生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


『スーパー!』 ~描かれなかった「シュガーラッシュ」の最適解

  1. 2013/05/13(月) 23:27:46|
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思い切って口に出してしまえば、きっと気まずい空気になる。
かと云って、胸にしまいこんでしまえば、胸の中にもやもやが残ってしまう。

そんな葛藤に悩んだことがありませんか?

ここ二ヶ月ほど、わたしの胸の中には吐き出すに吐き出せないもやもやが居座っていました。
べつに誰に遠慮をしてネットをしているわけでもない、云いたいことがあるならはっきり書いてしまえばいい。
……のですが、なんとなく書くことをためらわれる。
ぶっちゃけていうと、周りでひたすらに絶賛モードだったこの作品、シュガーラッシュ。
そのラストへの違和感をわたしはずっとことばにできずにいたのです。
べつに、「このラストってないよね、おれは違和感ある」と云って、周りと意見の相違ができることはよかったんです。

ですが、それを口に出すことって、なんか「わたしは性格が悪いです」とプラカードぶら下げるようなもんじゃないですか?
大ディズニーのファミリー向けアニメ作品。メジャー中のメジャーですよ。
ハッピーエンドになるのは当たり前じゃないですか。
その重箱の隅をほじくって、あれこれ注文をつけるのは、これは大きなお友達としてのリテラシーに反している
んじゃないかと、そんなことを思ってしまったわけなんです。

いや、大好きなんですよ、シュガーラッシュ。
ヴァネロペちゃんはかわいかったし、ラストでほんの少し涙ぐみもしました。
でも……でも……うまくことばにできないんだけれど、このラストは違うと思うんだ。
どうことばで伝えればいいだろう?

念ずれば通ず。
シュガーラッシュの公開二ヶ月後、偶然手にしたDVDの中に、その最良の答えはありました。

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『スーパー!』です。
この作品を観て、まるで胸の中の冷たく固い氷のかたまりが溶けるように、わたしはこだわりから解放されたのです。
やっと適切なことばを得たわたしは、いま確信をもってここに宣言させていただきます。

やっぱりシュガーラッシュは間違っている。スーパー!こそが正しい、と。

スーパー!ですが、表面的なストーリーはキック・アスに似ています。
冴えない中年男、フランクはダイナーのコック。これといった特技もなく、人生で誇れるものは二つだけ。
ひとつは愛する妻をわがものとしたこと。
もうひとつはすれ違った泥棒が逃げた方向を、警官に指し示したこと。
他には、なんにもなし。フランクの人生でその二つだけが誇りであり、生き甲斐だったのです。
ところがある日訪れた、セクシーでワイルドな雰囲気を讃えた女衒(ケビン・ベーコンが好演してます)が妻を
奪っていってしまう。もはや抜け殻となったフランクは、人生でただ一度、立ち上がる決心をします。
その手には、お手製のコミックヒーローの衣装が握られていました――。

このフランク、たとえばバナナですべってゴミ箱に頭から突っこむとか、通り過ぎた女の子にくすくす笑われるとか
そういう具体的な「冴えない」エピソードはこれといって描写されないんですよね。必要ないんです。
フランク役のレイン・ウィルソンの冴えない顔芸だけで充分なんですよ。
もう無表情でカメラを向いて黙っているだけで、「ああ、この男は、ダメだ」と納得できるオーラ。
いちばんつらいのは、そのダメさが中年男のぶよぶよした肉体を通じて表現されるところ。
みんな大好きキックアスが、決して「痛く」なかったのは、キックアスを演じたアーロン・ジョンソンくんが
なんだかんだいっても若者だったからです。トライアルエラーも、羽目を外すことも許された。
それをレンチを片手に持った四十過ぎのおっさんがやると、とりかえしのつかない感、ハンパないです。
レンチを片手に、麻薬の売人をがんがんぶん殴って、「悪いことすんな!」とか捨て台詞残して去っていくんですよ。
おなじ四十代として、観ていてこころの痛みがハンパなかったです。

キックアスがクロエ・グレース・モレッツ演じるヒットガール(大好き!)の登場とともにあらぬ方向へと転がり出す
ように、スーパーもエレン・ペイジ演じるリビーという少女が、フランクに共感して手助けするところから加速して
いきます。
果たして、フランクは女たらしの女衒の手から、妻を奪い返せるのでしょうか……。

というのが『スーパー!』のおおまかなあらすじです。
正直、この当たりはどうでもいいんです。大事なのは物語の九割九分が終わったあと、エンディングに至るまでの
わずか五分のあいだ。
そのなんとも云えない、切なさに発狂しそうになるようなもの悲しいラストの余韻……。
泣いたよ。震えたよ。そして悟ったよ。

スーパー!にあって、シュガーラッシュにないもの。
フランクがそれを行い、ラルフがついにそれを行うことがなかったこと。
ラルフはね。ハッピーエンドに至るまでに、なにも代償を払っていないんです。

