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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


Twitterで映画の感想を書くということ。

  1. 2015/10/22(木) 23:50:52|
  2. 映画
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Twitterにあがった映画の感想をわたしが読むとき、わたしが見つめているのはあられもないあなたの身体なのだ。
と、いうような話をしたい。

Twitterで映画の感想を呟きはじめて、もう三年近くになる。ネットにはわたしと同じように映画が好きなひとがたくさんいて、
そんな人にフォローされ、フォローし返しているうちに、いつのまにかタイムラインが映画の感想で埋め尽くされるようになった。
上映初日の夕方ちかくになると、映画の感想がぽつりぽつりと上がりはじめる。
お互い何年もフォローしていると、ネタバレのリテラシーについては早々踏み外さない(と思いたい)ので、遠慮無しに読む。
初日から、爆発的な勢いで熱のこもった絶賛ツイートがならぶ映画もあれば、投げ捨てるように短い失望がころがることもある。
ともあれ、わたしのタイムラインを形成しているのは、映画の感想“だけ”ではない。
注意してみれば、意識してもいない舌打ちや笑い声のようなみじかいツイートが、感想の合間を埋めていく。
ちょっとした笑いを誘うようなリツイートがいちばん多いだろうか。にゃんこちゃん動画や、有名人のGIFなども多い。
事故やハプニングの現場写真のリツイート。職場の愚痴。きょう食べた料理や、スイーツの写真。買った玩具や本の写真。
位置情報が丸出しなツイートはずいぶんと減った。職業、学校といったその人の具体的なプロフィールを匂わせるツイートも。
それでも、自撮り写真のアップがなくても、その人の“におい”のようなものがリツイートするしないの選択からでも伝わってくる。

わたしは「映画の感想」を受け取ると同時に、あるいは前後して、その人の“におい”をツイートから受け取る。
三流プロファイリングを気取るつもりはない。誰にでもあることではないだろうか。画面のむこうを徹底的にうかがわせない、
ストイックなあの人のツイートの、ふとした語尾に、生々しい人の吐息や体温を感じることが。
それをひとは“色気”と呼ぶのだが。

わたしは「映画の感想」を受け取ると同時に、あるいは前後して、その人の裸体をみつめることになる。
自分とはまるで違う裸体だ。食べているものも違えば(このアップした写真、高いと評判の**の店だな~)、住んでいる世界も
違う(へぇ、世の中に、こんなことを職業にしている人がいるんだ)。経済状況や、学歴や、考え方だって違う。
そうなればどうしたって、「この人と同じ映画を観て、同じ感想を抱くはずがない」と思う。
三食すべてマクドナルドの人と、成城石井のスーパーで夕食の総菜を買って帰る人が、おなじ価値観なはずがあるだろうか?
そうなると、こんな余計なことまで考えてしまう。
いったいこの人がみたのと、わたしがみたのは、同じ映画なのだろうか?

70年代のある日、チリの生物学者、ウンベルト・マトゥラーナは、ハトをつかった実験をしていた。
ハトの眼にいろいろな波長の光を当てて、脳の神経パターンをしらべる。そこでマトゥラーナは、のちにオートポイエーシス理論
へと結実する、ある重要な事実に気づく。
同じ波長の光を当てても、個体ごとにちがう視神経部分が興奮する。
マトゥラーナは天啓を得た。どの神経が反応するかを決めているのは、脳の部位ではない。
光は刺激にすぎない。ハトの反応は、脳に刻まれた個体特有の歴史や体験が決めている。
同一の視神経への刺激であっても、それが脳のどのような部分に反応するかは、ハトの「こころ」の在り方によって異なるのだ。
これは被験対象が人間であっても変わらない。陽電子放射や、核磁気共鳴といった手段で、脳のどのような部分に反応が
起こっているか、確かめることはできる。だがそれが人間の内部でどのような反応を起こしているかは確かめようがない。
デジタル映写機がスクリーンに投影した光の残像が、光速であなたの視神経に突き刺さり、刺激し、それがあなたのなかに
どのような感慨をもたらしたとしても、それはあなた個人、ただひとりだけが観た「映画」の感想に過ぎない。
あなただけの感覚。あなたにしか見えない世界。それをクオリアとよぶ。

