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生きながらフリッカーに葬られ

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ちはやふる -結び-

  1. 2018/03/24(土) 10:56:49|
  2. 邦画
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ちはやふる結び、二回観てきました。初日の初回は「あの大好きなちはやふるが終わってしまった」という事実にただただ愕然とし、劇場をあとにした記憶がまったく無く、気がつくと家から10キロ離れた場所で、パンフを片手に呆然と立ち尽くしていました。「なにかとんでもないものを見た」という重い衝撃だけが胸に残り、評価すらもままなりませんでした。

二回観て、ようやく確信できました。「青春どころか……」という劇中のセリフがありますが、これは人のまるごと一生の重みと、青春の一瞬の輝きと、1000年の時の流れを対比させ、その上で青春映画のフォーマットにきっちりまとめこんだ、傑作というより怪物という名がふさわしい、とんでもない作品ではないでしょうか。

前作下の句からの二年のブランクがあり、主要役者陣は前作をステップとしてさらなる飛躍をとげたわけですが、小泉監督はそれすらも作品のテーマとしてとりこんでしまいました。広瀬すずのしゅっとした凛々しい頬のラインは、前作までの幼さの残る丸い頬とはまるで違っています。ああ、時は流れてしまった。この子たちは成長していってるんだ。そう思うだけで訳のわからない涙が流れます。広瀬すずさんは「綾瀬千早を演じた三年間が、ちょうど自分の高校生の三年間と重なっていた」と語られていましたが、まさにこの作品で広瀬すずが演じるのは、天衣無縫で直情的な“一年生”が、後輩たちをしっかりと育ていたわれる“三年生”になった姿です。いわゆるアイドル映画のくくりで、その一瞬のきらめきをスクリーンに残した女優さんは星の数ほどいるでしょうが、広瀬すずは映画というものを自分の成長を記した卒業アルバムに変えることのできた希有な幸運の持ち主です。そしてそれはそのまま、前に進みつづける、変化しつづけることを宿命とした、「ちはやふる」のテーマとも合致しているのです。

ですがこの「結び」でもっとも特筆すべきは太一を演じる野村周平さんです。この二年で素晴らしい成長を遂げて帰ってきました。そしてスクリーンの外で野村周平さんがつみあげた役者としての研鑽が、そのまま映画のなかで「不器用な太一の高校三年間」として表現されているのは上手いというか憎らしい。監督もそれを心得てかどうかわかりませんが、太一の役に過大な負荷をかけてきました。背中だけの演技。顔をフレームアウトさせた声だけの演技。思っていることと正反対のことを語る演技。そこでスベってしまったらこの映画そのものが成り立たない大役ですが、野村周平さんはそこに見事に応えてきました。この成長ぶりには彼のこれから先の活躍にも期待せずにはいられません。

「結び」から登場したニューフェイスも全員すばらしかった。そもそも「ちはやふる」という映画はその魅力の多くを役者陣の息の合った奇蹟のアンサンブルに頼っていたわけで、そこに追加キャストが投入されることに不安を感じていたのはわたしだけではないと思います。案の定、菫を演じる優希美青さんも、筑波を演じる佐野勇斗さんも、既存の瑞沢かるた部のなかにいると微妙な違和感がある。その違和感すらもドラマに活用するキャスティングにはうならされました。彼らはいつわりの停滞にひたっている瑞沢かるた部をひっかき回し、違和感を与えるのがその仕事なのです。それだけで終わってしまえば二人ともただのイヤなヤツですが、波紋をひろげたあとで、しっかり瑞沢かるた部としての活躍が描かれているところも本当にソツがない。また破天荒な新人をサポートするという役柄がくわわってこそ、上白石萌音、矢本悠馬、森永悠希の三人、通称「瑞沢かるた部リズム隊」のド安定の演技が光り、それがブレないベースラインとなって映画を支えているのではないでしょうか。