シュガーラッシュはディズニーの王道である、居場所を見つけられないはぐれ者が、ついに居場所を見つけ出す
お話です。そしてその居場所は、なんということはない、自分が最初に居た場所にあったのだ、というのも王道。
大男であるラルフと、プログラムのバグであるヴァネロペ、はぐれ者である両者が、互いに手をたずさえ、それぞれ
の場所でそれぞれの居場所を見いだす、というちょっと複雑なプロットになっているのが味噌でしょうか。

で、このラルフさんなんですけれど、セルジオ・レオーネのマカロニウェスタンの主人公ばりにセルフィッシュな行動原理で動いていくんですよね。大男ゆえ、悪役ゆえの疎外感には同情の余地があります。
ですが疎外感を感じたからといって招待されていないパーティーにむりやりおしかけて、家具をぶちこわしたりしても
わるびれず、「ヒーローのメダルをとってくればいいんだろう!」と身勝手な目的意識だけで暴走しちゃうところなんか
日本人としてとても共感するわけにはいきません。

シュガーラッシュの世界でヴァネロペと出会い、彼女と「はぐれ者同士の友情」を育むのかと思えば、ラルフさんは
ひたすら彼女が奪ったヒーローのメダルの返還を要求し謝罪と賠償を求めます。
このあたりもなんだかなぁ、だし、メダルをぶんどって自分の世界に帰ったあとで、自分の遁走のせいで破綻した
フィックス・イット・フェリックスの世界を悼むどころか、身勝手なヴァネロペへの罪悪感に苛まれるのもなんだか。

なんか、やることなすことラルフさんってこっちの感覚とずれているんですよ。
世の中って、たとえばヤンキーの若い夫婦が、子供を十人抱えて生活に苦労してます、みたいな環境を
尊ぶ風潮ってあるじゃないですか。わたしはそういうの全然共感できないんですよね。
自業自得だろうとか思っちゃう。
でラルフさんの行いにも、なんかビッグでダディな匂いを感じてしまうんですよねぇ。

まぁ、その当たりはいいや。いろいろあって、ラルフさんも居場所を見つけました。
それはかつて自分を悪役として忌み嫌い、避けていた住人たちなんですよね。
彼らが、なんとなく自分を受け入れてくれて、自分は他のゲームからはじかれたキャラクターを招き入れて、
なんとなく自分の居場所を作ってしまう。
これって違うくないですか?
なんとなく感動的なんでごまかされてしまいますが、一連の冒険のどこでラルフさんはリスクを払ったんですか?

フィックス・イット・フェリックスのモデルは、あからさまにドンキーコングですよね。
だとすれば稼働して三十年くらいにはなるんでしょうか。
三十年慣れ親しんだ自分の世界をあとにして、ヒーローのメダル求めて飛び出したラルフさんの、どこに葛藤が?
彼は居場所を得た変わりに、どんな代償を払ったんですか?
おれには、このハッピーエンドが、論理的には思えないんです。いきあたりばったりなラルフさんの行動の、
なんとなくの結果としか思えず、それにしてはできすぎている。

『シュガーラッシュ』に納得いかなかった人。もしいるのなら。
ぜひ、『スーパー!』のラストを観てみてください。
この身を切られるようなフランクの選択が。そして「にもかかわらず」フランクの顔にこぼれる微笑が。
ひょっとしたらあなたが『シュガーラッシュ』で本当に観たかったものかもしれません。

たとえば、こんな答えはどうでしょうか。
「ターボしかけた」代償として、ラルフはフィックス・イット・フェリックスの住人から心底忌み嫌われてしまう。
前のように、いや前よりもずっと住人たちとの距離は遠ざかり、声をかけてくれる人すらいない。
事情を知っているフィックスも、なんとなく住人たちの空気に同調してしまい、距離を置いてしまう。
それでもラルフは幸せだ。
ビルの屋上から叩き落とされるその一瞬、ヴァネロペの幸せそうな姿が見えるから。
自分は悪役だ。
好かれてはいない。
それでも誰かのためのいちどだけのヒーローとして。
彼はたしかに、一瞬だけ、そこにいたのだ。輝いて……。


ちなみに『シュガーラッシュ』と『スーパー』、奇妙な因縁があります。
シュガーラッシュの本国での声(我々は聞く機会がありませんでしたが)はジョン・C・ライリーでしたが
レイン・ウィルソンが受ける以前、フランクの役はなんと彼にオファーが行っていたそうです。
ちょっと匙加減が違えば、ジョン・C・ライリーはラルフであり、フランクでもあったかもしれない。
そんなお話でした。


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高地戦  戦争という寓話

  1. 2013/05/06(月) 23:10:34|
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昨年からずっと観たかった、朝鮮戦争を舞台にした戦争映画です。
曰く、「プライベート・ライアン以降の戦争映画の最新型」ということでわくわくしながらレンタル解禁日を
待ち望んでおりました(劇場上映は見逃してしまったので……)。

わたしは、それほどまでに戦争映画に詳しいわけではありません。
というわけで、今回はライムスター宇多丸のシネマハスラー2012年11月17日の回
をアウトラインとして参考にさせていただきたいと思います。

