生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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『GIジョー』『GIジョー バック2リベンジ』 ハヴォック神の恩寵の下

  1. 2013/06/16(日) 00:51:08|
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玩具会社のハズブロ(=“原作”人形、GIジョーの製作元)が製作に噛んでいる、というのは日本で云うと
ガンダムの新作映画の製作にバンダイが噛む感じでしょうかね。

なにはともあれ、このシリーズは映画に忠誠を誓った作品ではなく、物語に忠誠を誓ったものでもありません。
人物の造形はひどいものです(特に一作目のシエナ・ミラーはラズベリー助演女優賞受賞納得のひどさです)
ひどく拙いかたちでキャラクターの過去のフラッシュバックが入ったりしますが、人物造形がそれで深まるわけも無し
物語も、まぁいってしまえば「ゴールドフィンガー」の焼き直しですよ。人類消滅のカウントダウンをぎりぎりで防ぐ、
特殊な任務を帯びた主人公、という100万回くらい観たようなストーリーです。

それではこの映画シリーズがまったく語るべき所がないかと云えば、そんなこともない。
アメリカ人がこの映画になにを託したかと云えば、それは彼らの理想の身体感覚だったのではないかと思います。
三次元グラフにおける、Z軸への飽くなき羨望が、この映画の画面から滲み出ています。

わたしはこの作品は、物理演算エンジンへの忠誠で作られた作品だと思います。
物理演算エンジンというのはゲームに縁がない人には耳慣れない言葉かも知れません。
ゲーム世界におけるモノの挙動。慣性や重力の影響などを計算し、ベクトルとエネルギーを与えられたモノが
どのように動くかを計算するシステム、それが物理演算エンジンです。
それはときに、「まるで現実のように」重みのある落下や移動を見せるモノの動きを再現することもありますし。
パラメーターをいじれば、現実ではあり得ない大ジャンプやまったく落下しない横移動などを見せることも可能です。

この映画シリーズ中で、ストームシャドーが投げる手裏剣。
あれ、あからさまに現実の重力には反した動きをしていますよね。
イビョンホンは鍛え上げた見事な肉体(それだけがこの映画で唯一の“リアル”と云っていい)を見せますが、
そんな彼が投げたからって、手裏剣がまったく放物線を描かず、得物の喉元に一直線に吸い込まれる、なんて
ことがありえるでしょうか?
あり得るのです。ゲームならば。パラメーターをいじった、HAVOKエンジンの制御の下ならば。
これは現実の重力ではなく、ゲーム内の重力を忠実に描いた、希有な映画です

例えば一作目の加速スーツでの疾走。
続編での切り立った岩肌でのアクション。
観ながら、興奮はするのですが、あのシーンで手に汗握ったという人はいないんじゃないでしょうか。
思わず目を覆い、やう゛ぁい、死んでしまう!なんて叫ぶ人はまずいないと思います。
それがゲームの世界の法則にのっとって動いていることを、観ている側が感じてしまうからです。
ゲームに縁のない人ならば、「なんて現実味の薄い、非現実的な描写だ」と鼻で笑うでしょうし、
ゲームが好きな人ならば、ああ、あれね、で済ませてしまえるものなのです。

代表的な物理演算エンジン、HAVOKの登場が2000年、この映画の一作目が2009年。
9年のあいだに、ゲーム世界での重力は、ゲーム以外のメディアで登場しても違和感なくなってしまったんですね。
HALOで初めて物理演算エンジンに触れて、たまげた身としては感慨深いですねぇ。

今後、現実の重力法則を無視した、ゲーム世界の重力にのっとった世界を描いた映画というのは
ますます増えていくのではないでしょうか。映画好き兼ゲーム好きとしては興味深く見守りたいと思います。


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「わたし」のための物語(後編) オブリビオンの巻。

  1. 2013/06/13(木) 01:27:07|
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いつものことですが、この項は映画「オブリビオン」のネタバレを含みます。
映画をまだ見ていない方はご注意くださいね。





二月の「横道世之介」ショックのあと、なんとなくもやもやした気分で、それでも劇場に通っていたのですが。
「オブリビオン」を観て、ようやく胸のつかえがとれたような気がします。

