生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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5つ数えれば君の夢

  1. 2014/12/16(火) 23:20:10|
  2. 邦画
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東京女子流の少女たちがはしゃいでみせる、楽しいエンドロールで、本作はその本質が「アイドル映画」であることを
てらいもなく晒してみせる。

じゃあ「アイドル映画」とはなんぞや、ということになればこれは制作者と観客がある共犯関係を結ぶことになる映画、だ。
わざわざ云ってみせるのも恥ずかしいが、その犯罪とはもちろん窃視であり、本来は自然に属する「少女」を枷にはめ、
その枷からいまにも突き破って出そうな少女の「素」の存在を匂うことに歓びを感じる残酷ショーだ。

なんだっていいけれど、たとえば大林宣彦版「時をかける少女」を思い出してみよう。
弓を構える原田知世に、ぐーっとカメラが近づく瞬間、そのカットのわずかな冗長さ、そこに籠もった熱に、我々は
制作者からの「どや、この娘、ええやろ?」という目配せを受け取るわけだ。そして「ええです。監督、ええですわ」と
こころの中でうなずきつつ、表面はただの無害な映画観客を装って、なにくわぬ顔で劇場をあとにする。
アイドル映画ってのはそんな完全犯罪を積み重ねて、ここまできたわけですね。

ところが、この「5つ数えれば君の夢」は、あまりにもその犯罪の手管がずさんなんですわ。たぶん、意図的に。
手品の用語に、サッカートリックというものがありまして。
まぁ、これは手品の最中に不器用なフリをして、わざと失敗するんですね、で、観客をぎょっとさせて、最終的には
成功させる。はらはらしたぶん、最後に綺麗に決まったときの観客は倍増する、というそういう仕組みです。
この映画はアバンタイトルすべてをサッカートリックに使っているという、なんというか奇特な映画です。

冒頭、教室に少女たちがいる。それぞれ別々に会話を交わしながら、どうもみんな画面のこちら側を気にしている。
で、画面が切り替わると、新井ひとみ演じる主人公のひとり、サクという少女が、教室のうしろの棚の上に寝そべってる。
いまどき、奔放な少女を表現するのに、教室のうしろの棚の上に寝そべる、なんてありますか!?
昭和が終わって二十六年も経ってるのに!?
で、サクはクラスメイトが話題にしているミスコンテストのことなんてどうでもいいやとばかりに教室を飛び出す。
で、廊下に出てスキップを始めるんですが。
このスキップが死ぬほどぎこちない。
これもまた、サクの自由奔放さを表現しているのかもしれない。でも結果として画面に映っているのは、演技しろと
云われて要領を得ないまま、とりあえずスキップしてみた新井ひとみ本人の不器用さです。
もう、映画の枠組みの域を超えて、いつ東京女子流の彼女らの「素」が飛び出してくるかわからないスリリングさです。
そして主役の女の子たちそれぞれを画面に据えた、いまどき滅多にみないダサいスプリットスクリーン。
あまつさえ、画面に出たタイトルに合わせて、彼女たちがタイトルコールしてくれます。
「こんにちは、東京女子流です! わたしたち、いま映画に出てます! これから演技します! よろしくね!」
そんなメッセージが伝わってきて清々しいですが、こっちはかけらも物語世界に没入できません。

はからずも、この拙い導入で、こちらはアイドル映画の犯罪性について、しみじみと実感せざるを得なくなり、死ぬほど
居心地が悪くなります。
女子校の文化祭を舞台にした映画といえば中原俊『櫻の園』(1990)が思い浮かびますが、あの作品は本作とは
対照的に、じんのひろあきの脚本に少女たちをがっちり縛りつけた、作り物のまさに箱庭的世界でした。
その作為性ゆえに、われわれ男性は窃視的犯罪性を意識することなく、少女たちの世界に浸れたのです。
ですが「5つ数えれば君の夢」は、絶えず「少女を演じている少女」の存在を意識させつづけます。
となれば、こちらもアストラル界を浮遊する霊体などではなく、四十過ぎたおっさんとしての自分を意識せざるを得ません。
現実で、四十過ぎたおっさんがサムネにあげた小西彩乃の顔がアップで見えるくらい近づいたら逮捕されてしまいます
ので、居心地の悪さは耐えることがありません。

ところが、です。
カットの数が激減し、カメラがどっしりと腰を落ち着け、山戸結希という監督が恐ろしく長いブレスを隠し持った監督である
ことに気づくころには、「演技をしているように見えない」少女たちの拙い演技が、違った意味合いを持って見えるように
なります。

