生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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LOGAN/ローガン

  1. 2017/06/11(日) 12:29:22|
  2. 洋画
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 生花市場がはじまる時間になると、重彦はひとりでに目を覚ます。
 真っ暗な天井をかすんだ瞳で見上げながら、重彦はのどの奥でうなり声をあげた。身に染みついた習慣というものは、ときに人を腹立たしい気分にさせる。花屋の看板をたたんで、ささやかな家財を軽トラックの荷台に積め込み、眠らないあの街をあとにしてもう二十年になる。故郷の地にふたたび根を張るには充分な時間だ。生まれ育ったこの家の大黒柱には、重彦が五歳のときにつけた背丈の傷が刻み込まれている。それなのにいまでも大田市場のセリの声がまどろみのなかに聞こえてきて、おまえはとんでもない寝坊をしたぞと囁いてくるのだ。
 腰を痛めないように苦労しながら寝床から出ると、全身に寝汗を掻いていることに気づいた。建てつけの悪い窓を通して、潮騒の音が聞こえてくる。ここは千葉の片隅の、地図の上でしか名前を覚えているものがいないような寒村だ。
 ホームエネルギーマネジメントを導入したあたらしい家を建て直そう、という娘たちの誘いを、重彦は断りつづけていた。老い先短い身に、どうしてそんなものが必要なものか。どうせすぐにお迎えがくる……自分が老人らしいひがみに流されかけていることを感じて、重彦は首を振った。
 顔をあらって……いや、やはりシャワーを浴びた方がいい。それから凜が起きてくる前に、ゆっくりと朝食をつくろう。
 二日酔いでもないのにふらつく足に気合いを入れ、重彦は洗面所にむかった。
 台所の明かりに気づいて、足を止める。
「凜……」
 三人の娘たちはみな早々に嫁ぎ、計ったようにきっかりと、それぞれ三人の孫を産んだ。いまでもなんだかんだとみな重彦を慕ってくれて、正月には勢揃いした娘や孫たちが、台所にひしめきあう。年寄りがあまり口を出したり、手を貸したりしない方がいい、そう思った重彦は特注の大きなクルミ材のテーブルを買うにとどめた。
 十五人は掛けられる大きなテーブルに、凜がひとりでちょこんと座っている。紅柿色のカーディガンにつつまれた、うすっぺらい身体。腰まで伸びた長い黒髪が、痩せた肩の上でばらけていた。やせこけた指にはスプーンをつかんでいる。テーブルの上にランチョンマットが敷かれ、その上に白い陶器のシリアルボウルが置かれている。凜はそこからシリアルをすくって口元へ運んでいる。
 胸に刺さってくるような孤独な光景だった。この子はいつも独りを好む。正月に親戚同士があつまって騒いでいるときにも、すっと身を引いて、居間の柱にもたれて本を読んでいるような娘だ。
 憮然と立ちつくした重彦の顔を、凜が見つめかえしてきた。口のまわりに牛乳がついている。きょとんと見開いた大きな瞳は、亡くなった妻にそっくりだ。孫のなかで、凜の顔立ちにだけ房枝のおもかげが残っている。
「凜、おまえ……」
 重彦は云った。
「また夜中に抜け出したのか」
 カーディガンの肩に、松の葉っぱがついている。誰かに撫でつけられたように、頬には泥汚れがついていた。
 凜は、返事を惑うように一瞬、天井を見つめ、それからまた重彦の顔を見た。
「おじいちゃん」
「ああ」
「……怒る?」
「いや」
 答えながら椅子に腰かけようとして、思わずうなり声が出る。この孫娘の前ではしゃんとしたところを見せてやりたいが、歳には勝てない。
「どこに行ってたんだ」
「海岸沿いに、ずっと」
「おまえみたいな年頃の娘が、そんなところを夜中にうろついて、楽しいものかね」
 凜はスプーンを置いて、首を傾げた。
「おじいちゃん、腰を揉んであげようか」
 重彦はいまいましい思いで、首を横に振る。
「おまえに何かあっても、すぐに飛んで駆けつけてやれるような身体じゃない。あまり心配かけるな」
「心配なんて、いらない。誰にも会わなかった」
「人の数よりカモメの数が多いような村だからな。だが、そういうことじゃないだろう」