「小津安二郎の『浮草』の雨の描写は素晴らしかったね」
あなたが云い、わたしはうなずく。だがふたりが見たものはまるで違う。
ある人はスクリーンの雨を見て、肌寒さを感じるかもしれない。ある人は肌にぴったりとくっついた中学校の夏服の感触を
思い出し、ノスタルジーを感じるかもしれない。親に頬をぶたれ、土砂降りの外に追い出された記憶を思い出し、吐き気を
もよおすかもしれない。
もっと単純に、「赤」ということばが脳にむすぶイメージ、それひとつをとってもわたしのクオリアとあなたのクオリアは違う。
赤信号は止まれ。そのルールを守ることで道交法は成り立っているが、それをわたしは「Xを見たら止まれ」というルール
だと思い、あなたは「Yを見たら止まれ」というルールだと受け取る。交差点で同じ「赤」を見ている人は二人といない。
こころはどこまでも閉じている。クオリアは他人とはわかちようがない。あなたの痛みは、死んでもわたしに伝わらない。
あなたが見た映画と、わたしが見た映画は、違う。

十年前ならこんなことは考えなくてよかった。
蓮實重彦が、その映画を見たときの体調や、血糖濃度、不快指数、劇場のノイズなどが、評論に影を落とすことがありえる
だろうか?
町山智浩が、昼メシになにを食ったかとか、プライベートの人間関係がどうだといったことが、彼の信念を曲げることがあり
えるだろうか?
雑誌や書籍で映画評論を読むときに、わたしたちはそんなことは考えもしない。彼らは研鑽を積み上げたプロであり、些事に
評価を左右されないだけの訓練を積んだ、プロフェッショナルだ。
Yahoo!映画やCinemaScapeの映画評を読むときだって、そんなことは考えもしなかった。
状況が変わったのは、ウェブ2.0が浸透しつくしたここ数年だろう。爆発的な勢いでネットに映画評があふれた。そしてたとえば
Twitterでつぶやかれるあなたの映画評は、あなたが生身のからだを持ち、さまざまな事情を抱えた生身の人であることを隠そう
としていない。
情報の発信が選ばれし者の特権である時代は終わり、誰もが、ありとあらゆる「感想」をつぶやきはじめた。

シネフィルと呼ばれる人々は、この状況に眉をひそめるかもしれない(ちょうどそんなリツイートがいま流れてきた)。
そうでない人々は、シネフィルを疎みつつ、独自の価値観を形成しつつある。
莫大な映画的記憶を有さない彼らの武器は、「共感」だと思う。

パシフィック・リムが引き起こした騒動あたりが、契機だったと思う。
原理主義者と呼ばれるような映画の信奉者たちが、その映画を理解しない人を鼻で笑い、ときに攻撃する。
「脚本がどうとか、照明がどうとか、そんなくだらんことでこの映画を評する人間は、この映画を見るな」
そんな尖ったツイートを、他の映画でも何回みたかわからない。スノビズムに対する攻撃なのか、と思ったがどうやら違う。
その映画に共感できるかどうか、そのあたりが分水嶺であるらしい。
気がつけば、「共感」の通過儀礼はウェブ2.0のそこかしこに立ちはだかり、ウォーボーイズたちはニュービーたちを見つめ、
彼らを熱狂的に輪のなかへ導き入れる。