1953年。朝鮮戦争はすでに泥沼の様相を呈していた。
幾度かに及ぶ停戦決議はまたも物別れに終わり、戦いはいつ終わるとも知れない。
そんなとき、韓国諜報部のカン中尉は、激戦地のエロック高地に北との内通者がいるとの情報を入手する。
内通者をあぶり出すため、現地に赴くカン中尉だったが、彼を待ち受けていたのは、想像を絶する
地獄の戦場だった……。


ちょっと、この映画の撮影は戦争映画史に残るんじゃないでしょうか。
タイトル通りに高低差のある場所を舞台にして戦争するんですけれど、仰角85度くらいの、絶対にカメラが
立てないだろう場所から、急斜面の撮影をしていたりするんです。平地じゃないってだけで、息苦しさ数倍。
死体を踏んで斜面を上がり、死体となって斜面を転がり落ちる描写は
凄まじいの一言。
リアルを極めた戦争描写のちょっとしたところから、過去の戦争映画のエッセンスが顔を出します。
チュイン!という鋭い銃声、そして飛び散る手足の描写は、当然プライベート・ライアンを思い出させます。
クライマックス後のにがーいにがーい笑いには、ペキンパーの『戦争のはらわた』を思い出しました。
宇多丸師匠情報によると塹壕から飛び出した兵隊を横移動するカメラが追っていくシーンは、
キューブリックの「突撃」からの引用だそうです。
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観てみたんですが、モロでした。

あわててつけ加えると、パクリって指摘して悦に入りたいわけじゃぜんぜんないんです。
むしろこれは、正しいリスペクトなんじゃないでしょうか。この映画を観て、制作者がふざけてパクった絵を
つなぎあわせて作ったなんて思う人は一人もいないじゃないでしょうか。一見してわかる、とても誠実な
映画です。一言で云うと真面目なんですけれど、この世になにが息苦しいって、真面目な戦争映画ほど
息苦しいものはありません。でも、大丈夫。

この映画は、シリアスとエンターテインメント(そう、娯楽)のバランスが究極に良い。
なにより輻輳する謎の数々が、ミステリとしてこの物語を引っ張っていってくれます。原作は「JSA」の方
らしいですが、要は「藪の中」で謎がひとつだったJSAに比べると、いくつもの謎を小出しにして客を
飽きさせないその脚本は見事、のひとことです。

こう書くと、物凄いリアリスティックな、史実に忠実な映画だと思うでしょ?
違うんだな、これが。

なによりやられたなと思ったのは舞台であるエロック高地の設定ですよ。
英字で書くとAero Kとなるのですが、これを逆さまに読むとKOREAになる、という。
(この情報は宇多丸師匠からの丸引きです)
これ、つまり大きな看板を掲げてるんです。これは寓話ですよ。高度に抽象化されたお話ですよ、と。
実話ではなく、コリアというひとつの地域全体を扱ったたとえ話なわけです。
それをね、寓話だからって本当にぼんやり書いてしまったらつまらない。
この映画は、大きな枠として寓話という抽象化を選びつつ、戦争の細部の描写については、ちょっと
これ以上ないくらいの微細な残酷さ、身も蓋もなさをあらわにして描いているんです。


物語の大枠は抽象的な寓話、ただし物語の細部は触れれば手が切れるくらいの尖りまくったリアリティで描く。
こう書いて、おれがなにを思い浮かべるかって、溝口健二の『雨月物語』なんですけれど。
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大溝口と比べちゃうのはやり過ぎじゃないかと思われるかもしれませんが、おれは両者はかなり近いと思う。
寓話っていうのは、細部で手を抜けば、あっという間に観客の緊張感を失います。
あっ、これは嘘のお話なんだと思ってしまえば、登場人物がどうなろうとどうでもよくなってしまう。
溝口の「雨月物語」や「山椒大夫」は、日本人なら誰でもわかるくらい、はっきりとした御伽噺(正確には説経節)
をベースにしつつ、細部の鬼気迫る描写で、喉をしめられるような迫真感を感じてしまう。
それはわたしにとって、ひとつのフィクションの理想型なんです。(わたしのオールタイムベストは山椒大夫です)

昨年、「桐島、部活辞めるってよ」が話題になったときに、宇多丸さんや町山さんがこんなことをおっしゃって
いましたね。学校というのはひとつの象徴に過ぎない。あの映画で描かれているのは学校ではなく世界だと。
そしてあの映画の中では、極めて具体性を失った、抽象的空間の中で、この上なくリアルな描写がされていました。

高地戦も同じだと思うんですよ。
ここに描かれているのは抽象化されているKOREAだけれど、それを日本や、世界に敷延したっていいわけです。
ここに描かれているのは、ゴールデンウィークが終わり、あなたが明日から通う会社
のことだと思ってもぜんぜんOKだと思います。

寓話というものは普遍性のあるものだから、だから時代を超えて残るのです。
「高地戦」は時代の荒波にもまれても、消えないで残っていくと思います。でもそんな未来まで待たなくて良い。
いまいる場所に不条理を感じている人ならば、きっとこの物語に共感できると思います。

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