生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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7月に見た二本の映画の主人公を対面させてみた。

  1. 2013/07/25(木) 18:19:33|
  2. 映画
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 スクイーザーに押しつけた果実のように楕円に広がった太陽が、無様に地平線の上でつぶれていた。
 黄昏に近いそんな時間になっても陽光は強烈だった。リンネルの袖を肘までまくりあげた堀越二郎の腕に、襟足に、ふつふつと玉のような汗が浮かんだ。あちらこちらで煙を上げている瓦礫を避けながら、彼はゆっくりと足を進めたが、そのあいだなんども立ち止まり、眼鏡を外して顔の汗を拭わなければならなかった。
 何度目かにそうして顔を拭ったとき、ふと二郎は、眼鏡を掛け直す行為にまるで意味がないことに気づいた。
 裸眼で見ても、左右にうずたかく積み上げられた鉄の塊の、リベットのひとつひとつが見て取れる。銃弾の痕も生々しい翼に、くっきりと描かれた日の丸も。
 重油の浮かんだ水たまりを真っ赤に染めた、夕焼けの色も。
 自分がいるのがどういう場所か、おおよそのところはそれで察しがついた。
 少し悩んだあとで、二郎は眼鏡を掛け直した。さしたる意味はないとしても、そうしておかなければ落ち着かなかった。
 そうしたとき、ふとうしろから肩を叩かれ、それと同時に耳元で声が響いた。
「落とし物をしませんでしたか、親友」 
 驚かなかったと云えば嘘になる。「この場所」にいるのは自分と、せいぜいがカプローニの眷属くらいだと思っていたからだ。聞き覚えのない声だった。
 振り返った二郎は、相手を見上げねばならなかった。白人の成人男性だ。二郎には衣装の善し悪しなどわからぬ。だがよほどの余裕が財布にもこころにもなければ似合いそうにもない、豪奢な衣装を男は身につけていた。
「どうしましたか、親友」
 男はささやくようにそう云って、笑った。
 その笑顔を見たとたん、二郎の頭からは彼の衣装のことなど吹き飛んでいた。ありとあらゆる不安や、不信を吹き飛ばす、無限の慈愛と安心を与える微笑――それは人生でおよそ数回と見られないであろう、希有な微笑だった。
「失礼。名乗るのが遅れました。わたしはジェイ・ギャツビーと申します。育ったのはアメリカですが、教育はオックスフォードで受けました――貴方は東洋の紳士なのですかな、親友」
「どうも」
 あわてて居ずまいを正し、眼鏡を位置を治すと、二郎は静かな小声でそう返した。
「堀越二郎と申します。三菱重工業で航空機をやっています」
「なるほど――」
 ギャツビーと名乗った男は、ひとりうなずきながら、左右に山と積まれた航空機の残眼を見回した。
「飛行機、ですか。あなたもあのリンドバーグと同じ、命知らずな冒険家なのですかな、親友?」
「いえ、わたしは目が悪いので、飛行機乗りにはなれませんでした」
「ほう」
「代わりに、飛行機の設計者になったのです」
「なるほど。それでは、これは貴方の夢だったか」
 ギャツビーはそう云うと微笑んだ。
「そうではないですか? わたしはニューヨーク、ウェストエッグの自宅のプールサイドで、電話を待っていたのです。電話に出た記憶も、床についた記憶もない。気がつくとこの奇妙な場所にいた。考えられることは二つです。夢を見ているか、誰かの夢に紛れ込んだかだ」
