィルムをたっぷりと積んだトラックを転がし、街から街へと
 旅をしています。一箇所に定住しようとも、家族を持とうともしません。
 世界からははじきだされた男なのですが、そんな男を中心にし、そんな男の目線から描けてしまうのが
 映画というものの本当に面白いところです。
 自殺未遂の“カミカゼ”ランダーを拾い、ブルーノは二人で旅をします。
 さまざまな人がトラックに乗り込み、二人と出会い、また別れ、旅はつづきます。
 この、ひとつの乗り物の中に視点を固定し、そこから「世界」を描くという手法は、コズモポリスやタクシードライバー
 とまったく同じです。

 世界が、たったひとつの車窓からの視点で語り尽くせるほど簡単なものでないことをわたしたちは知っています。
 でも、その切り口で二時間なり三時間なりを貫き通すことが「映画」にはできるのです。結果どうなるか。
 車内=世界という映画(世にも恐ろしい映画だと思います)が、この世にはびこるということになります。

 その切り口がひどくいびつなことを観客は知っています。なにせ我々は「車の外にある世界」に生きているのです。
 ですが携帯の電源を切り、ネットカフェに入り浸る時間が、人によっては倒錯した充足感を与えるように、
 そんな映画がときにひどく現実に荒んだこころを癒してくれることがあるのです。

 いま、世界はそんな映画をこそ必要としているのかもしれません。
 折しも、わたしがこのコズモポリスを観たのは福岡のKBCシネマでしたが、ふたつしかスクリーンを持たない
 あの映画館で、もうひとつのスクリーンにかかっているのはレオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』でした。

 KBCシネマは昨日の夜、完全にリムジン専用映画館と化していたわけで、
 わたしはこの事実に面白みと哀しみを同時に感じざるを得ません。

 『ホーリー・モーターズ』がそうだったように、『コズモポリス』でも終盤、主人公はリムジンを降ります。
 羊水の安寧から抜けだし、肌を突き刺すひりひりとした現実の風に身をさらし、エリックが向かったのは
 刺客の待つスラムでした。

 そこからの展開は、カメラワーク、台詞回し、幕切れ含めて、見事です。
 エリックと刺客の、まるで噛み合っていない、闘犬が向かい合って自身を身食いしているような会話は凄まじい。
 個人的には、本作はクローネンバーグの最高傑作だと思っています。

 ネットカフェのドリンクバーは、何杯飲んでも無料です。
 マンガだって読み放題、ネットだってし放題。
 でもレジでお金を払い、ひさしぶりに見る陽光に目をしばたかせたとき。
 その時目の前に映る光景をこそ、わたしたちは現実と云うんじゃないでしょうかね?
 


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