この映画、どこに焦点をあてて観るかで、まるっきり感想が違ってくる気がしますね。

もともとわたしはSFマニアだったこともあり、初見時はシンプルデザインのSFガジェットの連発によろこんで、
これはガーンズバック連続体の最新モード(語義矛盾)だとおもったりしました。
つまり、この映画が50年代に作られていたら、トム・クルーズは銀のタイツに身を包み、錠剤の食事をとっていた
と思うのですよ。それをテン年代のセンスでやるとああなるんだ、というのが面白かったりしました。

ただ、SF映画としても、物凄く新味に溢れたネタというわけでもなかったし、前半はひたすら地味だったりして、
そんなに爆発的に面白いという気持ちにはならなかったんですね。
ならなかったんですが、なんとなく胸の中にしっくりこない違和感が残りまして、本日二回目を観るために
劇場まで足を運んで来ました。

結果、号泣。
初回を観たおれはなにを見ていたんだ。これは男泣きに泣かずにいられないよ。
涙の半分は物語の意匠に関してだけれど、半分はこの映画出演を引き受けたトム・クルーズの心意気にだよ!

この映画、主演がトム・クルーズでなければ話がまったく通用しません。
少なくとも、他の男優が主役を演じたなら、ストーリーは同じでも、そも持つ意味の重みがまるで違ったはず。

トム・クルーズですよ。
「トップガン」以降、三十年の長きに渡りハリウッドトップスターの座に君臨しつづける、しかも彼の後続はと
振り返ってみれば、誰も育っていない。唯一無二の存在である大スター。
ご存じの通り、彼はSF映画にも多数出演しています。近年だとスピルバーグと組んだ「宇宙戦争」「マイノリティ
リポート」あたりが記憶に新しいでしょうか。だからこそ、この映画には誰もそれほど警戒していなかったはず。

まさかトム・クルーズの主演そのものが映画最大の仕掛けであり、ボンクラ魂を震わす、後半の泣ける展開への
伏線だとは誰も思っていなかったはずです。

ぶっちゃけて書いてしまうと、この映画に出てくるトム・クルーズはクローンであり、唯一のオリジナルである
トム・クルーズ(本体)はおそらくは失われ、無数に存在するトム・クルーズ(コピー)の一体なのです。
まさにわたしが死んでも代わりはいるもの状態。

前半の「横道世之介」評のところで書きました。わたしは自分の人生は編集により損なわれるのではないか、
自分の人生は他人の目線から見ればカットだらけでほとんど出番のないものになるのではないかという危惧を
抱いていると。

この映画のトム・クルーズ(コピー)が、その恐れに光をさしてくれました。

トム・クルーズ(コピー)が、スカヴの本拠地に乗り込むシーンにあわせて、フライトレコーダーからトム・クルーズ(本体)の声が聞こえてくる、泣けるシーンがあります。

この時にトム・クルーズ(コピー)の顔に浮かぶ、愕然とした表情がとてもいいんです。
フライトレコーダーから聞こえてくる、トム・クルーズ(本体)の声。そのセリフからトム・クルーズ(コピー)は悟る
のです。この世に唯一自分自身のものだと思っていた記憶、人格は、コピーされたものでしかなかった、と。

これがたとえば記憶だけだったら、それほど切ないシーンにならなかったと思うんですよ、ここ。
でも自分のキメセリフとか、アメフトの試合の記憶はじめ、“自分を自分たらしめる”、森の中の隠れ家の中に
散らばるものですら、本体の遠い残響でしかなかった。ただのコピーでしかなかった。

それを知っても、トム・クルーズ(コピー)が「そうだったのか……」なんてセリフを云わないところも素晴らしい。
表情だけで。充分に傷ついた表情だけで、わたしたちは彼の自尊心が損なわれたことを知るのです。

とどめが敵の本拠地の中に浮かぶ、無数の自分のコピーですよ。
ですが、それを見ても、もはやトム・クルーズ(コピー)は動揺すらしません。
黙々と、ただ「行動」のみによって、自分の意志を示してみせるのです。