「いえ」
 二郎は首を振った。
「これはわたしの夢ではありません」
 物問いたげなギャツビーを置き去りにして、二郎はそのまま歩き出した。
 油の強い匂いが鼻をついた。
 夢にしては感覚に突き刺さるすべてが鮮明にすぎた。ねじくれ、焼け、折れ曲がり、飴のように溶けた、鉄の塊。そのひとつ、ひとつが目に飛び込み、二郎のこころを掻き乱した。
「待ってください、親友」 
 うしろからギャツビーの声が追いかけてくる。
「これはあなたの落とし物なのではないですか?」
 振り返った二郎の前に、ギャツビーは無骨そうな手に握りしめた、鉄片を差し出した。
「ヤァ、これは栄十二型の冷却フィンだ」
 眼鏡のむこうの二郎の顔が、少年のように輝く。
「しかも無傷の新品だ。どこにありました」
「あなたが立っていたあの場所の、すぐうしろに」
「これは恐縮です、ギャツビーさん。あなたに御礼を云わねばならない」
「良いのです。あなたの夢に勝手にお邪魔した、わたしが悪い」
 ギャツビーは肩をすくめた。
「いい加減、認めたらどうですかな。わたしは海上飛行機を所有しておりましたが、飛行機の墓場の夢を見る趣味などない。これはあなたの夢なのでしょう?」
 手にした鉄片をぎゅっと握りしめたまま、二郎は答えない。ギャツビーはため息をついた。
「東洋人は内向的だと云うが、あなたの態度は解せませんよ、親友。わたしの時代にあったものとはずいぶん形が違うが、わたしのような門外漢にだってはっきりとわかる。これは戦うための飛行機だ。異国に攻め入り、相手の土地に爆弾を落とすための飛行機だ。違いますかな?」
「……そのとおりです」
「そして恐らくは、これはあなたが設計した飛行機なのではないですか?」
「そうです」
 二郎はまっすぐに前をむいたまま答えた。
「零式艦上戦闘機二一型。わたしの息子です」
「やっとわたしたちのあいだに、共通点を見つけましたよ、親友」
 ギャツビーはそう云うと、首元からメダルを取りだした。
「これはモンテネグロからわたしに贈られたメダルです。ギャツビー氏の栄誉を讃えて――わたしたちはともに戦争の英雄というわけだ」
「英雄?……あなたはこの山ほどの瓦礫を見て、そう云えるのですか、ギャツビーさん」
「これだけの数がつくられた飛行機だ。さぞかし名機だったのでしょう。山ほどの敵の機体をおなじだけの瓦礫の山にしたはずだ。あなたは英雄ですよ」
 ギャツビーはそう云うと、二郎の肩を馴れ馴れしくつかんだ。そんな仕草も、彼がすると不思議と様になっていて、二郎は不快にならなかった。
「息をして、ものを喰らい、眠る。ただそれだけの営為を繰り返すなら、それは獣と変わりません。わたしはあなたを讃えよう、親友。この瓦礫はあなたが夢をつかもうと努力した証だからだ。それはあなたが人間である証でもあるのです。あなたは掴みたかった。力? 栄誉? 富?――あるいは」
 ギャツビーの顔に、ふと遠くを透かし見るような表情が浮かんだ。
「あるいは、貴方もわたしとおなじ定めの下に生まれた男なのかもしれない。ただ一人の、夢の女を手に入れるために、泥の足と塩の足で支えられた、巨大な城を手に入れたのかもしれない」
「申し訳ない、ギャツビーさん」
 二郎はそう云いながら、額の汗を拭く。
「わたしには、貴方がなにをおっしゃっておられるのかわからない」
「パーティーです!」
