生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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Viva Fear! ~ ゴーン・ガール雑感

  1. 2015/01/27(火) 00:17:32|
  2. 洋画
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ありし日、アメリカ公民権運動の父マーティン・ルーサー・キングが、とある女性記者にこう訊ねられた。

「人種差別と同じくらい、女性差別も重要な問題だと思いませんか?」

これに対するキングの答えがふるっている。

「どこにそんな差別があるというのか、よくわからない」

黒人の地位向上のために奔走したキング師は、間違いなく偉大な人物であっただろうし、同胞の苦難を見捨てて
おけないだけの共感力と鋭敏さを持っていた人だったはずだ。だが、肌の色で差別を受けることの屈辱を熟知して
いたはずの彼をもってしても、すぐとなりにいたはずの女性の苦渋には気づけなかった。
キング師は家庭外での浮気も多く、それを見とがめた知人にこんな言い訳を放っている。

「月に25日から27日も家をあけているからだ。ファッキングは不安を和らげる一つの方法だ」
(上坂昇著『キング牧師とマルコムX』)


ここに見られるのは典型的な「鈍さ」の問題だ。
「外」で名の知られた仕事を成し遂げた男たちが、「内」に帰ると秘められた鈍感さを剥き出しにして弱者に
マウントをとる、というのは井上ひさしのDVから岡田斗司夫の愛人リストまで一貫して共通する構図だ。
「外」では、高い知性と豊かな感受性をもって知られる彼らの、あまりにお粗末な「内」での粗相に人々は驚く。
そして女性たちは嘆くのだ。男はどうしてこんなに鈍いんだろう?

そりゃ決まっている。弱者の都合なんて見て見ぬ振りをしていた方が、強者にとっては楽で都合がいいからだ。
特権的立場にいるうしろめたさを感じるのは嫌なものだし、真実にむきあうには労力がいる。
それよりも無言の圧力と意図的な鈍さで、弱者を黙らせてしまったほうがよっぽど楽だ。
「外」でだったら背筋とアンテナを伸ばし、相手の顔色を伺い、相手の感情を忖度し、ことばを選んでコミュニケート
するなんてことをしたとしても、「内」でまでそんな面倒なことはしたくない。
いいじゃないか、このままで、俺たちいままで上手くやってきたじゃないか。
なんでそんな面倒くさいことを云うんだよ、安らげるはずの「内」でそんなことは聞きたくない。
弱者(おまえ)のことは俺がいちばんよく知っているんだよ。細かいことを気にしすぎだよ、神経質だな。
空気を読めよ。
そうだ、もうすぐ記念日だな。プレゼントはなにがいい?
……。
かくして意図的に鈍くなり、見たくないものを見ない強者たちによって「内」はゴミ箱と化す。
典型的なゴミ箱の名前を「家」と云う。

そういうふうに些細なことを云わずに黙っているのがぼくの癖になっている。そのほうが好都合だからだ。本音を
言うと、女のように細かいことをごちゃごちゃ説明しなくても、エイミーが気持ちを察してくれないかと期待していたのだ。
(ギリアン・フリン著『ゴーン・ガール(上)260ページ)


もう公開からずいぶんと日にちが経っているし、ネタバレ全開で書かせてもらうけれども、『ゴーン・ガール』は搾取される
弱者が逆襲をこころみる話だ。

ニューヨークでライターをしていたニック(ベン・アフレック)は、ニューヨーク育ちの洗練された美女であるエイミー(ロ
ザムンド・パイク)と恋に落ち、二人は結ばれる。夫側の家族の事情により、ニックの故郷であるミズーリ州の小さな
街に移り住んでから二年後、結婚五周年の記念日に、エイミーは失踪する。
現場に残されたいくつかの証拠から、ニック自身がエイミーを殺害したのではないかとの疑いが強まる。だがすべては
夫に不満を抱いたエイミーの狂言だった――。