他人から自分がどう見えるかなんてどうでもいいじゃないか。
自分のやってきたことが本当は価値があるかどうかなんて考えてみてもしょうがないじゃないか。
たとえば自分が「本物」じゃなかったとしても。
ただの無数のコピーの、たったひとつに過ぎなかったとしても。
自分の意志を貫き通すことには意義がある。


……ということばにしてみるとクサイことこの上ないメッセージを、ただ行動によって。
そしてモーガン・フリーマンのドヤ顔によって示してくれたトム・クルーズ(コピー)にわたしは感動しました。
当たり前のことですが、(本物)と(コピー)の演技の使い分けも素晴らしかったですね。(本物)はひたすらに
自信に満ちあふれ、(コピー)は最後の直前までちいさな疑問に苛まれて自分を信じ切れないというね。

本物か、偽物か、なんてどうでもいい。
意志を持ち、行動することには意義があるのです。
わたしはそのことを、この映画から学びました。

ありがとう、トム・クルーズ。

「わたし」のための物語(前編) 横道世之介の巻。

  1. 2013/06/13(木) 00:26:50|
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「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」
という名言を残したのは北村薫先生ですが、これは映画についても同じことだと思うのですよ。

たった一つの名を持ち、取り替え不可能な家族と境遇を持ち、あーあどこか遠くへ行きたいよ、などとぼやいてみても
明日もまた同じ学校や職場に行かねばならない。
この世にたったひとりの人間であること、は時にとっても息苦しいです。
だからそんな人生でほんのひとときでも、違う空気が吸いたい、他人になった気分を味わってみたい。
そんな黄昏めいた欲望が、我々を銀幕の前へと誘うのではないでしょうか?

それなのに。
ときにそんなチンケな欲望をもったわたしたちの足元を掬ってくるような、とんでもないを持った作品に、
劇場でぶつかるときがあります。

「他人になってみたい」という欲望「いまのこの自分を肯定したい」という欲望
まったく相反する二つの欲望を持って劇場にのこのこ出かけた観客の存在を、
両手で床に叩き落とし、足で踏みつぶして全否定するような映画です。

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「横道世之介」は今年上半期に公開された邦画の中で、もっとも評価されたうちの一本ではないでしょうか。
もちろん興行収入的なことではなく、評価の面でですが。
沖田修一さんは『南極料理人』、『キツツキと雨』と前作までの評価も高く、その独特の柔らかな空気、
演出のゆったりとしたテンポなども含め、「やさしい気分になる」「青春映画の傑作」といった声を多く聞いたような
気がします。

しかし、この作品。わたしにとっては地獄でした。
いまのところ、今年劇場で観て、「殺して! いますぐ殺して!」と叫びそうになった映画はこれ一本です。

主人公である横道世之介は長崎県出身の十八歳。東京の大学に受かり、入学してきて、友人、ガールフレンド、
謎の美女などさまざまな人々と触れ合っていきます。
彼の人生を通り過ぎた、様々な人々から世之介の素顔が語られていきます。
主役の世之介を髙良健吾さんが好演しています。お人好しで、頼りなくて、でも人を引きつける魅力のある、
そんな世之介の「空気感」が伝わらなければこの映画自体が成り立ちませんが、髙良さんの存在感は見事です。

……あれ? 誉めてる?
地獄とか云っておいて?

そうです。この映画、客観的に見ればどう考えたって秀作なのですよ。脚本も見事なら、80年代を再現した美術も
見事、近藤龍人さんの撮影も見事なら、髙良さんはじめ俳優陣の演技も素晴らしい。
素直に見たなら、爽やかな青春を描いた、善意に満ちた秀作なのですよ。
たったひとつの悪意を除いて。
その悪意の名を、編集と云います。

この善意に満ちたやさしい柔らかい物語の底を、通奏低音のように耳障りに響く、ただひとつの悪意。
この物語では、いくつもの重要なシーンが抜け落ちています。
誰でも思うであろう箇所は、あれほどまでに愛し合った世之介と祥子は、なぜ別れたのか?
そこが全く描かれていないということではないでしょうか。
何故、描かれなかったのか?
そのことについて考えつめると、結論としてひとつの事実に辿りつかざるを得ません。
それはこの映画に限らず、映画で目にする全てのシーンは、制作者によって意図的に「見せられている」
シーンだと云うことです。