 おまえのお母さんは、心配しすぎて疲れてしまったんだ。そんな大人げないことばをぐっと飲み込む。飲み込んだことばの中身を、凜が察する。すっと視線が逸れた。この年頃の子供というのはみんな超能力者のようなものだ。こと、親やまわりの大人たちの不甲斐なさを察知することに関しては。
 ネコを思わせるような優美な仕草で、凜が立ち上がる。シリアルボウルをもって流しの前に立つと、すぐに流しを水が打つ音が聞こえてきた。
「『あの池のアヒルたちは、池が凍ったときにはどこに行っちまうんだろう』」
 手元を見つめたまま、凜が謎かけのようなことを云う。
「なにかね、それは」
「なんでもない」
 凜はふりかえり、おぼつかない微笑をみせる。
「昼間はあんなにさわがしいカモメたちが、夜にはどこに隠れてるんだろうって思っただけ。じゃあ、あたし、もう寝るね」
 座った重彦の横をすりぬけて、凜は立ち去る。
 すれ違うとき、掘り返したばかりの土の匂いがした。これが五歳の娘ならば泥遊びも微笑ましい。凜はもう十四歳だ。
 それから長い時間、重彦はテーブルクロスの模様をじっと眺めていた。まるでそこに人生の真理が潜んでいるとでもいうように。
 いつのまにか、窓の外が明るくなってきていた。


 しばらく凜をあずかってほしい。
 そう連絡してきたのは、末娘の柚香(ゆずか)だった。
「いやねぇ、ほんとはいい娘なのよぉ」
 言い訳のようにそうつけたしたのが、いかにも柚香らしかった。
 しっかり者の姉ふたりと違い、のんびり者に育った柚香は、どんなときでもまるで茶飲み話をするようなおっとりとした口調で話した。
「あの年頃だからねぇ。いろいろ難しいこと考えてるんでしょうけれど、あたしには話してくんないのよ。ただ、どうしてもお爺ちゃんのところに行きたい、の一点張りでねぇ」
 ときおり、人は花のようなものだと思う。自分に適した土壌に種となって潜り込み、そこで勝手に花を咲かせる。
 長女の茉莉花(まりか)は手が掛からないが、いちどこうと決めたら自分の筋は曲げない娘だった。京大を出て国会の速記者を三年務め、職場で結婚相手を見つけて、惜しげもなくキャリアを投げ出した。母に似て気の強い自分の優秀さを疑ったこともないような三人の息子たちは、いまでは仲良く母の母校に通っている。
 町田の外れで小さな美容院を営む次女の杏子(きょうこ)は、三人の娘に恵まれた。ひとりの娘はバックパッカーになって世界を駆け回り、ひとりは水泳好きが高じてインストラクターになり、ひとりは杏子の店を継ぐと宣言している。どれも杏子に似て器量がいい娘たちで、重彦の寿命が持てば、曾孫の顔が見られるかもしれない。
 自立心旺盛な姉ふたりに囲まれて、末っ子の柚香はひたすらマイペースに育った。短大を出てそこそこの規模の商社に一般職で入社し、そこそこの男と結婚して子供をもうけた。次男は高校の陸上選手で、長兄はアマレスに打ち込んで青山学院大学のレスリング部に所属している。どちらも身長190センチを越える偉丈夫だ。末っ子の凜は、まるで兄二人に養分を吸い取られたように、小柄で冴えない娘に育った。
 その凜が、中学にあがってから学校に通わなくなり、自宅学習に切り替えた。ここ二年ほどは、正月にも顔をみせなくなった。それが急に、重彦の家で暮らしたいという。重彦に断る理由はなかったが、老人ひとりで年頃の娘の相手ができるものか、気に病みはした。
 心配が杞憂にすぎないことが、暮らしてみてすぐにわかった。柚香は手を抜けるところはすべて手を抜くような娘だが、孫の凜は炊事のときには重彦とならんで立ち、洗い物もちゃんとする。洗濯も重彦のぶんまで片づけてくれた。フルオートフードプロセッサーと、分別機能付き洗濯機のある家庭で育った娘とは思えない。
「本で、覚えたの」
 どこで家事を習ったのかと訊いたら、そう答えた。それはそれで得難い資質だと思うが、IoTが隅々まで普及した街のくらしでは、あまり重宝されることではない。
 ともあれ、老人と孫の、奇妙な共同生活が始まり、そして一ヶ月が過ぎた。
 凜は昼間は寝ていて、夕方くらいからふらっとどこかに出かけたかと思うと、縁側で爪を切る重彦のうしろに気がつくと座っていたりする。そんなところもネコに似ていた。過干渉はしないと決めてあった。凜のようなタイプは、きつく叱れば、表面だけおとなしく従ってくるような気がしたからだ。それでは、わざわざ家を離れた意味がない。