エイミーはなぜ失踪したのか?
映画ではニックが若い女(エミリー・ラタコウスキー)と浮気したことが直接的原因ということになっていて、それは原作
でも要因のひとつではあるのだけれど、小説ではもう少し重層的な描き方がされている。
ひとつは2009年のリーマン・ショック以降、アメリカの中流層が急速に貧困層に流れていったこと。
ニックもエイミーも大卒のライターであり、それが2010年の7月以降、相次いで仕事を失う。
日本でもおなじことが起こっているので、事態の想像はしやすいだろう。雑誌の発行部数が激減し、ライターというのは
花形職業ではなくなった。文系の大学を出れば、出版業界で容易く職を得られて、食っていける、なんて構図が絵に描
いた餅になってしまった時代。まさに「いま」のとばっちりを受けた我々の同士がニックとエイミーだということが、映画だ
と理解しづらい。
もうひとつが、ニューヨーク生まれニューヨーク育ちのエイミーが、夫に引きずられて引っ越した先がミズーリだったこと。
原作では悲惨きわまりないアメリカ地方都市の現状が詳細に描かれていて、それが重要なバックボーンのひとつに
なっている。
ふたりの住む新興住宅地は、映画では華やかな場所であるように描かれていたが、リーマン・ショックで土地を手放す
人が続出し、ゴーストタウンのようになり、空き家にホームレスが棲みついている。コンピュータの普及のせいで印刷
工場がなくなり、失業者はどこにもいけずスラムを作っている。地方都市の花形だったはずの大型モールは撤退し、
そこでは怪しげなヤカラたちが徘徊している。トム・ソーヤをモチーフにした古風な観光スポットは、「よりはなやかで、
にぎやかで、マンガじみた観光地」に客を奪われた。
なんのことはない、日本で言うところのファスト風土だ。魅力も活気もない、枯れきった土地に、ニューヨークっ子が
連れてこられた、というのが顛末であり、「田舎のネズミと町のネズミ」のような寓意のある話なのだ。
これに痴呆の入ったニックの父と、ガンに冒されたニックの母の介護の問題がからみ、もちろん前述のニックの浮気の
問題もあり、エイミーは幾重にも追いつめられていく。
だがなによりもエイミーを追いつめ、彼女に最後の銃爪をひかせたのは、ニックの「鈍さ」だったのではないかと思う。

聡明で、美人で、行動力もある彼女は、自分のえらんだ伴侶の目がみるみる死んでゆき、「鈍さ」の鎧をまとって、
都合のいい無言による了承を強いる行為に耐えられなかったのではないか。だから彼女は選んだ。
すぐそばにいる、夫という見知らぬ他人を死刑にし、かつて愛した夫を取り戻す道を。

ベン・アフレックは熱演だと思うけれども、映画のニックには、原作のニックにあったある重要な要素が欠けている。
それは彼の父親の描写だ。映画では父は刑務所でわずかに姿を見せるだけだが、原作では父のバックボーンに
関する詳細な描写がある。
アル中でミソジニーのかたまりであり、「クソ女、クソ女、クソ女……」とうわごとのように繰り返す痴呆症の父。
ニックはその父を嫌悪していて、同時に父の血が自分のからだの中に受け継がれていることに心底恐怖する。
エイミーによって舞台がつくられた「なかった妻殺しの現場」は、ひょっとしたらニックが血の中に受け継ぐ暴力性
と女性蔑視により、「あり得たかも知れない妻殺しの現場」なのだ。
父の世代が呪いのように身に纏ったミソジニーに対する嫌悪と、それが自分の中に眠っていることへの恐怖。
これはいまを生きる多くの男性が誰にも云えずにひそかに抱えている葛藤ではないだろうか。
多くの女性は男がそんな葛藤を抱えていることなど知らないし、そもそも知ったことじゃないよ、と言われるのが
オチだろうが。

ニックは、自分の中に眠る「地方の男尊女卑のいやーな空気を受け継いだ血」を封印して、都会(ニューヨーク)で
まるでNY子のような顔をして、エイミーと出会う。ニックにとって、このとき彼女は遥かに見仰ぐ大都会に属する、
「外」の人間であったはずだ。「外」と接しているときは、ニックも嫌な自分を出さず、人好きのする、セクシーな男で
いられた。

それが失業により「外面」に傷がつき、勝手知ったる「内」であるところの故郷に引っ込んだところから、彼はエイミー
を「内」へと追いやる。待っているのは「鈍さ」による無言の搾取だ。
ところが、エイミーの失踪により、彼は死の危険にさらされる(ミズーリ州には死刑がある)。
究極の危機により、「鈍さ」に錆びついていた彼の脳は奮い立つ。アンテナを張り巡らせ、思考し(鈍かった時期の
ニックが脳味噌を使っていたとはわたしには思えない!)、敏感になり、周囲の動きを把握する。いざ「外」へ。

