生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


『リアル 完全なる首長竜の日』 それでも彼女はいなくならない。

  1. 2013/06/10(月) 01:57:08|
  2. 邦画
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黒沢清、という名前を聞くと、どうしても胸の高鳴りを抑えられません。
ましてやその新作がたった現在、劇場でかかっているこの瞬間に、どうしてそれについて語らずにいられましょうや。

黒沢清って誰? 知らないよ、という方のためにざっとおさらいを。
黒沢清は、相米信二が80年代からずっともがき苦しんでいた、ジャンル映画と作家性の葛藤という
おもーい十字架を譲り受けた方です。

そもそものキャリアの始まりが神田川淫乱戦争(ドレミファ娘の血は騒ぐ)というピンク映画でした。
黒沢清は、ここでピンク映画という枠組みの中で精一杯、ジャンル映画にあらがってみせます。
それはもはや、ゴダールのデッドコピーと云ってもいいような、とても純粋なピンク映画とは云えない出来でした。
その後、スゥイートホームというビッグバジェット(国内ではね)ホラー映画の興行的大失敗を経て、
黒沢清は「自分の描きたい作品をジャンルの枠を飛び越えて描く」ということが不可能になりました。
そのため仕事を選べなくなり、次に受けたのが哀川翔主演のVシネマです。
ところが「蜘蛛の瞳」「蛇の道」という二作が、傑作でした。
ぎりぎりでVシネマの枠の中におさまっているのですが、オマージュを捧げているのはあいかわらずゴダールです
しかも哲学的で虚無的な、あまりにも暗いクライマックスの後味は「ジャンル映画の枠を越えた」と評判になりました。

その後、黒沢清はホラーに活躍の場所を移します。やはりジャンル映画です。
ですがおりしも時は20世紀末、小中理論というドグマを得て、役者は揃っていました。
Jホラーの快進撃が始まります。
黒沢清もその中で、「CURE」「回路」「降霊」「カリスマ」など、名前を並べるだけで陶然とするような傑作を連打します
その後の黒沢清のキャリアはホラージャンルに収まりませんが、いまでも黒沢と云えばホラーを思い浮かべる人
(おれ含む)は多いと思います。

黒沢清の最大の特徴は現実が描けないってことです。
それは郊外の中流家庭の崩壊を描いた「トウキョウ・ソナタ」の許し難いほどのリアリティの無さが証明していると
思います。黒沢映画はやはり象徴であり、夢なんですよ。現実ではない舞台で、役者たちは現実を模した動きを
する。そこで黒沢映画は最大の運転効率を発揮します。だから夢の世界が舞台の本作の題材チョイスは、
ベストにしてマストだったのではないでしょうか。

冒頭、昏睡状態の恋人=綾瀬はるかの意識内にダイブした佐藤健は、まるで重力がないかのように、ふわりと恋人
の手から浮き上がり、宙を舞うペンを目にします。
これは黒沢清の開戦の狼煙です。ここはもう現実じゃない。現実の法則は通用しない。
ゴングは鳴りました。現実の法則やルールが通用しないのだから、この映画の前半の手触りは限りなくホラーに
近いです。いつ、どんなアングルで、どんな恐ろしいものが映るかわからない。

黒沢清も、まるでこの作品を自分の集大成とすると決めたかのように、持てる技術のすべてを振り絞ります。
もちろん「小中理論=Jホラー」の技術です。肩越しに対象を見つめるカットが、横からのカットに変わった瞬間、
もう対象は消えている。あるいはいるはずもないものが画面に映っている。「いかにもなにかよからぬものが
映りそうな」画面の余白。いつ驚かされるのかという緊張感で前半はつづきます。

しかし、「いつ消えるかわからない」「いつ変質するかわからない」画面内の対象は、恋人なのですよ。
そこがちょっと、凡百のホラーと違う。
ふわりと消えてしまいそうな綾瀬はるかの存在感を出すために、ホラー的演出があるのです。

物語の中盤で、ある大きな転換が起こります。
ルールの書き換えが行われ、攻守の逆転が行われる。
もはや綾瀬はるかは、Jホラーの技術をもって描かれる、「いつ消えるかわからない」あやふやな存在ではない。

中盤、綾瀬はるかと、佐藤健が、バストショットの切り返しの連続で、会話をつづけるシーンがあります。
いままでの思わせぶりなホラーのアングルとは違う、真正面からのバストショットです。
小津映画すら思わせる安定したショット。
ここで、われわれは黒沢清からの明快なメッセージを受け取ります。
前半の、いまにも消えそうな、ホラー的な存在だった綾瀬はるかは偽りのものだった。
黒沢清が、二十数年に渡って築き上げてきたJホラーの技術は、なんとヒロインの虚像を映し出すための方便で、
それは中盤で破り捨て去られます。
自家薬籠中のものだったJホラーの技術を、黒沢清はブラフとして惜しげもなく使い捨てたのです!

もう、ここで感動して涙が止まりませんでした。
自分の殻を破り、ブレイクスルーを果たすことにより、黒沢清は新たな境地に達したのです。
それが実にシンプルで力強い、愛の物語というのがたまらないではないですか!

前半の不安定感が嘘のように、綾瀬はるかは後半、一瞬たりともフレームアウトしません。
どっしりとした安定感を持って、画面に居座りつづけます。

それに追い打ちをかけるのが、クライマックスの海辺のシーンでしょう。
ここで佐藤健を追いかけて、なんと綾瀬はるかは疾走するんです!
黒沢キャラの疾走なんて、いままで見たっけ? 記憶にありません。
必至で走り、恋人とのあいだを隔てる門をゆさぶり、門をよじ登り、あまつさえ門から落下します。
夢の中に、生々しい身体感覚を用いることにより、切実感と感動が生まれます

昨今、口先だけで語られる愛のなんと多いことか。
綾瀬はるかの疾走は、なによりも雄弁に愛を語っていたような気がします。

そしてラスト。
佐藤健が目覚める病室の窓の外に雲の切れた、晴れた空。
そして画面が明るくなる(照明さんと撮影さん素晴らしい!)
タイトルバックの、あのあまりにも印象的な曇天との対比。
これ以上、完全無比なハッピーエンドがありましょうや?

タイトルの首長竜の登場とか、寓意の具現化に非常にすぐれたファンタジーであり、そしてなによりこれは
感動的な、愛する者が、愛する者を救う話です。
ゲーム『ICO』で、手を引くのが男の子でも女の子でもかまわないと思うのです。
大事なのは、手を離さないこと。
これはそんな、黒沢清が屈折の果てにやっとつかみとった、シンプルなハッピーエンドです。
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