 凜は、親と約束した自宅学習のプログラムを黙々とこなしてはいるようだ。学業をおろそかにすれば、柚香にすぐにアラートが行くはずだが、そんな気配はない。ときにぼうっとした瞳をして宙を見つめ、重彦にはなにかを待っているように見えた。それがなにかは知らないが、いっしょに気長に待ってやるしかない。
 独居生活が終わっても、重彦の口数はさほど増えなかった。
 凛は昼間は寝ているので、昼食は重彦ひとりでとることが多かった。洗い物を片付けてしまえば、年金生活の老人にやるべきことはそう多くない。縁側に古い商売道具である花器を持ちだし、布巾で磨くくらいがせいぜいだ。
 都落ちしてくるときに、あらかたの花器は他人に譲ってしまった。手元に残っているのは、どれも房枝が気に入っていた花瓶や壺だ。納屋の奥で埃をかぶせるには忍びなく、ときおりこうやって風に当てて、磨いてやることにしている。
 他に見るものとてなく、視線は自然と庭に向かう。
 重彦は庭の手入れに熱心な方ではない。草むした猫の額ほどの庭に、タイヤのない、錆びた軽トラックが転がっている。
 新宿で花屋をしている時は、それこそ馬車馬のように働かせた車だ。こちらに帰ってきてからは、重い鉢植えを運ぶこともないし、あったとしてもカーシェアリングでこと足りる。撤去してしまうのも忍びなくて、そのまま錆びるにまかせている。
 自分など、きっとこの役目を終えた軽トラックのようなものなのだろうと、重彦は思い、気が重くなる。
 花瓶を磨きながら、知らず、うとうととしてしまったらしい。
 突然、肩を激しく揺さぶられ、重彦は慌てて目を覚ました。
 視界いっぱいに、目を見開いた凛の顔が広がった。
「おじいちゃん、鍵!」
 耳のすぐそばで怒鳴られても、なんのことか要領を得ない。
 しばらく睨みあったあとで、埒があかないと思ったのか、凛は身をひるがえし、そこらじゅうのタンスや棚の引き出しを漁り始めた。
「鍵ってお前、なんの鍵だ」
 尋ねても返事はない。凛はこわばった横顔をこちらに向けたまま、なにかを探し続けている。
 まさか、と思った。
「軽トラックの鍵なら、仏壇の引き出しだ」
 まさか、が当たったらしい。凛はすぐに鍵を見つけると、縁側に座り込んだ重彦の腕をぐいぐい引っ張り始めた。
「早く、おじいちゃん、あんまり時間がないの」
「いったい……」
「早く!」
 凛は重彦の腕を引いたまま、そのまま素足で庭に飛び出す。重彦はあわてて草履を履くと、凛のあとに従った。
 凛が軽トラックのドアを開けると、派手な軋み音が響いた。そのままドアが外れて落ちなかっただけでも幸運だ。
 運転席に乗り込んだ凛は、そのままシートの上を移動して、助手席に移った。ドアの外で呆然と立ち尽くす重彦に手を伸ばす。
「おじいちゃん、早く乗って! あたし、運転できないから」
 凛の表情は真剣そのものだった。冗談とも思えない。
「しかし……」
 重彦はとっくに免許を返納していた。そもそも、そんな話ではない。燃料も積んでいない、タイヤもない軽トラックが、動くはずがない。
「お願い!」
 凛の声が、高くなった。
 必死にこちらを見つめる視線を、重彦は正面から受け止める。
 ああ、ここだ、そう思う。
 この子がこの先やっていけるかどうか。大人をふたたび信用してくれるようになるかどうか。ここが分水嶺だ。 
 ええい、ままよ。舌打ちをこらえて、凜の手を握り、運転席に乗り込む。左の脚が攣りそうになったが、なんとか声は抑えた。
 鍵穴のまわりについた錆を払い落とし、差し込んだ鍵をまわした。
 もちろん、軽トラは身震いひとつしない。
「おじいちゃん、アクセル」
 凜に云われて、馬鹿馬鹿しいと思いながらもアクセルを踏む。ヒビの入ったフロントグラスのむこうに、生け垣がある。それを避けるようにハンドルを切りながら、重彦は凜を問いつめた。
「どこまで行くんだ」
「とりあえず海岸沿いに走って、そこから国道に上がろう」
「なんのために」
「決まってるでしょ」
 凜は信じられないという風に目を見開く。
「逃げるんだよ!」
 ざわっと二の腕に鳥肌が立つような思いがした。
(兄貴、とにかくこの場を逃げないと……!)