この映画には基本的に善意しか描かれません。
では横道世之介は悪意のかけらもない、善人だったのか。
わたしはそうは思いません。
恐らくは、涙はあったのです。愁嘆場は合ったのです。かつてあれほどまでに愛した相手に、愛故に知り得た
弱点めがけて、針のように鋭いことばを投げつけるような、そんなシーンもあったのです。
横道世之介は人間です。
彼には弱さがあったのです。
彼にはいやらしい愛欲にこころ惑される時があったのです。
彼には涙で枕を濡らす夜があったのです。
それらはすべて「編集」という無慈悲な神により削除され、あとに残るのは無臭脱臭された「爽やかな青春」。
これはひどすぎませんか? あるべき負の面を根こそぎ削っておいて、「世之介のことを思い出すと笑ってしまう」って
あんまりじゃないですか。人間をあまりにも単純化しすぎじゃないですか。
おれは横道世之介という映画は、人生に対する冒涜とすら思います。

人間は自分の人生を、ひとつの流れを持つ物語として記憶しています。それを物語的記憶と云います。
どんなに偉い人でも、あるいはどんな人間のクズのような人でも。
たった一つの物語を持つことはできます。その物語の価値は問いません。人には物語がある「はず」なのです。
あなたにも。わたしにも。

そんなおぼろげな人生観に、キックをくれたのが横道世之介でした。
たとえば、あなたの中でとても大事な思い出があったとして、映画にするとするならば、そのシーンがクライマックスに
なるかもしれない。それを、例えば誰かの恋の思い出だとしましょう。

ですが、その相手の誰かにとって、その思い出は記憶にも残らない軽い出来事だったとしたらどうでしょうか?
どうでしょうか、って問うておいてなんですが、答えは決まっています。誰かにとって特別なものが、相手にとっても
そうだとは限らない。人生の法則の一つです。

それならば。

わたしが関わりあってきたすべての人たちの人生の映画の中で、わたしの登場するシーンは
編集によってカットされるかもしれない。
あまり重要なシーンじゃないからね。後のシナリオに、影響を与えるようなカットでもないからね。
夏の日の花火も。
川辺でのキスも。
雪の日に見たあの紅色の頬も、白い息も。
あなたの映画では残っているかも知れないけれど、相手の映画の中ではあなたは編集でカットされている
かもしれない。

自分の関わりあってきた人たちの映画フィルムに鋏が入れられたら。
自分の映っているシーンはいくつ残るのだろう。
そして残ったシーンの集積から、自分という人間を計られたら、どれだけ辛いだろう。

こうやって書いているようなことも関係なく。
「ああ、はまりーさん? いつも笑っていましたね」なんて云われたら。
嫌だよ! 死んでも死にきれねぇよ!

二月にこの映画を見てから、ずっともやもやした物が溜まっていました。
自分自身の人生が編集によりカットされるノイズのようなものだとしたら。
「自分以外の人生」をスクリーンに追いかけること自体、どんな意味があるのだろう。
そんな疑問を払拭できなかったのです。

後編につづきます。




『リアル 完全なる首長竜の日』 それでも彼女はいなくならない。

  1. 2013/06/10(月) 01:57:08|
  2. 邦画
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黒沢清、という名前を聞くと、どうしても胸の高鳴りを抑えられません。
ましてやその新作がたった現在、劇場でかかっているこの瞬間に、どうしてそれについて語らずにいられましょうや。

黒沢清って誰? 知らないよ、という方のためにざっとおさらいを。
黒沢清は、相米信二が80年代からずっともがき苦しんでいた、ジャンル映画と作家性の葛藤という
おもーい十字架を譲り受けた方です。