 ギャツビーが昂ぶった声でそう云った。
「わたしはそうした。パーティーを開いた。毎夜、毎夜の馬鹿騒ぎ、浮かれ騒ぎ。それは巨大なたくらみだったのですよ、親友。たった一人の女を迎え入れるための。貴方もそうしたはずだ。パーティーを開いたはずです。花火を上げて……」
 鋭い音とともに、空から東京に落ちてくる焼夷弾。対空放火の放物線。
「自らの力を誇示し――」
 栄十二型の最高速度は533km/h。
「あなたは掴んだのだ、夢を。そして夢の女を。違いますかな、親友?」
(笑ッテ散ッテ行キマス。母上様モ微笑ンデクダサイ)
(清ハ微笑ンデ征キマス。出撃ノ日モ。永遠ニ)
(オ母サン。オ母サン)
 気がつくと。
 二郎はてのひらから血を流していた。
 冷却フィンがてのひらの皮を突き破っていた。
 それを見つめながら、静かに二郎は云った。
「わたしは戦争の英雄ではありません。ギャツビーさん。富も栄誉もわたしには無縁です。そんなものを手に入れたいわけではなかった」
「わかります――」
「わかっていません。わたしはただ、子供が蝶をおいかけるように、夢中になっていたのです。何年も、何十年も夢中になって、気がつくとこの土地に立っていたのです。この場所はわたしの夢ではありません、ギャツビーさん」
 二郎はギャツビーを見つめた。
「わたしの、地獄です」
 ギャツビーの顔に影が差していた。
 さきほどまでの陽気な様子とは一転した、恐ろしく沈鬱な考え込むような表情だった。その神経質な態度のほとんどは、彼自身の内面にむけられているように見えた。
 馬鹿な、とか、それならばなぜ、とか、ぶつぶつと声にならない声が、ときたまギャツビーの口から漏れた。
 二人はしばらく並んで歩いた。
「貴方は夢の女性を手に入れましたか、親友」
 二郎は微笑んだ。そして力強くうなずいた。
「良いことだ。それはとても良いしらせだ」
 二人はいつのまにか、池とも海とも知れぬ、莫大な水のあつまりのそばに立っていた。
「対岸にあるあの明かりが見えますか、親友」
「ええ。呉鎮守府の警戒灯ですね」
「違うっ!」
 そのことばはあまりに強い勢いで、二郎は思わず首をすくめた。
 殺されるかと思った。
 ギャツビーは一瞬で平静を取り戻し、その顔には微笑が戻っていた。
「あれはわたしの夢なのです。貴方とわたしは同じだ、親友。夢を手に入れるために夢中になっていた。ただわたしは迂遠に過ぎたのです」
 ギャツビーはそう云いながら、水の中に足を踏み出した。
「わたしも貴方を見習って、真っ直ぐに愛すべき女のもとへ歩いていくことにしましょう。親友。きっと彼女はわたしを受け入れてくれるはずだ。受け入れてくれるに決まっているのです、親友」
「お気をつけて」
 二郎は手を振った。
「おたっしゃで、ギャツビーさん」
「その名は違う」
 ギャツビーは手を振り替えしながら笑った。もう腰のあたりまで水につかっていた。
「あなたに秘密を教えよう。わたしの本当の名前は――」
 いいよどんだあとで、ことばを途切らせ、ギャツビーはまた大きく手を振った。
 二郎はそのままギャツビーの姿が見えなくなるまで見守っていた。
 やがて日は沈み、水面に霧が出て、遠くにぼんやり光る明かりだけしか見えなくなった。
 二郎は死ねなかった。
 生きることが、彼の使命だった。
 わたしたちは帰りの燃料をもたない飛行機に乗った、ひとりのパイロットだ。どんな逆風に流されたとしても、それでもわたしたちは、前へ、前へと、進まなければならない。
 