 孝弘が血に染まった右手を突き出してくる。
(大丈夫、房枝さんを泣かせるようなマネは、しませんから)
 どしゃ降りの雨にいいようにずぶ濡れにされながら、顔中を口にして大声で叫び続ける孝弘の半泣きの顔……。
「とにかく、北にむかって」
 耳元で怒鳴る凜の声に、重彦は夢想から覚める。凜はどこからもってきたのか、ピンク色のハンドタオルを右手に巻きつけている。
「おじいちゃんは前だけ見てて。うしろからくる奴らは、あたしがなんとかするから」
 止めるヒマもなかった。タオルを巻きつけた右手で、凜はひび割れたサイドグラスを次々に砕いていく。あらかたの破片を片づけると、痩せたからだを思いっきり伸ばし、窓から肩を出して、トラックの後方を振りかえる。
「まだ、追っ手は見えない。でもきっと、そう離れてないよ」
 ハンドルを持つ手が、知らずに震えていた。
 背後から、すさまじい勢いで過去が迫ってくる。その気配が、重彦に指が白くなるほどにきつく、ハンドルを握らせる。この二十年、いやもっと以前から、必死で意識の底に沈めてきた悪夢だった。
 ハンパなところで下手を打った重彦が、どうしてあっさりと組を抜けられたのか。花屋になりたい。そう云った重彦を、組の連中は冷笑でもって受け入れた。指を詰めろと云われることもなかった。組の総会や、手打式、結婚、葬式、なにかあるごとに花屋としてお呼びがかかり、結局最後まで縁は切れなかった。それでもそれ以上は深入りすることもなく、重彦は“街の花屋”としての体面を保てた。白黒の写真で額縁におさまった孝弘の笑顔が、重彦の未来を切りひらいてくれた。
 いつしか、重彦は軽トラックのアクセルを全力で踏み抜いていた。
 曇った瞳に映るのは、フロントグラスのむこうの光景ではない。ずっと避けてきたのに追いつかれた、過去だった。
 忌まわしい記憶を避けるように、右へ、左へ、重彦はハンドルを切る。
 そうやって、どれくらい、悪夢の中をドライブしていたのか、わからない。
 ふと我に帰ると、重彦はにぎりしめたハンドルを呆然と見つめていた。
 壊れた軽トラックは、庭から一メートルたりとも動いていない。
 深く息を吐き、思い出したようにかたわらに視線を移すと、助手席で凜が眠りこんでいた。
 苛立ちとも、皮肉ともつかない感情が泡のように胸からいくつもわきあがり、消えていく。
 サイドシートにうずくまった凜のからだの下から、なにかが覗いていた。重彦は手を伸ばし、それを引き出す。凜はよっぽど深い眠りについているのか、起きる気配もない。
 それは古い映画のパンフレットだった。表紙はすり切れて、いまにも外れそうだ。映画のパンフレットなるものを手にとること自体、何十年ぶりかの体験だった。いまでは劇場で映画を観る行為はごく一部の好事家のものになっていて、全国のほとんどの映画館は閉館に追いやられている。
 重彦はパンフレットに目を落とした。セピア色に染まった表紙のなかを、幼い少女を抱いた老人が走っている。表紙の下部に、映画のタイトルが大きく、「LOGAN」と描かれていた。
 重彦は凜の寝顔に視線を奔らせた。凜が、本を読む代わりにタブレットで映画をたまに観ていることには気づいていた。若いのに珍しい趣味だとは思っていた。パンフレットの発行年数を確認すると、二十年もむかしだ。こんな古い映画のことを、凜はどこで知ったのだろう。
 「LOGAN/ローガン」は2017年のアメリカの映画だった。監督はジェームズ・マンゴールド。撮影はジョン・マシソン。編集はマイケル・マカスカー。主演はヒュー・ジャックマンという男で、タイトルにもなったローガンという老人を演じている。ローガンはウルヴァリンの別名を持つミュータントで、若き冒険の日々に別れを告げて、メキシコ国境のむこうがわにある廃工場で細々と暮らしている。平穏な日々に終わりを告げたのは、ローラという幼い少女だった。彼女もまたミュータントで、ローガンはローラを連れて逃避行の旅に出る……。
「こんなものは現実じゃない」