そもそものキャリアの始まりが神田川淫乱戦争(ドレミファ娘の血は騒ぐ)というピンク映画でした。
黒沢清は、ここでピンク映画という枠組みの中で精一杯、ジャンル映画にあらがってみせます。
それはもはや、ゴダールのデッドコピーと云ってもいいような、とても純粋なピンク映画とは云えない出来でした。
その後、スゥイートホームというビッグバジェット(国内ではね)ホラー映画の興行的大失敗を経て、
黒沢清は「自分の描きたい作品をジャンルの枠を飛び越えて描く」ということが不可能になりました。
そのため仕事を選べなくなり、次に受けたのが哀川翔主演のVシネマです。
ところが「蜘蛛の瞳」「蛇の道」という二作が、傑作でした。
ぎりぎりでVシネマの枠の中におさまっているのですが、オマージュを捧げているのはあいかわらずゴダールです
しかも哲学的で虚無的な、あまりにも暗いクライマックスの後味は「ジャンル映画の枠を越えた」と評判になりました。

その後、黒沢清はホラーに活躍の場所を移します。やはりジャンル映画です。
ですがおりしも時は20世紀末、小中理論というドグマを得て、役者は揃っていました。
Jホラーの快進撃が始まります。
黒沢清もその中で、「CURE」「回路」「降霊」「カリスマ」など、名前を並べるだけで陶然とするような傑作を連打します
その後の黒沢清のキャリアはホラージャンルに収まりませんが、いまでも黒沢と云えばホラーを思い浮かべる人
(おれ含む)は多いと思います。

黒沢清の最大の特徴は現実が描けないってことです。
それは郊外の中流家庭の崩壊を描いた「トウキョウ・ソナタ」の許し難いほどのリアリティの無さが証明していると
思います。黒沢映画はやはり象徴であり、夢なんですよ。現実ではない舞台で、役者たちは現実を模した動きを
する。そこで黒沢映画は最大の運転効率を発揮します。だから夢の世界が舞台の本作の題材チョイスは、
ベストにしてマストだったのではないでしょうか。

冒頭、昏睡状態の恋人=綾瀬はるかの意識内にダイブした佐藤健は、まるで重力がないかのように、ふわりと恋人
の手から浮き上がり、宙を舞うペンを目にします。
これは黒沢清の開戦の狼煙です。ここはもう現実じゃない。現実の法則は通用しない。
ゴングは鳴りました。現実の法則やルールが通用しないのだから、この映画の前半の手触りは限りなくホラーに
近いです。いつ、どんなアングルで、どんな恐ろしいものが映るかわからない。

黒沢清も、まるでこの作品を自分の集大成とすると決めたかのように、持てる技術のすべてを振り絞ります。
もちろん「小中理論=Jホラー」の技術です。肩越しに対象を見つめるカットが、横からのカットに変わった瞬間、
もう対象は消えている。あるいはいるはずもないものが画面に映っている。「いかにもなにかよからぬものが
映りそうな」画面の余白。いつ驚かされるのかという緊張感で前半はつづきます。

しかし、「いつ消えるかわからない」「いつ変質するかわからない」画面内の対象は、恋人なのですよ。
そこがちょっと、凡百のホラーと違う。
ふわりと消えてしまいそうな綾瀬はるかの存在感を出すために、ホラー的演出があるのです。

物語の中盤で、ある大きな転換が起こります。
ルールの書き換えが行われ、攻守の逆転が行われる。
もはや綾瀬はるかは、Jホラーの技術をもって描かれる、「いつ消えるかわからない」あやふやな存在ではない。

中盤、綾瀬はるかと、佐藤健が、バストショットの切り返しの連続で、会話をつづけるシーンがあります。
いままでの思わせぶりなホラーのアングルとは違う、真正面からのバストショットです。
小津映画すら思わせる安定したショット。
ここで、われわれは黒沢清からの明快なメッセージを受け取ります。
前半の、いまにも消えそうな、ホラー的な存在だった綾瀬はるかは偽りのものだった。
黒沢清が、二十数年に渡って築き上げてきたJホラーの技術は、なんとヒロインの虚像を映し出すための方便で、
それは中盤で破り捨て去られます。
自家薬籠中のものだったJホラーの技術を、黒沢清はブラフとして惜しげもなく使い捨てたのです!