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プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命

  1. 2013/07/21(日) 22:22:42|
  2. 洋画
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父親との折り合いが悪く、生家とのつきあいが途絶えて二十年近くになる。
そのながい沈黙のあいだに、遠い親戚がいちどだけ電話をかけてきた。
叔母は美しい人だった。少なくともわたしの脳の中に残っているイメージでは。
声から想像するに、声帯のまわりにたっぷりと脂肪がつき、彼女は老けて、ふくよかになり、
そして恐らくは幸せなのだろうと思った。
そんな彼女が、電話を切る間際、感に堪えかねたようにこう云った。
「あんたの声なァ、若い頃のお父さんの声にそっくりや」

電話が切れたあとも受話器を握りしめていた。
汗で受話器のプラスチックが湿って、不快だったことをよく覚えている。
この映画を見て、あのときのなんとも云えない感じを思い出した。

宿命、とは日本の配給会社がつけたサブタイトルであろうが、日本の映画界では宿命と云えば自動的に
橋本忍と、彼が脚本を書いた「砂の器」を想起させるようになっている。その連想がさほど的外れではないので、
わたしはこれは上手い邦題だと思った。

「水よりも濃い」血によって紡がれた縦軸の物語。父と子、二代にまつわる業(カルマ)のお話だ。

なによりも褒め称えられるべきは、ショーン・ボビットの撮影だろう。
この方、調べてみたらわたしが大好きなウィンターボトムの「ひかりのまち」の撮影監督で嬉しくなってしまった。
それはともかく、ボビットによって撮られた冒頭数分間の長いワンカットが、この長尺映画の魅力の何割かを
担っているとわたしは思った。

ライアン・ゴズリングはこの作品でも名演技を見せているが、まずは彼は背中だけで勝負する。
遠くから聞こえてくるサーカスのジングルらしき音。画面に映るゴズリングの背中。ピンは彼の背中にあって
被写界深度は浅く、背景はぼんやりとしか見えてこない。
恐らくは巡回サーカスの敷地の中を歩いているのだろう。そのゴズリングの歩みがなんともいえないのだ。
櫂を無くした舟のように、頼りない歩み。どこへいくのか自分で分かっていないような歩み。
それはそのまま、彼の今後の人生の行く先が、まるであやふやなことを暗示している。
そして、我々の人生だって、そんなものではないだろうか。どこへ行くとも知れない。明日はどうなるか
わからない。
だからこの作品の冒頭十五分と、西鶴一代女の冒頭十五分を見れば、
わたしたちの人生についてはおおよそのところが把握できる。
大げさだと笑っちゃいけないよ。本当のことです。

そして冒頭のシークエンスが終わったあとで語られるのは、典型的な負け犬の転落人生だ。
ゴズリングは家族を養うために銀行強盗に手を染める。
このオートバイを使った強盗の描写が相当にスリリングで映画的豪華さに満ちあふれているため、誤解しそうに
なってしまうけれど、これは決して痛快なクライムアクションなどではない。映画のあちこちで、悲劇へと至る
結末は何度も何度も暗示される。そしてゴズリングの物語は、その通りの結末を迎えてしまうのだ。

前情報なんにもなしで観にいったんで、本当に驚いたんですけれども、ゴズリングの人生が終わっても映画は
つづくんですね、びっくりした。
強盗に失敗したゴズリングを、「世界にひとつのプレイブック」のブラッドリー・クーパー演じる警官が追い詰める。
そして視点はゴズリングを射殺したクーパーに移り、第二部が始まるんですよ。

しかも、なんとも豪華な構成だなーと思ったんですが、この映画、視点が変わるたびに映画のジャンルが変わる
んですね。ニューシネマ的なバイクアクションから、警察の内情を描いたクライムサスペンスへ。
このシーン、汚職警官役のレイ・リオッタが車の中を覗き込むシーンがめちゃくちゃ怖いです。
だってレイ・リオッタの顔が、車のフレームに邪魔されて見えないんですよ! 映画なのに!
それからレイが顔を動かして、ゆーーーーっくり彼の顔が見えてくる。ほとんど貞子ですよ。
そう、第二部はちょっとホラーが入っていたりもするんですね。

そしてブラッドリー・クーパーがひとつの事件の解決をみて、人間的に成長し、どうなることかと思っていたら。
暗転した画面にいきなり十五年後って出て、わたしは劇場でリアルに「ファッ!?」と叫びましたよ。

十五年後の第三幕の主役は、成長したブラッドリー・クーパーの息子。
そして彼が、とある出会いをする、ある少年。
この二人が画面に出揃ったときは、本当に鳥肌が立ちました。今年の映画体験の中でも、もっとも映画的快楽に
溢れかえった瞬間と云っても過言じゃない。そういう話か!というあの悟り。

ここでもショーン・ボビットの撮影が光ります。
少年は、自転車に乗っているのです。
それを背後から捉えるショットが、角度といい、カメラの高さといい、彼の父がオートバイに乗っていた
ときのショットとほぼ同じなんですよ。映画的快楽って、こういうのを云うんじゃないでしょうかね。

そして第三部に至って、ようやくこの映画の主役でありテーマでもある業(カルマ)が顔を出します。
父が息子へと受け継「がせてしまった」業は、果たして息子の人生までも支配するのか。
それとも息子は、輪廻の輪から脱出することができるのか……。
答えは、そう、タイトルが表している通りなのです。

松林の向こう側。
では逆に松林のこちら側とはどんな世界でしょう?
そんなこと、聞く必要なんかないじゃないですか。あなたはよく知っているでしょう?
ずっと同じ人に囲まれ、ずっと同じ景色を見て、ずっと同じ恐怖に囚われている。そんな生活をあなたは良く知っているはずでしょう?