 思わず、吐き捨てるような口調で重彦は云った。
「ただの、おとぎ話だ」
 一気に興ざめした気がした。凜は、おそらくどこかの配信サービスでこの古い映画を観たのだろう。そして、主人公たちの境遇に自分を重ねてしまったのだ。なんとも子供らしい、感情と直結した行動ではないか。
 凜がなにを考えているのか、重彦にはわからない。それなりの生きづらさを感じていることは、見ていればわかる。だが多少遠回りであれ、現実のなかで居場所を見つけることができるくらいには賢い子供だと思っていた。
 こんな映画にかぶれて、現実と虚構の区別もつかなくなったのか。
 身内を贔屓したくなる気持ちもわかる。だが重彦はどう考えてもヒーローではない。やたらめったら歳をとった、ただの老人だ。ミュータントのスーパー能力などありはしない。現実に叩きのめされ、腰を折り曲げながら、なんとか生き延びてきただけの男だ。
 視線を感じて顔をあげると、眠そうに半目を開けた凛と目が合った。
 過干渉はしない、その誓いをいま破るべきだと知った。家へ帰れと、凜に云ってやろう。現実と戦えと。
 重彦が口をひらくよりわずかに早く、凜が沈黙を破った。
「守ってあげるね」
 眠そうなかすれた声で、凜がそう云った。
「あたしが、怖いものから、守ってあげるからね、おじいちゃん」
 半目になった凜の瞳が、べつの瞳と重なった。
(あたしでよかった……)
 十年にいちどと云われた、東京に大雪が降った夜のことだった。呼んでから二十分待っても救急車は来ず、重彦はたまらず軽トラックの助手席に房枝を乗せて、雪のなかを病院めがけて走り出した。
(あたしでよかったんですよ、あなた。子供たちにはなんの苦労もさせずに済んだ。この世の嫌なところを見せずに育てられた。あなたはきっと、長生きしますよ)
 大声で怒鳴る重彦の声にかぶせるように、房枝は最後の息を吐いた。
(あなたじゃなくて、あたしで……)
 気がつくと、凜が起き上がり、重彦の肩を揺さぶっていた。
 おじいちゃん、おじいちゃん……甲高い凜の声が、耳に突き刺さる。
「大丈夫だから」
 凜は云った。
「あたしになんでも切り裂く爪はないけれど、その気になれば、怖いものに噛みつくくらいのことはできるから」
 老人と孫は、ずいぶんと長い時間、見つめ合った。
 凜がどうして自分のところに来たいと云ったのか、その理由がはじめてわかった気がした。
 凜は、まるで仔猫をかかえて気が立った母猫のように、全身の毛を逆立てて、やってくる脅威に備えている。その姿に、なんだか微笑したくなった。
 結局のところ、怯える必要などなかったのだ。
 自分の映画はとうに終わっている。どんな悪夢が訪れたとしても、それはいまの重彦にかすり傷ひとつつけられない、ただの過去だ。
 ただ、
 ただ、凜の映画はちがう。それはまだ始まったばかりだ。エンドロールは遥かに遠い。
 重彦は左手を伸ばし、トラックのギアを入れた。
「北に行きたいと云ったな」
 ハンドルを握りなおしながら、重彦は訊ねる。
「そこになにがあるのかね」
「国境」
 即答した凜のことばに、重彦は笑い出しそうになる。千葉から“国境”を目指すのは、ずいぶんと大変だ。
 だがきっと行き着けるだろう。物語とはそういうものだ。
 アクセルを踏む。エンジンの響きが、シート越しに伝わってくる。ゆっくりと、窓のむこうを景色が流れていく。
「凜」
「はい」
「うしろはまかせた」
 こぼれるような凜の笑顔を視界の隅に捉えながら、重彦はさらにアクセルを踏む。割れたフロントグラスから吹いてきた風にくちびるをくすぐられ、たまらず笑い出してしまう。
 どこまでもつづくノースダコタへのハイウェイを、祖父と孫娘の笑い声をこぼしながら、軽トラックが疾走していく。
 今夜はどこで泊まろう。
 どちらにしろ、ベッドで凛と横になりながら、「ローガン」を観よう。重彦は秘かにそう決めていた。



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