もう、ここで感動して涙が止まりませんでした。
自分の殻を破り、ブレイクスルーを果たすことにより、黒沢清は新たな境地に達したのです。
それが実にシンプルで力強い、愛の物語というのがたまらないではないですか!

前半の不安定感が嘘のように、綾瀬はるかは後半、一瞬たりともフレームアウトしません。
どっしりとした安定感を持って、画面に居座りつづけます。

それに追い打ちをかけるのが、クライマックスの海辺のシーンでしょう。
ここで佐藤健を追いかけて、なんと綾瀬はるかは疾走するんです!
黒沢キャラの疾走なんて、いままで見たっけ? 記憶にありません。
必至で走り、恋人とのあいだを隔てる門をゆさぶり、門をよじ登り、あまつさえ門から落下します。
夢の中に、生々しい身体感覚を用いることにより、切実感と感動が生まれます

昨今、口先だけで語られる愛のなんと多いことか。
綾瀬はるかの疾走は、なによりも雄弁に愛を語っていたような気がします。

そしてラスト。
佐藤健が目覚める病室の窓の外に雲の切れた、晴れた空。
そして画面が明るくなる(照明さんと撮影さん素晴らしい!)
タイトルバックの、あのあまりにも印象的な曇天との対比。
これ以上、完全無比なハッピーエンドがありましょうや?

タイトルの首長竜の登場とか、寓意の具現化に非常にすぐれたファンタジーであり、そしてなによりこれは
感動的な、愛する者が、愛する者を救う話です。
ゲーム『ICO』で、手を引くのが男の子でも女の子でもかまわないと思うのです。
大事なのは、手を離さないこと。
これはそんな、黒沢清が屈折の果てにやっとつかみとった、シンプルなハッピーエンドです。

『ザ・レイド』 ベアナックルと、石田三成と、ときどきコメダ珈琲

  1. 2013/06/03(月) 00:09:01|
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そもそもこの項ははじめ、映画『ジャッジ・ドレッド』と『ザ・レイド』の関連性に注目し、
いま映画界にベルトスクロールアクションムービーの波がきているという戯れ言を
ほざくつもりでいたのですよ。

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ベルトスクロールアクションとは、TVゲームのジャンルのひとつでありまして、キャラクターがベルトコンベアーに
乗っているかのように一方向に進みながら戦っていく、という趣向です。
代表的なものに「ファイナルファイト」がありますが、
わたしはセガ派だったので
画像は「SEGAのファイナルファイト」こと「ベアナックル」のものを使用しております。

さてこのベルトスクロールアクションですが、いくつかのお約束があります。
①、敵はアジト的な場所を占拠しており。
②、その多くは閉鎖空間で、こちらは不利を知りながらそこに突っこんでいき
③、圧倒的多数の敵に対し、こちらはアホみたいな少数で、
④、スクロールしていった画面の最終端にボスがいる。

どうでしょう? 『ジャッジ・ドレッド』や『ザ・レイド』の舞台設定と、ほとんど瓜二つではないですか。
だからわたしはこの二つの映画――とくに『ジャッジ・ドレッド』――を観たときに90年代に帰ったようで嬉しくなり、
だんぜん贔屓したくなり、TVゲーム文化と比較した、軽いタッチの感想で流してしまおうかと思ったのですが。
が。
『ザ・レイド』があまりにも傑作すぎました。
さすが昨年度映画秘宝一位。ナメちゃいけませんでした。そんなわけで当初の予定を変更し、『ザ・レイド』の
素晴らしさについて述べてみたいと思います。

石田三成と三杯のお茶という逸話がございます。
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関ヶ原の合戦のはるか以前、長浜で石田三成がまだお寺の坊主をやっていた頃のお話です。
当時長浜城主であった豊臣秀吉と、三成は運命的な出会いを果たします。
秀吉は鷹狩りのあとで、たまたまこの寺を訪れ、たいそう喉が渇いていたので茶を所望します。
少年の頃から英才だった(と云われる)三成は考えます。あの偉い人はからだを動かしたあとで喉が渇いている
ようだ。そんなときは熱いお茶よりもぬるめのお茶をたっぷりと飲みたいだろう。
二杯目は、さっきよりもやや熱いお茶を、量を少なめに。
三杯目は、とびきりに熱いお茶を、ごく少量に。
そんな風に気遣いと知恵のこもった三杯のお茶を出されて、秀吉は一発で三成の才に気づき、登用した、という
まぁ実話かどうかはかなりグレーな、それでもなにがしかの教訓を与えてくれる素敵なお話です。