なんの刺激もない街に土砂降りの雨
この街は人を滅入らせてしまう
退屈な街に土砂降りの雨
この街は住んでいる人をダメにしてしまう。

  The Smiths William,It was really nothing.

わたしたちはみんな松林の中に住んでいます。
ヒッチハイクすれば、電車に乗れば、あるいはイーニドのようにバスにのれば、容易く出て行けるはずの
小さな小さな世界に住んでいます。
いつでも出て行ける、とみんなが云うのです。
でもあなたは知っているのです。あなたが住んでいるその街に出口がないことを。

わたしたちの人生はどうして一代で終わらないのでしょうか。
どうして、絶望しかないとわかっているこの世界に、新たな生命をもたらせつづけるのでしょうか。
それはたぶん祈りなのだと思います。
自分には無理かも知れない。
だがひょっとして、自分の血を継いだ、子供なら。
プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ。あの松林の向こう側へ、行けるかもしれない。
それは祈りです。

この映画は、祈りでできているのです。

『華麗なるギャツビー』

  1. 2013/07/08(月) 23:57:52|
  2. 洋画
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In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice……
ぼくがまだ年若く、いまよりももっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれた……

たいそう有名な、F.スコット・フィッツジェラルドの「偉大なるギャツビー」の書き出し。
映画は、まさにその一文、視点保持者ニックの語りから始まる。
これはどうやらタイトルだけを借りたハンチクな代物ではなく、本気で“あの”ギャツビーを映画化したもの
らしいと背筋を正す。

アメリカという国が他の国より恵まれている点は多数あるけれど、その中でも格別なものの一つは、
自国の青春をまるごと描いた小説を、自国を代表する文学として持っている
という点がある。本邦においては、皇紀なんて2673年もあるわけで、2600年もつづいてる歴史の“青春”って
いつよ?という話になり、大変にややこしい。夏目漱石があるではないかという話があるかもしれないが、漱石の
文学が日本の近代黎明期のすべての人々の心情を代表しているとは云いがたい。

その点、「偉大なるギャツビー」は明朗にアメリカの青春そのものだ。
20年代、作者によってジャズエイジという名前までつけられた狂騒の時代。ハリウッドと禁酒法と乱痴気騒ぎの
時代。自らを省みることなき浮かれっぷりは、これはもう国がまるごと青春やってたようなものである。
そしてのちの世界恐慌を経た世界大戦へと至る、青春のビターな結末をもこの小説は描ききっている。
ギャツビーの栄光と没落は、そのままアメリカという国の軌跡と重なるのだ。

この映画でバズ・ラーマンが描いた、豪華絢爛なギャツビー邸のパーティーには、なんだかうきうきさせられる。
3Dで観ると、本当に地が宙に浮いたような気分になる。夢見心地な感じ。
もちろん、映画的に、絵面的に豪華だからっていうのもあるだろう。
だが恐らく、明確な演出として、この映画のすべての豪華さはリミッターが外れている。
ディズィ登場シーンのあの幾重にも重なったカーテンとか、海峡の打ち上げ花火とか、逢い引きの部屋を
埋め尽くした花とか。たぶんその豪華さの行き着く先がどうなるか、登場人物は誰も考えていない。
あえて目を背けているのか、それとも浪費を直視しても微笑んでいられるだけの余裕があるのか。
どちらかはわからないが、観ているこちらが「調子に乗らない方がいいよ」「少しは貯金した方がいいよ」と
忠告したくなるくらい、放蕩は無制限につづくのである。
そんな心配、せこいって?
いや、こちとら祇園精舎の鐘の音を聞いて大きくなってきたから。