文化祭の前夜から当日を頂点として、(物語上の)少女たちの関係は煮詰まります。
さくの、都の、委員長の、苦痛と情熱が、彼女らの口を通して語られます。
正直、脚本の出来は不自然です。わたしが後半で思い出したのは黒沢清「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の洞口依子の
長ゼリフで、まぁいまどきの女子高生の口から「にんぴにん」なんてことばが出てくることはないでしょうから、
彼女たちは完全にセリフを云わされているだけ、です。

ところがそのセリフが、その文面の意図することとはまったくべつに、こころに響くんですね。
朗読、というものが文章の受肉であるように。
哲学的な(監督は哲学科出身らしいです)穿ったセリフが、ことばの意味とはまったく違うところで生々しさを持ってしまって
いる。生きた少女の、生きた声帯を通した、艶めかしい、湿度をもったことばに聞こえるのですよ。

新井ひとみがクライマックスで爆発的に踊るダンス。
まぁ、ナポレオン・ダイナマイト的と云いましょうか、日本だと市川順の「BU・SU」なんてありましたが、まぁ青春映画の
クライマックスではありふれたものと云っていい。
でも直前の、セリフ棒読みなんだけれど魂の籠もった(語義矛盾だなぁ)朗読のあとだと、それがひどく感動的に見えて
しまうんですよ。

あるいは、中江友梨の演じる委員長の、ある告白。これもまぁ、告白の内容は、うん、わかる、というものです。
フェミニズム的視点のある悲痛な逆転、というのが描かれて印象的ではありますが。
ただこれも、聞いてる側は「委員長」の吐露なのか、中江友梨の吐露なのかわかんなくなるんですね。
そのスリリングさ、生々しさ、危うさ、というのが本作の魅力ではないでしょうか。
その意味ではこの映画は「アイドル映画」の王道だと思います。

最後に。
この作品でいちばん印象的だったのは、女子校の少女たちの百合的恋愛感情、ではなくてですね。
彼女たちの視点から描かれる、男たちの、それこそ犯罪的なまでの鈍感さですね。
愚鈍で粗野な男、というのは映画で山ほど描かれてきたわけですが、この映画の男たちは違うんですよ。
知的で、相手をきづかう能力もあり、なんなら魅力的と云ってもいい。
ただ、どいつもこいつも凄まじく鈍感なんですよ。目の前にいる女の子がそもそもなにを悩み、彼らになにを求めて
いるのか、かけらも理解していない。
他人の目を通して自分の姿を見る、というのは映画における最大の歓びだと思っています。
そんな意味ではこの映画はロスト・イン・トランスレーション級の「他人から見た俺」映画だったと思います。

致命的なまでに鈍感な男たちに、救いを求めざるを得ない女性という存在に同情を示しつつ、本稿を終わります。

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ゴーン・ガールの感想を失恋自殺したTくんの霊に語ってもらった

  1. 2014/12/11(木) 23:14:04|
  2. 洋画
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ニック(ベン・アフレック)とエイミー(ロザムンド・パイク)は誰もがうらやむ夫婦のはずだったが、結婚5周年の記念日に突然エイミーが行方をくらましてしまう。警察に嫌疑を掛けられ、日々続報を流すため取材を続けるメディアによって、ニックが話す幸せに満ちあふれた結婚生活にほころびが生じていく。うそをつき理解不能な行動を続けるニックに、次第に世間はエイミー殺害疑惑の目を向け……。(シネマトゥデイより)


「鳥に鳴くなと言える? 鳴いた鳥はうるさいから、ライフルでうてる?」
                    ――大島弓子 「夏の終わりのト短調」




やぁ。
ぼくは十八ヶ月ほど前に
恋に破れて白い首を吊った、悩めるTの亡霊だよ。
妙なる響きに誘われて、天界に上ったけれど
映画館の闇が恋しくて、すぐに地上に舞い戻ってしまったんだ。

それで『ゴーン・ガール』を観たんだけれど、これは犯罪映画だよね。
拉致と誘拐に関する映画だ。
拉致はひどいよね、自由が無くなってしまうから。
でもぼくは誰も拉致してくれなくて、それでしょうがなくて自分で首をくくったんだ。

