生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


「わたし」のための物語(後編) オブリビオンの巻。

  1. 2013/06/13(木) 01:27:07|
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いつものことですが、この項は映画「オブリビオン」のネタバレを含みます。
映画をまだ見ていない方はご注意くださいね。





二月の「横道世之介」ショックのあと、なんとなくもやもやした気分で、それでも劇場に通っていたのですが。
「オブリビオン」を観て、ようやく胸のつかえがとれたような気がします。

この映画、どこに焦点をあてて観るかで、まるっきり感想が違ってくる気がしますね。

もともとわたしはSFマニアだったこともあり、初見時はシンプルデザインのSFガジェットの連発によろこんで、
これはガーンズバック連続体の最新モード(語義矛盾)だとおもったりしました。
つまり、この映画が50年代に作られていたら、トム・クルーズは銀のタイツに身を包み、錠剤の食事をとっていた
と思うのですよ。それをテン年代のセンスでやるとああなるんだ、というのが面白かったりしました。

ただ、SF映画としても、物凄く新味に溢れたネタというわけでもなかったし、前半はひたすら地味だったりして、
そんなに爆発的に面白いという気持ちにはならなかったんですね。
ならなかったんですが、なんとなく胸の中にしっくりこない違和感が残りまして、本日二回目を観るために
劇場まで足を運んで来ました。

結果、号泣。
初回を観たおれはなにを見ていたんだ。これは男泣きに泣かずにいられないよ。
涙の半分は物語の意匠に関してだけれど、半分はこの映画出演を引き受けたトム・クルーズの心意気にだよ!

この映画、主演がトム・クルーズでなければ話がまったく通用しません。
少なくとも、他の男優が主役を演じたなら、ストーリーは同じでも、そも持つ意味の重みがまるで違ったはず。

トム・クルーズですよ。
「トップガン」以降、三十年の長きに渡りハリウッドトップスターの座に君臨しつづける、しかも彼の後続はと
振り返ってみれば、誰も育っていない。唯一無二の存在である大スター。
ご存じの通り、彼はSF映画にも多数出演しています。近年だとスピルバーグと組んだ「宇宙戦争」「マイノリティ
リポート」あたりが記憶に新しいでしょうか。だからこそ、この映画には誰もそれほど警戒していなかったはず。

まさかトム・クルーズの主演そのものが映画最大の仕掛けであり、ボンクラ魂を震わす、後半の泣ける展開への
伏線だとは誰も思っていなかったはずです。

ぶっちゃけて書いてしまうと、この映画に出てくるトム・クルーズはクローンであり、唯一のオリジナルである
トム・クルーズ(本体)はおそらくは失われ、無数に存在するトム・クルーズ(コピー)の一体なのです。
まさにわたしが死んでも代わりはいるもの状態。

前半の「横道世之介」評のところで書きました。わたしは自分の人生は編集により損なわれるのではないか、
自分の人生は他人の目線から見ればカットだらけでほとんど出番のないものになるのではないかという危惧を
抱いていると。

この映画のトム・クルーズ(コピー)が、その恐れに光をさしてくれました。

トム・クルーズ(コピー)が、スカヴの本拠地に乗り込むシーンにあわせて、フライトレコーダーからトム・クルーズ(本体)の声が聞こえてくる、泣けるシーンがあります。

この時にトム・クルーズ(コピー)の顔に浮かぶ、愕然とした表情がとてもいいんです。
フライトレコーダーから聞こえてくる、トム・クルーズ(本体)の声。そのセリフからトム・クルーズ(コピー)は悟る
のです。この世に唯一自分自身のものだと思っていた記憶、人格は、コピーされたものでしかなかった、と。

これがたとえば記憶だけだったら、それほど切ないシーンにならなかったと思うんですよ、ここ。
でも自分のキメセリフとか、アメフトの試合の記憶はじめ、“自分を自分たらしめる”、森の中の隠れ家の中に
散らばるものですら、本体の遠い残響でしかなかった。ただのコピーでしかなかった。