そしてそんなニックこそが、実はエイミーが再会を待ち望んだ、彼女の「愛する夫」だったのだ、というのがこの物語の
最大の皮肉になっている。
エイミーの術策により追いつめられたニックが、逆転の一手としてテレビの出演をこころみる。
彼はもう必死だ。しくじれば待っているのは最悪、死なのだ。ニックはこころの底からエイミーのことを思い、エイミーの
こころに至ることを願い、ことばを絞り出す。
それをテレビで見つめるエイミーの微笑みを、わたしは最初に観たときに、復讐が成し遂げられた残酷な歓びによる
ものだと思い、嫌悪した。
いまはまったく違う印象を持っている。
エイミーは、あそこでニックに惚れ直したのだと思う。理由は、彼がセクシーだったから。
追いつめられてわけがわからなくなり、必死になって妻のことだけを考えた男性が、ありったけの知恵と機転を
ふりしぼり、妻の胸にとどくためだけにことばを選ぶ。
女性にとって、そんな男の状態のことをセクシーと呼ぶのだと愚考したのだが、如何?

そもそも、エイミーによる壮大な狂言は、ニックという男がどういう欲望を持ち、どういう行動原理を持つ男か、熟知
していないとまったく成り立たない。エイミーは冷徹に事態を俯瞰しているように見えるが、「ニックを熟知している」
という一点において、図らずもそこに彼への執着と愛が露見してしまう。

あの日記というのも曲者で、創作というものに少しでも関わった人なら周知していることだが、創作物というのは
まったくの絵空事のようでいて、どうしても自分の秘められた欲望というのが露呈してしまう。あり得べき自分と
いうものを創作したあの日記は、まるでニックにむけた迂遠な恋文のようだ。

迂遠な恋文による危険な純愛は成就し、エイミーは帰還し、ニックの待つ家に戻る。
搾取された弱者が、知恵と行動によりその構図をひっくり返すというこの物語のプロットは、ここに至るまでで充分に
痛快なのだけれども、真に驚くべきはそのあと(映画で言えば終盤30分)だ。

血だらけで家に戻ってきたエイミーを、ニックは抱きしめ、その耳元で「クソ女」とつぶやく。
それは父から受け継いだ呪いのことばだ。
さらには怒りにまかせて、彼女の頭を壁に叩きつける。
理性と利己主義によって築き上げられた「いい夫」は敗北し、やはり「地方に根付く男尊女卑の血」が勝利するのか。
だが、そこでニックは気づくのだ。ここでエイミーを殺せば、自分は父とおなじ敗北者になる。それだけではない。
彼女の失踪後、冷たい汗で背筋を濡らしながらもがいてきた自分。それこそが自分にとって最大限に高められた
自分であることにニックは気づく。エイミーを殺し、どこかで退屈な普通の女と結婚したところで自分は満足できない
だろう(原作でも映画でも、ニックはじつにあっさりと若い愛人を手放す)。
父から受け継いだ、惨めな女性蔑視の血に打ち勝ち、最大限に自分を生かす道。
それはエイミーとともに生きることではないのか。
そこまで理解しても、エイミーに対する恐怖は消えない。ニックは寝室にひとりで籠もり、ドアに鍵をかける。
その寝室のカギが落ちる、かちり、という音。
それは実はニックとエイミー、彼ら夫婦の勝利の凱旋ラッパの響きであると思う。
これは「虐げられた妻(エイミー)が、夫(ニック)に復讐しました」で終わる話ではない。
妻と夫が、同時に最良の伴侶を手に入れる、希望の物語なのだ。
エイミーは死んだ目をした「鈍い」夫ではなく、聡明な夫と結ばれ。ニックは自分を「鈍さ」から解放する妻と結ばれた。
なんによってか。愛? ふざけちゃいけない。
かちりと鳴る、寝室のカギがかかる音が象徴するもの。
恐怖によってだ。