縛りつけられて、自由がなくなって、「ここから出して!」と叫ぶ人たちを見ると、ぼくはとても奇妙な気分になる。
だってその罠にとびこんでいくのはいつも彼ら自身なんだから。
蜜壺にはまった蟻みたいに、たっぷりとした自由に身を浸しているうちには
その罠はとても蠱惑的に見えるのかな?
ぼくは首をくくる前に、拉致される人たちを何人も見たよ。
彼らはいつも拉致されるとき、しあわせそうに微笑んでいた。
彼らの指には、いつも加害者と被害者の名前が刻まれた指輪が輝いていたよ。

もうひとつの犯罪、誘拐についても語ろう。
誘拐もひどい犯罪だ。卑怯者の犯罪だよ。人質を取って、自由を無くしてしまうんだから。
卑怯な犯罪だけれど、悲しいことにこの世界からこの犯罪は無くならない。
毎年、何人、何十人、何百万人の被害者が出ている。
責任感と、血への親愛と、憎しみが、彼らを身動きできなくさせる。
何百万人もの被害者が出ているとさっき云った。
それなのに世間が騒がないのは、被害届がほとんど出ていなくて、それどころか被害者本人が自分が誘拐の被害者だと
気づかず、笑って過ごしているからだ。
誘拐の加害者に頭を撫でられて、被害者は満足そうに微笑んでいるんだよ。

加害者と被害者がいるから犯罪なの?
世間がそれは犯罪だと認めなければ、犯罪にはならないの?
ぼくにはわからないことだらけだよ。

それでもこんな風に映画館の暗闇で
浮き世のあれやこれやを見せつけられていると
生きていることが懐かしく感じられてしまう。
あの風を頬に受けて、生の実感を感じたくてたまらなくなるんだ。

でも、
恋だけはごめんだよ。
おお、神さま、勘弁してください。
恋だけは、もう二度と、ごめんだ。


フューリー ~戦争というお仕事

  1. 2014/12/09(火) 01:30:32|
  2. 洋画
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中学校のクラスメイトに、タカハシくんという男の子がいた。
喘息もちで、いつも吸入薬のケースを手放さず、女の子みたいに細い肩をしていた。田舎の中学校らしく臑毛だらけの
ジョックスが幅をきかせる弱肉強食の世界で、彼は目立たない生徒だった。勉強でも、もちろん運動でも、秀でたところは
なかったと思う。

彼が痩身に似合わない偉大な情熱の持ち主であることを知るのは、中学二年の秋のことだ。
タカハシくんは突然、「大脱走」にズッ嵌りした。いま思い返してもその嵌りっぷりは常軌を逸していた。
うちの中学校は野球に力を入れていて、グラウンドは高いフェンスに囲まれていた。
体育の授業の最中、彼は突然そのフェンスに奔り出し、よじ登り出す。体育教師が怒鳴り声を挙げると、彼は片手で
フェンスにつかまったまま絶命した。少なくとも、そのフリをした。もちろん「大脱走」の中で命を落とす哀れなアイルランド人、アイブスのものまねだ。この辺はまだボンクラ中学生エピソードとしてかわいいものだが、クラスの男子全員分の
偽造パスポートを彼が作ってきたときには目を疑った。画用紙を切ってつくった偽造パスポートには、いまでは懐かしい
英語の筆記体でわたしの本名(偽名に変換されていたように思う)と似顔絵と偽の経歴が記されていた。
わたしは海外渡航の経験がないので、あれが生涯で唯一のパスポートということになる。無くしてしまって惜しいことをした。

特筆すべきは、いつもタカハシくんやわたしのことを小馬鹿にしていた筋肉ダルマたちも、タカハシくんの熱狂にあてられ
てしまったことだ。べつに彼らと親友になったりはしなかったが、年末の大掃除の時に校外脱出のためのトンネル作成
プランを、ああだこうだとみんなで激論した記憶はある。大脱走を録画したタカハシくんのVHSテープは、クラスの男子の
あいだを回って、最後にはボロボロになっていた。

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あのとき、なんだって我々は自分が生まれる前に撮られた古い戦争映画に熱狂したんだろうか?
八〇年代初頭、マンガでも、ドラマでも、他に熱狂の種になるようなものはそこかしこに転がっていたのに。
歳をとってしまってからの総括でしかないけれど、あのとき我々を突き動かしていたのは、「実質」への渇望だったように
思う。いつの時代だってそうだろうけれど、子供時代というのは世の中の「実質」とは隔離(保護とも云う)されている。
なんの役に立つのかわからない勉強、なんのために通っているのかわからない学校、そんな世界の中で、真剣な顔で
なにやら世界とガチで切り結んでいる大人たちの背中だけが見えるもどかしさ。親が自営業だってんなら別だが、我々
には当時、大人がなにをやって生活しているのか、まるでわからなかったし、そのことに漠然とした恐怖を感じていた。