それを知っても、トム・クルーズ(コピー)が「そうだったのか……」なんてセリフを云わないところも素晴らしい。
表情だけで。充分に傷ついた表情だけで、わたしたちは彼の自尊心が損なわれたことを知るのです。

とどめが敵の本拠地の中に浮かぶ、無数の自分のコピーですよ。
ですが、それを見ても、もはやトム・クルーズ(コピー)は動揺すらしません。
黙々と、ただ「行動」のみによって、自分の意志を示してみせるのです。

他人から自分がどう見えるかなんてどうでもいいじゃないか。
自分のやってきたことが本当は価値があるかどうかなんて考えてみてもしょうがないじゃないか。
たとえば自分が「本物」じゃなかったとしても。
ただの無数のコピーの、たったひとつに過ぎなかったとしても。
自分の意志を貫き通すことには意義がある。


……ということばにしてみるとクサイことこの上ないメッセージを、ただ行動によって。
そしてモーガン・フリーマンのドヤ顔によって示してくれたトム・クルーズ(コピー)にわたしは感動しました。
当たり前のことですが、(本物)と(コピー)の演技の使い分けも素晴らしかったですね。(本物)はひたすらに
自信に満ちあふれ、(コピー)は最後の直前までちいさな疑問に苛まれて自分を信じ切れないというね。

本物か、偽物か、なんてどうでもいい。
意志を持ち、行動することには意義があるのです。
わたしはそのことを、この映画から学びました。

ありがとう、トム・クルーズ。
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「わたし」のための物語(前編) 横道世之介の巻。

  1. 2013/06/13(木) 00:26:50|
  2. 邦画
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「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」
という名言を残したのは北村薫先生ですが、これは映画についても同じことだと思うのですよ。

たった一つの名を持ち、取り替え不可能な家族と境遇を持ち、あーあどこか遠くへ行きたいよ、などとぼやいてみても
明日もまた同じ学校や職場に行かねばならない。
この世にたったひとりの人間であること、は時にとっても息苦しいです。
だからそんな人生でほんのひとときでも、違う空気が吸いたい、他人になった気分を味わってみたい。
そんな黄昏めいた欲望が、我々を銀幕の前へと誘うのではないでしょうか?

それなのに。
ときにそんなチンケな欲望をもったわたしたちの足元を掬ってくるような、とんでもないを持った作品に、
劇場でぶつかるときがあります。

「他人になってみたい」という欲望「いまのこの自分を肯定したい」という欲望
まったく相反する二つの欲望を持って劇場にのこのこ出かけた観客の存在を、
両手で床に叩き落とし、足で踏みつぶして全否定するような映画です。

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「横道世之介」は今年上半期に公開された邦画の中で、もっとも評価されたうちの一本ではないでしょうか。
もちろん興行収入的なことではなく、評価の面でですが。
沖田修一さんは『南極料理人』、『キツツキと雨』と前作までの評価も高く、その独特の柔らかな空気、
演出のゆったりとしたテンポなども含め、「やさしい気分になる」「青春映画の傑作」といった声を多く聞いたような
気がします。

しかし、この作品。わたしにとっては地獄でした。
いまのところ、今年劇場で観て、「殺して! いますぐ殺して!」と叫びそうになった映画はこれ一本です。

主人公である横道世之介は長崎県出身の十八歳。東京の大学に受かり、入学してきて、友人、ガールフレンド、
謎の美女などさまざまな人々と触れ合っていきます。
彼の人生を通り過ぎた、様々な人々から世之介の素顔が語られていきます。
主役の世之介を髙良健吾さんが好演しています。お人好しで、頼りなくて、でも人を引きつける魅力のある、
そんな世之介の「空気感」が伝わらなければこの映画自体が成り立ちませんが、髙良さんの存在感は見事です。

……あれ? 誉めてる?
地獄とか云っておいて?