紀伊國屋渋谷店の文庫女子問題、通称ダサピンク事案が発生したとき、興味を持って関連するツイートを読んでいた。
非常に興味深かったのが、憤慨している女性たちの多くが「舐めるな」という語彙を使っていたことだ。
これは男の「鈍さ」に触れて憤った女性たちの口から頻出することばらしい。わたしも、知人の女性からそのことばを
ぶつけられたことがある。
「おなじ人間だと認めろ」という、極めてまっとうな主張がその真意だという理解をしている。男の「鈍さ」によって摩耗した
精神が、みずからの窮地をことこまかに説明する余裕すら失わせ、「舐めるな」ということばになるのではないだろうか。
しかし誠に残念ながら、このことばの真意はひどく男性側には伝わりにくいと思う。みずから好きこのんで「鈍く」なり、
そのことによる生き安さを確保した人間が、相手の立場に想像力を働かせる、なんてことをするわけがなく、たまに
「理解のある」男性が現れても、「お互いに平等な立場で、理論的に話をしよう」なんて云いだすのがオチではないか。
そもそも互いの立つ場所がすさまじく離れていて、議論に着手する前に相手が日々の生活でどれだけ摩耗しているか
なんてことは「平等」の中には入っていないのだから、これも不毛な話だと思う。
だったらどんな風に解決すればいいのか。
愛によってか。
だからちがうつってんだろ、殺すぞ、ボケ。

人類愛、なんて呆然としたものを振りまわしたところで実効的なものなどあるわけがなく、愛はたぶんこれからどれだけ
月日を重ねても、「わたしはあなたが好き」「ぼくはきみが好き」ということの積み重ねでしかすぎない。愛はこれからも
無数の勝利を刻むだろうが、それらはすべて局地戦で、戦略的にはなんの意味もない。
愛じゃ足りない。愛じゃ追いつかない。
ほんとうは人間すべてが想像力を発達させれば問題解決なのだが、世の中には愛の情動を育てる契機は山ほどあれ
想像力を育てる契機なんてほとんどないのだから、望み薄だ。

恐怖だ。
「舐めるな」という舌から血を流すような訴えを吐く相手と、おなじ目線で立つには恐怖しかない。
ソーシャルネットワークのどんづまりがもたらす、転落の危機が蔓延したこの世界で、手を携えて生きるにはそれしかない。
地位があろうが、名声があろうが、不用意な発言ひとつで地の底に落とされるこの世界。
広告に大金をばらまいてイメージアップをはかる大企業が、バイト店員のリーク一発でブラック企業よばわりされる世界。
歌手、芸能人、新聞社、批評家、評論家。かつては雲の上の存在だった彼らも、いまでは安全圏にいない。
誰ももう、「鈍さ」による搾取から得られる安寧の上にでんと構えてはいられない。
恐怖万歳!(Viva Fear!)
女を怖れ、男を怖れ、子供を怖れ、老人を怖れ、都市を怖れ、地方を怖れ、外国を怖れ。
びくびくと怯えながら。この世にいるすべての人々を恐れながら、生きていこう。
どんなに弱く、力なく見えても、彼らはあなたに致命傷を与える、蜂の一刺しを持っている。
そしてかつては見下していた相手を恐怖すること。それは相手の力を認め、相手を自分の目線まで引き上げることだ。
それが「舐めない」ってことなんじゃないだろうか。

2009年に外れた鍋の底が、永遠に右肩下がりのグラフを生みだしたこの世界。
地方が衰退していくなか、旧時代のヘイトと蔑視が息を吹き返しつつあるこの世界。
そこを生き延びるには恐怖することだ。

『ゴーン・ガール』はそんな「いま」の世界をサバイブする方法を提示した、未来への希望に溢れた物語だと思う。


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マップ・トゥ・ザ・スターズ

  1. 2015/01/22(木) 01:02:15|
  2. 洋画
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350457_001.jpg

ハリウッドには怪談話があふれている。
あの有名な蝋人形館には子供の幽霊が出るらしいし、ハリウッド・パシフィック・シアターにはワーナー・ブラザースの
ひとり、サム・ワーナーの霊が出没するという。パラマウントスタジオは墓地の跡地に建っていて、スタッフは幽霊に
悩まされているなんて、まことしやかな話まである。

ずっと気になっているのは、ハリウッド・ルーズベルト・ホテルに出没する、マリリン・モンローの幽霊の話だ。
このホテルは第一回アカデミー賞の授賞式会場でもあり、例年ラジー賞が授賞式を行うという由緒正しき(?)建造物
なのだが、そこにマリリン・モンローの霊が出るという。
モンローとホテルの由縁については不明だが、彼女の霊は昼夜を問わず、廊下を歩いていたり、鏡の前に立っていたり、
水着姿でプールサイドにいるところを目撃されている。
おかしな話だと思いませんか。なぜよりによって幽霊が水着姿で?
アメリカでも幽霊は水辺の近くを好むのかもしれない。でもそんなリラックスした姿をなぜ見せるのか。
どこかユーモラスなその情景に、恐怖は感じない。代わりに立ち上ってくるのはひとつの疑問だ。
ひょっとしてマリリン・モンローは自分が死んだことを知らないんじゃないのか。

