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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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マン・オブ・スティール ~重力と寂しさ

  1. 2013/09/02(月) 23:02:30|
  2. 洋画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
mosfan.jpg

「重力とは惹かれあう寂しさである」と喝破したのが谷川俊太郎で、それに答えて「ならばこの世でいちばん寂しい
のは空と大地だろう」と云ったのが寺山修司であった、と思うのだけれどソースが見つからない。
あやふやで申し訳ない。

あやふやな気分のまま、こんな夢想をつづけてみたい。
およそ重力というものに縛られない人々がいたとして、地球の映画を見たらどう思うだろう。
さぞかし奇妙な光景に見えるのではないだろうか。
人々の視線は水平から下方にむかい、真上を見上げることなどめったにない。
カメラのパン移動に比べて、ティルト移動は極端に少ない。
人々は画面の下三分の一ほどのスペースに貼りつき、画面の上はがらがらだ。
どうして地球の人々は「上」を無視するのか、重力にとらわれない人には理解できないだろう。
地球の重力にとらわれ、両足をがにがにと動かさねば移動できない我々の姿をいちど客観的に見てみよう。
地べたを這いずるその姿は、よくよく考えれば滑稽で無様なものではないだろうか?

青年、カル=エル/クラーク・ケントには、自らの姿はどのように見えただろうか。
歩く自分を、まるで三輪車で移動するスーツ姿の大人のように滑稽には思わなかっただろうか?
知らぬ顔をして三輪車に乗り続けることも、三輪車を捨て去ることもできる彼が、最後にはどこに立つのか。
「マン・オブ・スティール」は重力をめぐる彼の「選択」の物語である。

あらためてびっくりするのだけれど、カル=エル/クラーク・ケントというのはとんでもないリア充である。
およそヒーローというものには孤独の影がつきものなのだが、彼にはそれがない。
世にシックスポケットということばがあるが、彼は産みの父・母、育ての父・母の四人から過剰なまでの愛情を
受けて育つ。従来であれば産みの父であるジョー=エルとは没交渉のはずだが、この映画ではしっかり実像を
伴って彼の前に現れ、文字通り船頭役を果たす。
育ての親の二人にもしっかり愛されている。演じるケビン・コスナーとダイアン・レインの佇まいが実に落ち着いて
いてよろしい。この二人の登場する回想シーンはぜんぶ涙腺が緩んでしまった。「ユニーク」な存在であるクラーク
を、どこまでも普通の子供として育てようとする二人の愛情が深い。
なんかあれね。バットマンリターンズのペンギンが観たら憤死するレベルの愛されっぷりね。

だからこの映画は前提として、リア充の物語なんですよ。クラークは生い立ちこそ多少は変わっているけれど、
居場所がちゃんとあるんですよ。それも二重に。だから「ぼくの居場所はどこだろう」はテーマにならない。
「ぼくには居場所がある。ぼくには力がある。それではこの力を、なんのために使えば良いんだろう」
というのがスタート地点で、その発想からしてリア充です。物語開始時点での思考のレベルが高い。マズローの
欲望の階梯のかなり上の段階からのスタートとなるわけです。

まず、物語開始時点での、カル=エル/クラーク・ケントのこの身の置き所が、抜群に上手いなと思いました。
物語は無精髭を生やして放浪するクラークの「現在」から、痙攣的に過去の回想を挟んでつづきます。
この「痙攣的に過去の回想が挟まる」という構成で、おれは父親たちの星条旗を思い出しました。
af53c44a07ceef2fe6593849e1084082.jpg

父親たちの星条旗がああいう構成なのはちゃんと理由があって、「過去を触れるにはあまりにも痛すぎる」って
ことなんですね。「触ると痛いから、おそるおそるちょっとずつしか触れられない。だから過去は痙攣的に蘇る」
ってのがあの映画の構成で。

ではマン・オブ・スティールはどうかというと、この映画の構成はそのままカル=エル/クラーク・ケントの
迷いを表していると思いました。無精髭を生やして彷徨う彼は、自分のありかたに自信が持てないんです。
だからマグロ漁船にたわむれに乗ってみたり、からまれたトラックの運転手に復讐したり、ふらふらしてる。
その合間に、「どうしておれはここにいるんだっけ?」という確認として、過去のフラッシュバックが挟まれて
いるように思えたのです。そしてそんな風にちょっとずつしか過去に触れられない、「痛み」の原因にまで
最終的に遡るわけで。