そしてギャツビーの登場とともに、この再現のない放蕩、この途方もない浪費が、ただひとりの女を手に入れる
ためだったとわかる。
そのとてつもないロマンチシズム。
対岸の緑の灯に託された、浪漫。小説でも印象的だった緑の灯は、映画では強烈な残像をともない、こちらの
胸に焼きつく。SF映画のレーザービームなんかよりも鋭く。

ここに限らず、小説中で印象的だったシーンや要素が、実に印象深く拾い上げられているのがバズラーマン版
ギャツビーの特徴だ。

ウェストエッグとニューヨークの中間地点にある「灰の谷」も、もうあれほどはっきりと色合いまで含めて差別化
されると、ほとんど寓話の舞台だ。
そしてその「灰の谷」に建った「エクルバーグ博士のメガネ」の不気味なこと。
小説を読んだとき、この際限ない放蕩を描いた物語に、とてつもなく覚めた「神の視点」が描かれていることに
気づいて慄然としたものだけれど、映画ではなおさらメガネは容赦なく、不吉な終わりを予言している。

そしてなによりもギャツビーだ。

映画ってなに?
映画に出るってどういうこと?
決まっている。役者という人が、嘘の名前と嘘の身分を持って、我々の前に登場することだ。
その意味で、まさにギャツビーという小説は映画化にうってつけだし、ギャツビーという役柄は、これは想像だけれど
役者ならば誰でもやりたがる、魅力的な多面性を持った人物ということになる。

貧農の生まれでありながら名家の子息然とし。一文無しのリスクを日々負いながら、途方もない財を蓄え。
人々で溢れかえったパーティーの中心にいる孤独の王。

役者はみんなギャツビーなんだ。
ハリウッドそのものがギャツビーだ。
そしてたとえば魚民で隣に座った見知らぬ客に、「おれ、地元じゃちょっとしたあれなんスよ」と嘘をつくとき、
わたしたちはきっとギャツビーになっているのだろう。

ディカプリオは名演だ。ちょっとだけジャンゴのキャンディを引きずっているような気もしたけれど、原作では
「世にも類い希な笑顔」と表現されている登場時の笑顔をクリアしたなら、それだけで満点だ。
あとディズィを観る陶酔しきった中二病患者の顔とか、神経質な顔のひきつりとか、見事でしたね。

それ以上にスゴイのがトビー・マグワイヤ。彼はなんて云ったらいいんだろう。ホームズにおけるワトソン的な、
というか、物語の主役ではないけれど、主役のそばに寄り添う、視点保持者。小説では必要不可欠な道具だが、
血肉を備えた役者が演じる「実在の人物」となると、こうなるんだぁと驚いた。
ギャツビーの葬式で、出て行けと怒鳴るシーンなんて、生身の人間然としていて、とてもよかった。

また、トビー・マグワイヤが精神病院にいて回想しているという設定もいいじゃないですか。アマデウス的というか、
もっというならカリガリ博士的なひねりがきいていて。

トビー・マグワイヤがいる場所が、「すべては終わったのだ」と教えてくれる。
キャリ・マリガン演じるディズィはどうなったのか、それ以外の人物は。
わからない。この物語ではそれ以上を語ると嘘になる。
ただ、この映画は最後に、あの対岸の緑の灯に戻るのだ。

たとえば遠い昔に。
街の灯を高台から見下ろしながら、この灯の中にあの娘のいる窓の明かりも含まれているんだと思って、
希望に胸を焦がしたことがきみはないかい?
わたしはある。
それが遠い日の花火だとしても、その花火はいまも胸の中で蘇らせることができる。

この映画は3D映画である。ぜひ3Dでの鑑賞を薦めたい。
すべての豪奢、すべての放蕩が、
ただひとりの男が、ひとりの女を手に入れるためのひとにぎりの花束だった。
そう思ったとき、廃墟と化したギャツビー邸の姿が、本当に胸にくるから。
手に入るものだけを確実に手に入れていく人生も素敵だと思う。
でもわたしはやはり、対岸の緑の灯に憧れつづけたギャツビーに共感せざるを得ない。
そしてそれを小説から「可視化」してくれたこの映画は、わたしにとって忘れがたいものになった。

原作に忠実なこの映画は、映画の最後の一文の引用で幕を閉じる。

こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。

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