デビッド・クローネンバーグの新作、「マップ・トゥ・ザ・スターズ」を観た。
セラピストの父(ジョン・キューザック)、ステージママの母(オリヴィア・ウィリアムズ)、そして人気子役のベンジー
(エヴァン・バード)。ワイス家は人もうらやむハリウッドセレブだ。そこへ少女アガサ(ミア・ワシコウスカ)がネットで
知り合った脚本家を訪ねて、ハリウッドにやってくる。とあるきっかけから、有名女優ハバナ(ジュリアン・ムーア)
がアガサを秘書として雇ったことから、物語は不穏な方向へと舵を切っていく……。

あらすじだけを追っていくなら、これは「ハリウッドの裏幕もの」だ。盛りを過ぎた女優のサンセット大通り的な執念
あり、麻薬に溺れる天才子役の退廃あり。ライバル俳優同士が火花を散らし、食っていくために運転手を兼業する
脚本家(ロバート・パティンソン)はひそかな野望を抱く。

ところが画面から伝わってくるのは、生身の人間のドロドロとした欲望などではなく、どこか遠い過去の物語を見て
いるような――それこそエンドロールが示唆するような遠い星の世界の出来事のような――絶妙な隔絶感なのだ。
冷たく、湿度がない。
産毛も抜けない子役たちが、すれきった露悪的な会話をかわす。
そこに興味を惹かれこそすれ、生々しさや嫌悪感は感じない。
星座の物語――暴力、姦通、近親相姦、etc――に眉をひそめたりはしないように。

影を失ったようなあいまいな彼らと対照的に描かれる、ある存在がある。
幽霊だ。
ふっとカメラがパンしたところにいる、この世ならざるもの。
子役のベンジーは、こころない慰めを与えたまま死別したファンの少女の霊に悩まされ、ハバナは亡き母の霊に
脅かされる。
この霊が、おどろおどろしい演出などなく、生きた人間とフラットに描かれる。それは黒沢清の映画に出てくるような
“触れる幽霊”で、神秘的なヴェールで遮られてなどいない。寝室に、撮影スタジオに、プールサイドに(前出のマリリン・
モンローの霊からインスパイヤされたとまでは云わないが、気になる類似だ)、日常の風景の中に呵責なく干渉してくる。
そして霊を見た者たちは、ホラー映画のように大仰な驚き方をするのではなく、こころの傷にふいに触れられたときの
ような“痛いところを突かれた”顔をする。それは生きている厄介な隣人に対する態度のようで、観ていると、だんだん
生者と死者の境界があいまいになってくる。

そしてようやく、映画の最初から感じていた、ぶあついビニールを隔てたような、遠い感じの意味するものがわかってくる。
この映画では生者と死者が逆転している。生きたものは死んでいて、死んだものは生きている。

ハリウッドという幻想と現実の境界で、いったいどれほどの架空の死が描かれてきたか。
そこで架空の人生を身にまとい生きる人たちは、もはや本当の死というものがわからないし、生きている感覚もない。
だからこそベンジーはファンの少女のリアルな死に触れて、はじめて揺らぎ、「安定した虚構」という足場を失う。
ハバナは、映画の中で描かれてこそいないが、女優人生の中で架空の死をいくつも経てきただろう。
だが、自らの苦痛の源泉であり、最大の憎悪の対象であったはずの母の人生を演じようとしたとき、みずから進んで
「安定した虚構」という足場を捨て去る。セラピストにかかってまで母から与えられた苦痛を癒そうとしながら、その母を
映画の中で演じようとする彼女は矛盾そのものだ。その滑稽な矛盾が彼女を押しつぶしていく。
日々の糧と名声を虚構から得ようとする彼らが、影を失ったような存在にならないはずがない。

そして対照的に描かれる死者の存在感は、ハリウッドという場所が、虚構の死をつみあげる死の殿堂であることを
喝破してみせる。生がもっとも死に近くなり、死がもっとも生に近づく、黄泉比良坂。それがハリウッドではないだろうか。