グローバリズムは手袋がひっくりかえったような、奇妙な逆転現象を起こしたように思う。
グーグルアースで世界の反対側のリアルな街角が見られるようになった世界、Netflixでワンクリックで30年前の映画が
見られるようなった世界は、時間的距離と、歴史的距離を喪失させた。
それと同時に奪っていったのは、いま・ここを実感させる現地時間(オンタイム)だ。
ラディカルな進歩は反動を生む、というのは人類の歴史が教えてくれる。
たとえばマッド・マックスの爆音上映が生みだしたのは、歴史と空間がフラットになった世の中のなかで、いま・ここを実感
させてくれる、強烈な共感ではなかっただろうか。だからこそあの映画は現在のカルト映画なんではないだろうか。

去年映画を見始めた少年のツイートと、町山智浩のツイートは、140字1ツイートという制限下において、情報量的に等価だ。
それが等価になってしまう世界で、より多くの価値を獲得するのは“ふぁぼ”とリツイートで、そこに優劣の差は本質的につかない。
より正しく、価値のある情報よりも、より共感を産む情報が優遇される、共感資本主義世界、それがTwitterなのだと思っている。

その中で、廃れていく価値観もあれば、産まれてくる価値観もあるだろう。
共感資本主義だけがネットのあたらしい姿ではない、と思うけれど、少なくとも日本では、しばらくこの事態はつづきそうだ。
ソースに依った正しい情報よりも、共感を得た情報が優遇されるこの事態に、危機感をもつ人もいるかもしれない。が。
フラットにどこまでもつづく、地平線の見えないこのぶっこわれた世界。
ワイヤード・ウェイストランドに生きるウォーボーイズたちの覚悟を、もっと真摯に受け止めるべきだとは思う。
砂漠で水をみつける能力は、彼らが誰よりも秀でている。それが人間の価値観のすべてだとは云わないが、まったく新しい
水の都がその先にひろがっているかもしれないではないか。五十路に近いこの身だが、その背中を見守りたいと思う。

こころは閉じていて、クオリアは個人のものに過ぎない。
そう書いた。それでは閉じたこころの持ち主が数十億集まって、どうやってこの世界は成り立っているのか。
わたしとあなたの中間、べつのレイヤー、なにもない空間に、クオリアをもちより、互いのクオリアを変質させることで、だ。
おっぱいにしか興味のないわたしは、「カリフォルニア・ダウン」の娘のおっぱいを褒めちぎる。
あなたは、特撮の素晴らしさや、家族愛の尊さについて語る。
なるほど、そんな見方もあるのか、そう思った瞬間に、互いのクオリアは変質しているのだ。
二人のやりとりを見つめる第三者が、そのリプライの応酬をみつめていたとしよう。
その人の中には、わたしとも、あなたとも違う、まったく新しいクオリアが産まれている。
日々、何ツイート、何百ツイート、何千ツイートを繰り返し、わたしたちは互いのクオリアを変質させあっている。
そしてたまたま、おなじものを見られるはずのない、「とじたこころ」の持ち主が、おなじものを見たと錯覚するとき。
ひとは、最大限の歓びを感じるのだ。「とじたこころ」しか持たないくせに。そんな厄介なものが人間らしい。
トライアル&エラーを何億回と繰り返し。
そのひとつが、あなたがいま押そうとしている「ツイート」のボタンなのだ。こころして押したまえ、御同輩。
大河の最初の一滴となり、世界を変える。その共感を産む、最初のひとつが、そのツイートなのかもしれないのだから。


「あのー、すっごいもう、一見して、一見してもうぶっ壊れてる女がおるよね。
女ね。ナオン。一見してわかる人いるよね。ぶっこわれとる女。
いっとることぜんぜんわからん。なにいってるんすかみたいな女の人、いるよね。
つじつまもあわんし、会話もできん。ディスコミュニケーション状態に陥っとるんやけれども。
一瞬だけまともなこといって噛み合う瞬間とか、あるよね。
ああいうのって、たま、らんよね」
             (NUMBER GIRL“SENTIMENTAL GIRL'S VIOLENT JOKE”)


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