そうです。この映画、客観的に見ればどう考えたって秀作なのですよ。脚本も見事なら、80年代を再現した美術も
見事、近藤龍人さんの撮影も見事なら、髙良さんはじめ俳優陣の演技も素晴らしい。
素直に見たなら、爽やかな青春を描いた、善意に満ちた秀作なのですよ。
たったひとつの悪意を除いて。
その悪意の名を、編集と云います。

この善意に満ちたやさしい柔らかい物語の底を、通奏低音のように耳障りに響く、ただひとつの悪意。
この物語では、いくつもの重要なシーンが抜け落ちています。
誰でも思うであろう箇所は、あれほどまでに愛し合った世之介と祥子は、なぜ別れたのか?
そこが全く描かれていないということではないでしょうか。
何故、描かれなかったのか?
そのことについて考えつめると、結論としてひとつの事実に辿りつかざるを得ません。
それはこの映画に限らず、映画で目にする全てのシーンは、制作者によって意図的に「見せられている」
シーンだと云うことです。

この映画には基本的に善意しか描かれません。
では横道世之介は悪意のかけらもない、善人だったのか。
わたしはそうは思いません。
恐らくは、涙はあったのです。愁嘆場は合ったのです。かつてあれほどまでに愛した相手に、愛故に知り得た
弱点めがけて、針のように鋭いことばを投げつけるような、そんなシーンもあったのです。
横道世之介は人間です。
彼には弱さがあったのです。
彼にはいやらしい愛欲にこころ惑される時があったのです。
彼には涙で枕を濡らす夜があったのです。
それらはすべて「編集」という無慈悲な神により削除され、あとに残るのは無臭脱臭された「爽やかな青春」。
これはひどすぎませんか? あるべき負の面を根こそぎ削っておいて、「世之介のことを思い出すと笑ってしまう」って
あんまりじゃないですか。人間をあまりにも単純化しすぎじゃないですか。
おれは横道世之介という映画は、人生に対する冒涜とすら思います。

人間は自分の人生を、ひとつの流れを持つ物語として記憶しています。それを物語的記憶と云います。
どんなに偉い人でも、あるいはどんな人間のクズのような人でも。
たった一つの物語を持つことはできます。その物語の価値は問いません。人には物語がある「はず」なのです。
あなたにも。わたしにも。

そんなおぼろげな人生観に、キックをくれたのが横道世之介でした。
たとえば、あなたの中でとても大事な思い出があったとして、映画にするとするならば、そのシーンがクライマックスに
なるかもしれない。それを、例えば誰かの恋の思い出だとしましょう。

ですが、その相手の誰かにとって、その思い出は記憶にも残らない軽い出来事だったとしたらどうでしょうか?
どうでしょうか、って問うておいてなんですが、答えは決まっています。誰かにとって特別なものが、相手にとっても
そうだとは限らない。人生の法則の一つです。

それならば。

わたしが関わりあってきたすべての人たちの人生の映画の中で、わたしの登場するシーンは
編集によってカットされるかもしれない。
あまり重要なシーンじゃないからね。後のシナリオに、影響を与えるようなカットでもないからね。
夏の日の花火も。
川辺でのキスも。
雪の日に見たあの紅色の頬も、白い息も。
あなたの映画では残っているかも知れないけれど、相手の映画の中ではあなたは編集でカットされている
かもしれない。

自分の関わりあってきた人たちの映画フィルムに鋏が入れられたら。
自分の映っているシーンはいくつ残るのだろう。
そして残ったシーンの集積から、自分という人間を計られたら、どれだけ辛いだろう。

こうやって書いているようなことも関係なく。
「ああ、はまりーさん? いつも笑っていましたね」なんて云われたら。
嫌だよ! 死んでも死にきれねぇよ!

二月にこの映画を見てから、ずっともやもやした物が溜まっていました。
自分自身の人生が編集によりカットされるノイズのようなものだとしたら。
「自分以外の人生」をスクリーンに追いかけること自体、どんな意味があるのだろう。
そんな疑問を払拭できなかったのです。

後編につづきます。




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