素敵なお話ですが、これを逆に考えてみたらどうでしょうか。
三成はたまたま秀吉の目に止まったのではない。
三成は幼い頃から、のちに天下分け目の戦の片棒を担ぐ、天下人になりたかった。
というのはオーバーにしても、滋賀県の田舎の寺坊主で終わる気はなかった。
脱出のための道は、ある日突然開けます。寺に秀吉が訪れる。ぶいぶい云わせてる信長軍の出世頭だ。
この人に気に入られたい。この人の目に止まりたい。
そんな野心や欲望が、そもそも三成の中にあったのではなかったか。
だが世界を欲しても、三成には「お茶」しか武器がなかった。
のちに関ヶ原で西軍80000人を率いる天才は、そのときなにも持たない子供だった。
彼がそのとき用いることができた武器は「お茶」だけだった。
これはそういう話ではないかと思うのです。

前置きが長くなりました。
ええ、すいません。いままでのこれぜんぶ、前置きだったんです。ほんとすいません。一応、続いていますので。
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『ザ・レイド』のお話です。

舞台はインドネシア(これは珍しいインドネシア産映画です)。
ジャカルタの街の一角に、麻薬王が占拠する三十階建てのビルがあります。
中は麻薬王の部下、売人、ジャンキーが入り乱れ、混沌としています。
そこにインドネシアSWATのメンバーが突入し、麻薬王の逮捕を目指す。ストーリーは至ってシンプルです。

わたし、この映画をDVDで二回鑑賞したのですが、一回目はまさに三成のお茶に酔う秀吉の心境でした。
「なにやらストーリーがほとんどあってないような、物凄く単純で、でも凄い映画らしい」という前情報は
入手しておりました。「シラット」という武術で彼らが戦い、それがまた凄いらしいという情報も。

ところが、麻薬王のビルに突入するSWATのメンツ、それなりに防弾ベストなども装備して、小火器も所持して
いるのです。あれ? 素手で、シラットで戦うんじゃなかったの?

おもえばすでに寺の小坊主の術中にはまりつつあったのですが、このときのわたしは
なにも気づきません。麻薬王の潜むビルにSWATが潜入するところではドキドキして、メタルギアみたいだなー
などと呑気に思っておりました。

針が落ちる音にも飛び上がりそうな、ピリピリした緊張感の中(この空気の描き方、上手い)、ついに麻薬王の
部下に彼らの存在がバレ、局面は潜入から一転、派手な銃撃戦へと突入します。
宇多丸師匠のシネマハスラーなどを確認すると、ここの銃器はモデルガンらしいんですが、それなりに重みの
ある、血と命の重さが感じられるいい銃撃シーンだと思います。暗闇の中マズルフラッシュが瞬き、コンクリの
かけらは飛び散り、なかなか楽しませてくれます。これが一杯目のお茶。

潜入がバレたSWATは弾を遠慮無くばらまきながら上の階を目指します。
しかし隣接したビルからスナイパーが彼らを狙っていますし、なんせベルトスクロールアクションですから、
敵の数は無尽蔵で倒しても倒してもきりがありません。早々にライフルは弾切れを起こし、次にハンドガンも
弾切れを起こします。太ももに貼りつけたナイフを引き抜いて、肉弾戦が始まります。
ここでも、ナイフの圧倒的に無慈悲な使い方が目を引きます。太股に、だん!と刺してそのままぐいっと手前に
引く、なんてとても痛そう。このナイフによる殺人もなかなかの殺しのバリエーションに富んでいまして、飽きない
です。これが次のアクションのためのつなぎだなんて気づかずに、最初に観たときは無邪気に喜んでおりました。
これが二杯目のお茶。