その中で、「大脱走」だけが、大人たちが日々勤しんでいるはずの「仕事」について、手がかりを与えてくれた。
あの映画は詳細に、大人たちが目標へと達するまでの日々の作業を描いている。トンネルを掘ったり、兵舎から物資を
くすねたり、畑に土を捨てたり。彼らはふざけてはいない。真剣だ。だからわたしたちはそこにリアルな「大人の仕事」の
匂いを、正面切って世界と切り結ぶ、「大人の生活」の匂いを嗅ぎつけたのだ。

そうして、まぁ、大人になってみると、自分が日々勤しんでいる「仕事」は、中学生が「大脱走」の世界から夢想したものと
ずいぶん違っていたなぁと苦い笑いが込み上げてくる……と書きたいところだが。

映画の中に描かれた「仕事」、その本質がいちばん高度に象徴化された作品を拾い上げてみると、やはり戦争映画に
行きつくような気がするのだ。
たとえば、まぁ、なんでもいいんだけれど、ヤクルトのおばちゃんが自転車のカゴにジョアをつめたり、TSUTAYAの店員が
新作DVDのパッケージをシュリンク包装したり、新聞配達員が新聞紙にチラシを挟んだり、ビル管理員が分電盤で分離器
の二次側にテスターを当てて無電圧を確認してから絶縁測定を行ったり。
そういった行為を詳細に描いて、「ああ、そうだ、働くとはこういうことだなぁ」と実感できる映画がぱっと思い浮かばない。
仕事を描いた映画のシーン、というと真っ先に思い浮かぶのが
「蛇の道」で哀川翔が無表情に書類にハンコを推しているシーンだったりする
のは自分でもどうかと思うけれど。

その当たり、映画というのは本当におかしなもんで、戦争なんて、たずさわる者、それ自体の破壊を目的とした究極に
無意味な作業なはずなのだけれど、その場面を活写したものに、人が使命感を持ってなにかに携わること、仕事、という
ものが見事に浮かび上がったりする。

コンプライアンスなんか馬に食わせろ。人間、仕事に熱中しちゃうと自分の道義的立場なんてどうでもよくなっちまう
んだよ、ということを描いたのが『戦場にかける橋』。いやぁ、それでもやっぱりマニフェストといっしょに産業廃棄物と
良心の呵責を業者に押しつけちまうのはどうなのよ。いくら商売って云っても越えちゃ行けない一線があるでしょ、
ってのを描いたのが『カジュアリティーズ』。就活に失敗して人生の敗残者扱いされたけど、中小企業で肉弾営業
頑張りまッス!な『特攻大作戦』、うちの会社ブラックで上司もクソだけど金(Cross of Iron)のために働いてるんじゃ
ねぇ、自分のプライドのために働いてるんだ、な『戦争のはらわた』、うちの会社ブラックで上司もクソだわ。接待
マージャンの席を利用して上司の上司に取り入ってみたけどやっぱり無理だわ、な『攻撃』。


『攻撃』や『戦争のはらわた』や、それに『ブラックホーク・ダウン』では、敵の存在は可能な限り希薄になっているけれど、
そうなると「なんのためにこんな仕事やってんだろ」という空虚感がさらに顕著になる。昨今の就業状況の悪化で、蟹工船
な暮らしに喘いでいる向きにはこの三本はお薦めだ。

さて、それではデビッド・エアー監督作、『フューリー』はどうだろうか。
1945年4月、欧州戦線。ドイツに侵攻中の米兵、ウォーダディ軍曹は、「フューリー」と名づけたM4中戦車を率いていた。
冒頭で戦死(かなりきついゴア描写あり)した砲手の代わりに、新兵ノーマンが配属されるが、元々タイピストだった彼は、
荒々しい戦車兵たちに馴染めない。そんな中、「フューリー」に乗る五人の男たちに、決死の任務が命じられる……。

この設定で目を引くのはやはり「1945年4月」という極端な時間設定だ。あと一ヶ月で戦争は終わってしまうのだ。
頭を低くして「終戦」までやり過ごすような暮らしをしている身としては、セーフラインのぎりぎり外で生死を賭ける男たちの
生き様に暗澹たる気持ちになる。