ミア・ワシコウスカが存在感のある演技で息を吹き込んだ、アガサという少女は、ハリウッドに、そしてワイス家に溢れる
瘴気を祓いにきた巫女なのだろう。だからこの映画の終わりが、彼女の唱える(あからさまに呪術的な)祝詞で終わるの
は必然といえる。ハリウッドに棲まう悪霊の調伏は、果たして成功したのか。

それは、この物語でじつに中途半端に捨て置かれる、ロバート・パティンソンに託されているのではないかと思うのだ。
彼の物語の顛末が不明なのは、彼がまだ生者/死者と死者/生者の決定的な境を超えていないからだ。
彼はまだ真の「生きた」人間として自分の人生をまっとうすることができる。しかし野望を捨てきれぬならば、ハバナが
落ちて行った奈落へと落ちて行くしかない。

この物語はまだ完結していないが、きっとつづきは星の世界で語られるのだろう。
そしてわたしたちが、その世界に足を踏み入れることはついぞ無いのだ。

次の戦争を生き延びるために

  1. 2015/01/07(水) 23:39:04|
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  3. | コメント:0
保阪正康 『田中角栄の昭和』を読んだ。

田中角栄の昭和 (朝日新書)田中角栄の昭和 (朝日新書)
(2010/07/13)
保阪 正康

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最近、日本の高度成長期に興味があって、戦後史の書籍を読みあさっている。
そんな中で、スポットライトが当たるように、田中角栄という人の存在が突出して見えてきた。
越後平野の農村で牛馬商の息子に生まれた男が、故郷を苦難と貧困から救いたいという大志を抱き、それがやがて
国全体のかたちを変えていき、目に見える豊かさだけを追い求める彼の視線を、ついに国中が共有するようになる。
いまもつづく日本と日本人の性質を、ある程度規定してしまった人じゃないかと思っている。
まぁ、この本もそんな田中の業績を振り返ってみようという気持ちで手にしたのだが、戦後に彼が登院してからの
あれこれよりも、軍隊時代の彼を描いた冒頭の部分がいちばん印象的だった。

多くの日本人がそうだったように、戦後の田中は軍隊時代の自分の経験については多くを語らなかった。
だから、そのパートは短く、彼とおなじ部隊にいた戦友のことばも、たったひとつしか紹介されない。
だが、そのひとつが無類に面白いのだ。

昭和十三年春、徴兵年齢に達した田中は甲種合格となり、満州に送られた。
田中はすでに十代のころから社会に出ていて、隊内では彼の存在感は異色だった。アメリカの映画女優のブロマイドを
持っているのを見つかり、殴打されたという。一週間に二晩か三晩は、田中は私刑を受けていた。
田中角栄という超人的な実務能力をもった人間を、そんな環境に放り込んだらどうなるか。

田中自身の回想がないため、そこは類推しか記されていないのだが、彼はどういう具合にか、前線の一兵士から、
中隊本部の事務方に呼ばれ、そこで酒保や糧秣の係を担当することになったという。どういうかたちであれ、上官に
取り入ったんだろう。

ここから、彼の上官であった片岡甚松の回想につづく。

たしか昭和十五年の夏ごろでしたか、ソ連の国境に一個中隊が警備を担当していて、そこに角栄がいて、
あのころ酒保といって酒を売ったりするのがあり、その係を角栄がやっていた。
消灯後、私が巡視をしていたとき、角栄が戦友を五、六人集めて車座になって酒を飲んでいた。
(略)
「輸送中に壊れた酒を、手伝ってみんなに飲んでもらっているんです」
と言って、底の割れたビンを見せるんです。ああ、こいつはおかしいなと思ったんですけどね。そういう応対を実に巧みに
行うもんだから、おかしいとは思ったけれども、早く消灯して寝ろと言ってその場を去ったんです。
要領がいいというか、実際に割れたビンもあったかもしれないが、自分で割ってもそのビンを横に置いとけば言い訳は
立つし、なかなか頭のいい奴だなと瞬間思いましたよ。そういう点は勘が鋭く、度胸があるんだな。こっちは怒る
ことができないし……。 (『田中角栄の昭和』72ページ)


