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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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『華麗なるギャツビー』

  1. 2013/07/08(月) 23:57:52|
  2. 洋画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
72036.jpg


In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice……
ぼくがまだ年若く、いまよりももっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれた……

たいそう有名な、F.スコット・フィッツジェラルドの「偉大なるギャツビー」の書き出し。
映画は、まさにその一文、視点保持者ニックの語りから始まる。
これはどうやらタイトルだけを借りたハンチクな代物ではなく、本気で“あの”ギャツビーを映画化したもの
らしいと背筋を正す。

アメリカという国が他の国より恵まれている点は多数あるけれど、その中でも格別なものの一つは、
自国の青春をまるごと描いた小説を、自国を代表する文学として持っている
という点がある。本邦においては、皇紀なんて2673年もあるわけで、2600年もつづいてる歴史の“青春”って
いつよ?という話になり、大変にややこしい。夏目漱石があるではないかという話があるかもしれないが、漱石の
文学が日本の近代黎明期のすべての人々の心情を代表しているとは云いがたい。

その点、「偉大なるギャツビー」は明朗にアメリカの青春そのものだ。
20年代、作者によってジャズエイジという名前までつけられた狂騒の時代。ハリウッドと禁酒法と乱痴気騒ぎの
時代。自らを省みることなき浮かれっぷりは、これはもう国がまるごと青春やってたようなものである。
そしてのちの世界恐慌を経た世界大戦へと至る、青春のビターな結末をもこの小説は描ききっている。
ギャツビーの栄光と没落は、そのままアメリカという国の軌跡と重なるのだ。

この映画でバズ・ラーマンが描いた、豪華絢爛なギャツビー邸のパーティーには、なんだかうきうきさせられる。
3Dで観ると、本当に地が宙に浮いたような気分になる。夢見心地な感じ。
もちろん、映画的に、絵面的に豪華だからっていうのもあるだろう。
だが恐らく、明確な演出として、この映画のすべての豪華さはリミッターが外れている。
ディズィ登場シーンのあの幾重にも重なったカーテンとか、海峡の打ち上げ花火とか、逢い引きの部屋を
埋め尽くした花とか。たぶんその豪華さの行き着く先がどうなるか、登場人物は誰も考えていない。
あえて目を背けているのか、それとも浪費を直視しても微笑んでいられるだけの余裕があるのか。
どちらかはわからないが、観ているこちらが「調子に乗らない方がいいよ」「少しは貯金した方がいいよ」と
忠告したくなるくらい、放蕩は無制限につづくのである。
そんな心配、せこいって?
いや、こちとら祇園精舎の鐘の音を聞いて大きくなってきたから。

そしてギャツビーの登場とともに、この再現のない放蕩、この途方もない浪費が、ただひとりの女を手に入れる
ためだったとわかる。
そのとてつもないロマンチシズム。
対岸の緑の灯に託された、浪漫。小説でも印象的だった緑の灯は、映画では強烈な残像をともない、こちらの
胸に焼きつく。SF映画のレーザービームなんかよりも鋭く。

ここに限らず、小説中で印象的だったシーンや要素が、実に印象深く拾い上げられているのがバズラーマン版
ギャツビーの特徴だ。

ウェストエッグとニューヨークの中間地点にある「灰の谷」も、もうあれほどはっきりと色合いまで含めて差別化
されると、ほとんど寓話の舞台だ。
そしてその「灰の谷」に建った「エクルバーグ博士のメガネ」の不気味なこと。
小説を読んだとき、この際限ない放蕩を描いた物語に、とてつもなく覚めた「神の視点」が描かれていることに
気づいて慄然としたものだけれど、映画ではなおさらメガネは容赦なく、不吉な終わりを予言している。

そしてなによりもギャツビーだ。

映画ってなに?
映画に出るってどういうこと?
決まっている。役者という人が、嘘の名前と嘘の身分を持って、我々の前に登場することだ。
その意味で、まさにギャツビーという小説は映画化にうってつけだし、ギャツビーという役柄は、これは想像だけれど
役者ならば誰でもやりたがる、魅力的な多面性を持った人物ということになる。

貧農の生まれでありながら名家の子息然とし。一文無しのリスクを日々負いながら、途方もない財を蓄え。
人々で溢れかえったパーティーの中心にいる孤独の王。

役者はみんなギャツビーなんだ。
ハリウッドそのものがギャツビーだ。
そしてたとえば魚民で隣に座った見知らぬ客に、「おれ、地元じゃちょっとしたあれなんスよ」と嘘をつくとき、
わたしたちはきっとギャツビーになっているのだろう。

ディカプリオは名演だ。ちょっとだけジャンゴのキャンディを引きずっているような気もしたけれど、原作では
「世にも類い希な笑顔」と表現されている登場時の笑顔をクリアしたなら、それだけで満点だ。
あとディズィを観る陶酔しきった中二病患者の顔とか、神経質な顔のひきつりとか、見事でしたね。

それ以上にスゴイのがトビー・マグワイヤ。彼はなんて云ったらいいんだろう。ホームズにおけるワトソン的な、
というか、物語の主役ではないけれど、主役のそばに寄り添う、視点保持者。小説では必要不可欠な道具だが、
血肉を備えた役者が演じる「実在の人物」となると、こうなるんだぁと驚いた。
ギャツビーの葬式で、出て行けと怒鳴るシーンなんて、生身の人間然としていて、とてもよかった。

また、トビー・マグワイヤが精神病院にいて回想しているという設定もいいじゃないですか。アマデウス的というか、
もっというならカリガリ博士的なひねりがきいていて。

トビー・マグワイヤがいる場所が、「すべては終わったのだ」と教えてくれる。
キャリ・マリガン演じるディズィはどうなったのか、それ以外の人物は。
わからない。この物語ではそれ以上を語ると嘘になる。
ただ、この映画は最後に、あの対岸の緑の灯に戻るのだ。

たとえば遠い昔に。
街の灯を高台から見下ろしながら、この灯の中にあの娘のいる窓の明かりも含まれているんだと思って、
希望に胸を焦がしたことがきみはないかい?
わたしはある。
それが遠い日の花火だとしても、その花火はいまも胸の中で蘇らせることができる。

この映画は3D映画である。ぜひ3Dでの鑑賞を薦めたい。
すべての豪奢、すべての放蕩が、
ただひとりの男が、ひとりの女を手に入れるためのひとにぎりの花束だった。
そう思ったとき、廃墟と化したギャツビー邸の姿が、本当に胸にくるから。
手に入るものだけを確実に手に入れていく人生も素敵だと思う。
でもわたしはやはり、対岸の緑の灯に憧れつづけたギャツビーに共感せざるを得ない。
そしてそれを小説から「可視化」してくれたこの映画は、わたしにとって忘れがたいものになった。

原作に忠実なこの映画は、映画の最後の一文の引用で幕を閉じる。

こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。
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