「マン・オブ・スティール」は重力をめぐる彼の選択の物語である、と書きました。
そう書けば、この映画を観たほとんどの人は、物語のクライマックスでクラークが選ぶある行動を思い浮かべる
でしょう。
ですが、物語の中盤、回想シーンにおけるクライマックス、彼の「痛み」の中核に置いて、クラークは「もう一つ
の選択」をします。

云うまでもなく、竜巻のシーンです。
あのシーンで、クラークは「力」を使うことができた。「重力」に逆らうことができた。
しかし育ての親であるケビン・コスナーは最小限の仕草で、彼を諫めます。使うな。普通の人間でいろ、と。
ひとことのセリフも発せられないにもかかわらず、云いたいことが120%伝わる名シーンです。
彼はここで一回目の選択をするわけです。「力」を使わない。普通の人間でいる、と。
ところが、この選択は彼に苦渋の結果をもたらします。
その結果の「彷徨」であり、「自分探し」であることがわかるという、非常に優れた構成だとおれは思います。

その彷徨の結果、不用意な行動により、結果としてクラークはゾッド将軍を地球に招き入れてしまいます。
そしてそれから、あの映画史に残るバトルシーンが始まるわけですが、よござんすか、みなさん。
あの凄まじいバトルシーン。重力による軛から解き放たれたクラークが、縦横に動き回るあのバトル。
あのビルをぶち壊すバトルで、クラークは選択をしていないんですよ。
彼はただ、ヒッチコック的なまきこまれヒーローとして、他に選択の余地なく、動いているだけです。
だから驚くなかれ、物語の九割、終盤のある決定的な選択に至るまで、
クラーク・ケントはヒーローではなかったとおれは思います。

そして終盤、ゾッド将軍との決着をつける、その時に、ぎりぎりまで追い詰められた彼がとったある選択。
これはね、それまでのど派手なアクションに比べればなんてことはない、「ある動き」ですよ。
でも、その地味な動き、その一つで、彼は地球を選択し、地球に住む人々を選択し。
逆を云えば、そうでないもう一方の選択肢を永久に葬り去ったんです。
この選択の重さは、まさにノーラン節全開。
そのあとで、クラークがみせるある感情の発露。
おれはそこにこそこの映画のもっとも重い重点が置かれていると思います。
彼はイノセントではなくなったんです。
選択をした。どんな選択か。

そのあとで、地球の軍人のところにやってくる。そこで彼の選択は自らの口から語られます。
そのとき、クラークは宙に浮いているのですね。
怯えさせないためだったら、警戒させないためだったら、地に足をつけて会話することもできた。
でも宙に浮いている。
彼は地球を選んだ。カンザス生まれの、地球人であることを選んだ。
だが重力に縛られない、自由に空を飛べる存在であることをもう隠す気もない
のです。

その決意を秘めた、同時に寂しそうな表情に、不覚にも涙してしまいました。
クラークは、選ばずにすめば、選ばないですませたかった人だったようにおれには思えます。
あのまま無精髭をはやして世界を彷徨っていることもできた。
でも彼は選択した。イノセントでなくなった。手を汚した。
それからの彼の活躍を、おれはいまから観たくて観たくて仕方ありません。

最後に、痙攣的なフラッシュバックは古き良き日の風景を見せます。
風に翻る洗濯物。赤いマントをまとって遊ぶ、幼いクラーク。
それを見守るケビン・コスナーのやさしい表情。
思えば、この映画はクラークの誕生を見守るジョー=エルの視点から始まりました。
彼を「見守る」視点にサンドイッチされて、物語は彼に注がれた愛の偉大さについて触れて終わります。
愛に飢えた者は愛を探す物語しか語れない。
充分な愛を与えられたものは、次に身中にたくわえた力を発揮するために、世界へと旅立ちます。
これはそういう物語なのですよ。




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