場所はソ連の国境近く、時はノモンハン事件の直後、死のヒートマップでいえば真っ赤に染め抜かれたその時、
その場所で、田中角栄は酒を飲んでいた。
それを見つけた上官も、「こっちは怒ることができないし……」と黙り込んでしまう。
この顛末はひどく滑稽だし、同時にどこか痛快だ。田中が戦後、悪名を極めた宰相になる、ということは引いておけば、
彼はこの時点で一介の兵隊に過ぎない。それが悪知恵と機転で(ことばのごとく)美酒にありつく。
映画ファンだったら、なんとなくこのシーンを思い出してしまうんではないだろうか。
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戦争という歴史について、人はついひとつのトーンで語ってしまいがちだ。
それが黒であれ、白であれ、かまわないのだが、「戦争を選んだ戦前の日本人は特殊な人たちで、発狂していて、
いまの日本人とは関係がない」という考え方だけは絶対に違うと思う。
それがどんな組織であれ、人間のつくったものならば、たとえ表向きはひとつの理念を掲げても、構成員の中では
さまざまな温度差があり、それがグラデーションを描きながら、なんとか塊になっているのだ、とこれはこの社会の
底辺で生き抜いてきた実生活の経験から、そう思う。
崇高な愛国心に我が身をささげた人だって当然いただろう。
社会主義の理想を掲げたまま、暗い獄中で命を落とした人だっていただろう。
だけど、ひたすらに自分の保身を考えて、ずるく意地汚く生き延び、そしらぬ顔をして戦後を生き延びた人だっている。
前掲著には、田中が仮病を偽り、満州から帰還したのではないかという疑念が提示されている。

タイムラインにリツイートが流れてくる。
右傾化に警鐘を発するもの、政府の不正を暴くもの、あるいは逆に隣国の反日政策を弾劾するもの。
そのたびに、わずかな苛立ちを覚えるのだけれど、その正体に名前をつける前にタイムラインは流れていき、
ネタツイートや仔猫の画像にこころを奪われてしまう。
そんな日々を繰り返していて、最近やっと、苛立ちの原因がわかった気がする。

政府が、マスコミが、野党が、与党が、電力会社が、北朝鮮が、市民団体が、サヨクが、ネトウヨが、
「実は裏でこんなことをやっていました!」。ふーん、それで?
その情報が明日やってくる戦争を生き伸びるのになんの役に立つの?
右も、左も、農村地域の出身とかでなければ闇米食って生き延びてきた人間の子孫のはずなのに、
とりあえずなりふりかまわず明日を生き延びる術について、お婆ちゃんからなんにも受け継いでないんだな。
まぁ、俺もなんだけれど。

戦争はきらいだ。
仕事して映画みて感想をTwitterに挙げて、そんなのほほんとした日常をつづけていきたい。
でも日本の右傾化は避けられないと思うし、極限状況に放り込まれる可能性だって高い。
戦争ってのはどこかの狂人や独裁者がひとりで旗振ってできるわけじゃない。
財布の中身が薄くなってきたとき、飢えが身近に迫ってきたとき、戦争を選択する政治家を後押しするのは国民だ。
日本はこれからどんどん貧しくなっていくだろうし、極端な考えを持つ人の数はどんどん多くなっていく。
「安倍はヒトラー」とぶち上げて、それですべての証明終わり、とばかりに涼しい顔してるやからには本当に腹が立つ。
世界でもっとも民主的と云われたワイマール憲法のある国で、そのヒトラーを選んだのは飢えた国民だったのに。

だから俺が知りたいのは、明日やってくる戦争を生き延びるための手段だ。
もう歳も歳だから、戦場に放り込まれることはないかもしれない。
それでも究極まで高まった同調圧力の中で、逃げ場のない中で、必死に明日を生き延びる術をさぐる日がきっとくる。
その時に必要になるのは、鹿屋基地から旅立った若き飛行士の遺言ではなく、
ずるく、意地汚く、権力に媚びを売って笑顔で日の丸を振りながら、戦争が終わるなり国に踊らされた哀れな被害者に
シフトした、悔恨共同体の構成員、俺や、あなたの爺ちゃんや婆ちゃんの、経験ではないのか。
俺はそういう記事を読みたいんだよ、日本ライフハックさんよぉ。

戦争がはじまるまでは、呑気に映画をみつづけるつもりだ。
でもいつか戦争が始まって、終わったら、焼け跡に立った最初の映画館にきっと俺は駆けつけるから、そのときは
憑き物が落ちたような顔をして、互いに好きな映画の話をしようね。
「警鐘」なんていくら鳴らしたって間に合わない。
俺は次の戦争を生き延びるための準備を、今日からはじめるよ。

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