賀来賢人は、なんなんでしょう、この人は。彼の演じる周防久志は、原作でも超然と浮世離れして、生身でこの役を演じられる人なんていないだろうというくらい“浮いた”存在なのですが、スクリーンにはじめて映ったときのその所作、目の演技に「ああ、周防名人だ」と納得してしまいました。映画においてはニューフェースなのに、まるで上の句が撮られる前から名人として「そこに居た」ようなこの存在感はなんなのでしょう。ほとんどジェダイマスターです。そしてパダワンを導くその厳しさと優しさは、ルーク・スカイウォーカーを超越しています。

三部作を俯瞰で見たときに、これは“太一の青春”三部作として一貫しているなぁ、という印象を持ちました。人としてうらやむべき資質を持ちながら、たったひとつ、本当に欲しいものだけは手に入らない。そのことを“しの”ばざるをえない、太一という男。綾瀬千早という映画の中心で輝く太陽。その太陽に脆い羽根で挑みつづけた太一という男に観客の視点がのるから、この映画は異常なほどの没入度があるのです。それでいて、主役の千早の存在感や魅力は決して損なわれない。広瀬すずは太陽でありつづける。こんなことが両立できる映画はそうはありません。

「絶対に忘れない――今、この瞬間がわたしたちの全て」。これがこの映画のキャッチコピーですが、ここでは青春というものが“瞬間”として扱われています。電光石火の競技かるた。躍動する若者たちの指先で、わずか一瞬で勝敗が決まる運命。その瞬間を映画に焼きつけてやれ、という撮影・照明・音響・美術の熱意は常軌を逸しています。撮影は前二作とおなじく柳田裕男さんですが、前作とはうってかわって動き回るカメラは、ドキュメンタリーのよう新鮮な生々しさを画面に与えます。いまこの瞬間、彼らはここにいるのだ、という存在感がハンパなかった。竹内久史さんの録音は、この映画のMVPではないでしょうか。とにかく音による緊迫感の演出がハンパないです。まったくの無音であったり、選択された音だけが流されたり、その演出も的確です。千早が「ほとどぎす」の下の句を見つけて泣くシーン。あれほどにぎやかで楽しかった上の句の場面が無音で挿入されます。あとづけの演出であることが信じられず、このシーンのために上の句はわざとがちゃがちゃにぎやかにやっていたのではないかと勘ぐってしまうほど、ここの無音は決まっています。そして千早の涙が畳をたたく音。涙が畳をたたく音なんて、ふつうに撮っていたらマイクが拾うはずがありません。それを拾う繊細さ。そこでインサートされるかるた部部室の情景。ほんとうに瑞沢かるた部が三年をそこで過ごしていたとしか思えない細部の凝り方。美術さん、グッジョブです。あるいは塾の自習室に流れるシャープペンシルの音。あるいはかつて太一が千早をおぶった「おんぶ坂」を映したシーンで挿入されるネコの姿。いま、この瞬間にしか存在しない絵・音。この瞬間をなにひとつこぼさないという気迫と繊細さが同居したこの映画は、ほら、おまえがいま映画館の席に座っている瞬間も時間は流れていくのだ、すべては変わっていくのだ、と煽ってきます。鬼のような映画です。

これだけで終わっていれば「青春は悲劇だ」という桐島、部活やめるってよとおなじ結論に達してもおかしくない映画です(千早と奏が屋上にいるシーンがマジックアワーであるのは桐島へのオマージュではないでしょうか)。そこにこの映画は、「1000年」というものさしを持ってくる。いまこの瞬間は、この青春は、過ぎ去って行く。誰にも止められない。でもそれでも人の営みは、人の思いは、人の恋心は、1000年先にも残ることがある。ことばが、思いが、1000年先の誰かの背中を押すことだってある。明日の長さは永遠と一日。この瞬間の思いが、1000年の過去と繋がることがあるならば、1000年先の未来に繋がることだってあるかもしれないじゃんか、こん畜生! そうであれ。繋がれ! 繋がれ! ……そんな思いが、この映画であるのだと思います。これは1000年先へのラブレターです。

1000年という恐ろしい長さの縦軸。綾瀬千早という不動の軸を中心に、そこに集う人々を誰ひとりとりこぼさない横軸。この縦横の広がりの膨大さは宇宙そのもので、それこそが「ちはやふる」という物語なのです。それを余すことなく映画化してくださった小泉徳宏監督には、ただ感謝しかありません。
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