やたらと明確な時制とは逆に、舞台は抽象化されている。フューリーの最終ミッションの場所がどこで、どの作戦の
一端を担っているのか、よくわからない。ウォーダディーたちの決死の覚悟とはうらはらに、そのミッションの目的も
なんだかあやふやだ(というかほとんど特攻に近いような無茶ぶりの任務だと思う)。

任務の目標があいまいなのは、これは史実の再現を企図した映画ではないからだ。『戦争のはらわた』や『高地戦』の
ように、巧みに抽象化された舞台をもとに、男たちの苦難と生き様を浮き彫りにするのが目的だと思う。
そう云えばデビッド・エアーは『エンド・オブ・ウォッチ』でも『トレーニング・デイ』でも、極端に危険な仕事に携わる人々を
描き、その生き様を浮かび上がらせる名手だった。

いつまで観ていても戦争の大局はさっぱりイメージできず、その代わり「フューリー」に乗り込む五人の男たちの輪郭は
くっきりと伝わってくる。それがまた、誰も彼も記号的イメージに収まらず、複雑な面を垣間見せる。野卑なクーンアスは、
新兵いじめの仇役かと思いきや、思いもかけぬ素直で純粋な心情を吐露する。ゴルドやバイブルも、最初はノーマン
につらく当たるのだが、ノーマンの成長と共に彼を認め、一員として受け入れる。
その様が、セリフだけでなく、土壇場まで切羽つまった戦闘の最中の動作で描かれる。
そう、動作。

ウォーダディーが命令し、操縦手のゴルドが戦車を縦横に操り、ノーマンが機銃を撃ちまくり、クーンアスが弾を込め、
バイブルが主砲を撃つ。
その過程は劇中で何度も繰り返され、ストーリーが進行し、五人が深みに嵌っていくごとに、その動作の流れには生理的
快感を覚えるようになる。最初は銃を撃つことすらためらっていたノーマンが、糞ったれナチどもをなぎ倒していくうちに、
彼らは互いを補完し、高め、互いに欠くべからざる存在になっていく。
ああ、「仕事」ってこんな感じじゃなかったっけ。
最初は馴染めず、意味もわからず身体をこわばらせながら行っていた作業が、違和感なくこなせるようになる。
自分だけに凝り固まっていた意識が、すぐ隣で働いている同僚の動作までを自身の範疇として含むようになり、
ことばに出さなくても互いを補うように動けるようになる。

「フューリー」はイニシェーションの映画だけれども、ノーマンが初めて人を殺したことによって通過儀礼を終えた、という
描写ではなく、人殺しの「仕事」を、自分のものとしてこなしていく過程をアクションとして描いているところが新鮮だった。
ただその過程を、手元を写して細かく描写するのではなく、顔のアップで済ませてしまうのは大きな不満を感じたけれど。

ノーマンが、人殺しという「仕事」の一部を機械的にこなせるようになったとき、マシンという名が与えられるのは象徴的だ。
彼は役立たずで未熟な「坊や」から「仕事」の部品となったのだ。彼に新しい名が与えられた直後、まるで当たり前のように
ノーマンを「マシン」とさらりと呼ぶウォーダディーに涙がこぼれた。それは政治的に正しくない描写かもしれないけれど、
少なくとも社会未熟適応者だった自分が、「仕事」の中で自分の居場所を見つけてきた過程と、確かに重なって見えた。

≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒

タカハシくんとは、卒業後に、いちどだけ故郷の街で会ったことがある。
懐かしさに駆け寄ったのはわたしの方だった。彼の迷惑そうな顔に気づかず、そうそう、タカハシくんの美人のお母さん
は元気?と訊ねたわたしに、タカハシくんはぶっきらぼうに死んだよ、と答えた。病気だったそうだ。
酒乱だった父親から母親と一緒に逃げ出して、彼はその街で二人で暮らしていたのだと云った。
母親が亡くなったから、もうすぐ父親が住む横浜に引っ越すのだと。
そのあと会話がはずむこともなく、わたしたちは別れた。タカハシくんとはそれきり会うことがなかった。
彼が『大脱走』にどんな理想の大人像をたくしていたのか、わたしは知らない。想像してみることしかできない。
会うことはもうないだろうけれど、どこかの街でタカハシくんがふとむかしのことを思い出し、劇場に「フューリー」を
観に足を運ぶようなことがあったら、彼に映画の感想を聞いてみたい気がする。




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