さて、最終段階です。ライフル弾切れ→ハンドガン弾切れというじつにロジカルな段取りを経て一段目が終わり、
敵の肩に突き刺したまま取れなくなるという、実に納得なシチュエーションとともに、ナイフとも
バイバイです。銃は弾切れ、ナイフは無くなる。じゃあなんで戦うの。素手でしょ。

さぁ、いまだ、三杯目のお茶だ。

ここまで実にロジカルなシチュエーションの変遷の積み上げにより、映画はたったひとつの選択肢を取らざるを
得なくなるのです。素手で戦う、という。一回目に観たときは、この典型的「男燃え」シチュエーションにひたすら
わくわくしておりました。

だけど、二回目に観てみたら……。
やられたわ。これ、どう考えたって素手で戦うのがメインの要素だわ。
というか、よーく観てみると……周到にチープさを隠してはいるけれど……。
ビルの中という限定された閉鎖空間という舞台も。
モデルガンを使った銃撃戦も。
それなりにのどごしよく、気持ちよく味わったけれど、それはあくまで前振りにすぎず。
「シラット」という、この映画を作った人々が持つ唯一オリジナルの武器
たった一本の映画で、ワンチャンスで、いかに効果的に見せるかということだけに心砕かれた映画だと気づき。
三成の三杯のお茶に膝を打った秀吉のごとく、やられた!という気分になったのです。

「えっ、そんなのわかってることじゃない。シラットがウリの映画なんだからわかってるでしょ」と思うあなた。
この映画を観ていませんね。この映画の真に恐ろしいところ(そして素晴らしいところ)は、ここまで理詰めで
主役たちの両手から得物を奪い、素手にしたにも関わらず、途中で山刀(マチェーテ)を抱えた敵が現れると、
じつに無造作に主役がシラットを横に置いてマチェーテでチャンバラをやりだすところにあるのです。

それによって、観る者に迷いが生じるんですよ。「あっ、シラットだけじゃないんだ。また武器を持って戦うんだ。
ひょっとしてまた銃を持ったりするのかな」。そんなことを思ったりもするんですよ。
これがじつに巧妙なフェイクなのです。
そんなことはないんですよ。なんだかんだでシラットがウリの映画なんです。
この映画の制作者にそれ以外の武器はないんです。それでも「それ以外の選択肢」を常に観客の頭の中に
置くことで、観客の脳裏に描かれる「次のアクション」は無限の選択肢を生むことになります。
これは上手い!

実に単純な筋書きにも関わらず、本当に観ているあいだはらはらしっぱなしだったのは、
三杯目のお茶という切り札を出したあとで、一杯目や二杯目をまた出したっていいんだよ?
という制作者のブラフがじつに有効に作用していた結果でしょう。
そんなにお金がかかっているわけではないけれど、見事な映画だと思います。脱帽です。
『ザ・レイド』。もはや観ていないって人はあまりいないでしょうが、お薦めです!


以下、蛇足


今年、劇場で観て本当に楽しかった映画に、ジャッキー・チェンの『ライジング・ドラゴン』があります。
本当に観客を全力で「楽しんでね!」と迎え入れてくれる映画で、ジャッキー映画のホスピタリティの高さに
つくづく感動したんですけれど、
ザ・レイド』が石田三成の三杯のお茶だとしたら。
『ライジング・ドラゴン』は名古屋のコメダ珈琲だなぁ、と思いました。

福岡に住んでいるのでコメダ珈琲に寄ったことはないんですが。
朝11時までに入るとトーストとゆで卵が無料でついてくるらしいとか。
ドリンクにはサービスで豆菓子がついてくるとか。
新聞や雑誌がいっぱい置いてあって読み放題とか。
いまどきセルフじゃなくて店員がフルサービスしてくれるところとか、ね。

「いえっ、そこまでしていただかなくても」と客が恐縮する過剰なサービス。
それがジャッキーっぽいなって。

こころからの善意から始まる、圧倒的な過剰なサービス。
理性と知恵、そして欠乏が生み出す寸鉄人を刺すピンポイントなサービス。
サービスを受ける側としてはどちらも嬉しくなっちゃうなぁ、という、そういうお話でした。

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