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生きながらフリッカーに葬られ

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思い出のマーニー ~湿地をわたって、木立を抜けて

  1. 2014/07/30(水) 23:57:28|
  2. 邦画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
marnieCP_postcard.jpg

この映画は、ジブリが初めてたどりついた正しいジュヴナイルです。
いや、むしろ児童文学といった方がよろしいか。
児童文学には頻繁に顔を出すのに、大人の小説にはめったに描かれない、ある一つのテーマがあります。
それは「居場所」の問題。心理的、社会的なよりどころのことを意味する居場所、ではありません。
もっと物理的な「わたしが手足を伸ばし、自由に占有できる空間」についての問題です。
ピアス「トムは真夜中の庭で」の主人公は、病気の療養のために親戚の家を訪れ、そのアパートの狭さ、味気なさに
苦しみます。マーヒー「危険な空間」では、同じく親戚の家にひきとられた一人の少女が、その家の居心地の悪さに
苦しみ、広々とした自分だけの空間を夢想します。そもそも児童文学の名作バーネット「秘密の花園」にしてからが、
心理的、社会的なよりどころのなさを、物理的な「居場所」を獲得することにより解消していく話でした。

大人になること、というのは物理的な「居場所」に対する繊細な問題意識を失っていくことでもあります。
狭いマイホームの中で追いやられたおとうさんが、夜中に台所の排煙ファンの下で煙草を吸うときに感じる切なさは、
そもそもその家族を、そして家を選択したのは自分自身である、という認識によって解消はされなくても納得できます。
だが、子供たちにとってはそうではない。家も、学校も、住んでいる街も、なにひとつ選択を許されてはいない。
「子供は、自分が含まれる状況について、まったく事前に知らされることなく家族に含まれる、唯一の構成員」とは
R・D・レインのことばです。ゆえに子供がまわりの環境に感じる違和感は先鋭化されます。

思い出のマーニーの主人公、佐々木杏奈もまた「居場所」の問題を抱えています。
わたしは映画やアニメの中に出てくる女の子の部屋の描写を見るのが大好きです。そこには作り手の少女とは何か、
という問題に対する解答が、無意識的に現れる気がするからです。
その杏奈の札幌の自宅の部屋の描写を見て、わたしは絶句してしまいました。
杏奈は絵を描くのが好きな少女として冒頭で描かれます。なのに壁には絵の一枚も掛かっていないし、本棚の蔵書も
圧倒的に少なくて、画集や写真集が並んでいるという描写もありません。
それはひとめ見ただけで忘れられなくなるような無残で無機質な味気ない部屋でした。
のちに語られることですが、彼女は母親と血で繋がっておらず、自分のいるべき場所がここだと確信を持てていません。
だからあの部屋は旅暮らしの人が泊まるホテルの部屋なのです。
広々とした自室を与えられているにも関わらず、彼女はその空間を仮住まいとしてしか規定していません。

その杏奈が釧路の親戚の家に療養のために訪れるところから、物語は動き始めるわけですが、この大岩家では
こんどは過剰なまでの色彩と豊穣さが描かれます。一見、「ああ、ジブリのいつもの綺麗な絵ね」で流してしまい
そうですが、これはもうはっきりと札幌の杏奈の部屋との対比です。

にも、かかわらず。
にもかかわらず、です。大岩家の家の色彩と豊穣さは、杏奈を救わないのですね。
釧路でも杏奈は自分の「居場所」を見つけることができません。
彼女を救うのは結局のところ、色の剥げた、一件の廃屋なのです。マーニーのいる家。
ふだんは水で隔てられた「彼岸」が、月の満ち引き――それは杏奈をはじめとするすべての女性のからだにも
影響を及ぼしています――によって歩いていける場所に変わる、という描写が素晴らしい。
そして欠けたもののある思春期の子供が、非日常との接触によって、それを満たしていく、という展開も、
また児童文学の王道の一つでもあります。

主人公、佐々木杏奈のたたずまいが、なによりも素晴らしいのですよ。
はちきれんばかりの矛盾をかかえた、思春期特有の子供の肉体の危なっかしさ、というのをわたしはいままでジブリの
作品で感じたことがありません。杏奈がベッドでうとうとしている。そんな描写ですら「かわいい、萌えー」ではなく「おいお
いお嬢ちゃん、無防備すぎるよ」と心配になってしまう。「リアルな少女」という命題と格闘し、宮崎監督が絞り出した作品
が「魔女の宅急便」でしかなかったことを思うと、米村監督おそるべし、です。

単なる「良い子」ではないし、斜にかまえて世をすねているわけでもない。
親戚のおばさんに笑顔を見せて、当の本人がいなくなるとふっと笑顔を凍らせる。
母親に出すはずのはがきの束を、おばさんの目がなくなると同時に無造作にベッドに放り投げる。
そんないたたまれなくなるような「思春期あるある」に杏奈の行動は満ちあふれています。

そしてそんな杏奈のアンバランスな佇まいは、物語の感情ラインにも独特の緊張感を与えます。
大人なら分厚い愛想笑いでスルーできるような場面でも、杏奈は薄皮一枚下の素顔をさらけ出してしまう。
お祭りでの信子との対峙は、その緊張感とリアリティで、本年度の映画の中でも名シーンの一つだと思います。
あのことばを出してしまう、子供ゆえの制限の効かなさ、残酷さ。そして受ける信子も、悠然としているようで
あとで「泣き崩れていた」と知らされます。そのリアリティ。いたたまれなくなるのはわたしたちもまた、何人もの
信子の手をいままで払いのけて生きてきたからです。そうやって傷つけて生きてきたからです。
そして傷つけた自分が嫌いで泣く。それは責任のない(だからつらいんだよ)子供にだけ許された涙です。

杏奈は自分でも自分の感情を制御できません。だから一方の極から極へ、感情がゆらめく。
クライマックスの、劇的な感情の反転を、唐突と受け取る方もいらっしゃるかもしれません。
わたしには制御不可能な情動を持つ少女として、ごく自然な流れだと思いましたが。凡百の映画なら
「ついていけないよ」となったかもしれませんが、冒頭からの「思春期あるある」描写がここで効いています。

そして危うい思春期の杏奈をつつむ、まわりの他者たちのなんと温かく――リアルに「他人」なことか。
端的に云って「わがまま」な杏奈を、大岩家の夫婦が叱る、という描写がひとつくらいあってもおかしくない。
わけのわからん思春期、というものに対峙したときそれが大人のとるべき正しい、そして楽な逃げ道です。
でも叱らない。かと云って避けもしない。ただ大人として、そばにいる。その描写も素晴らしかったですし。

あと、さやかですねぇ。マーニーとふたり、ふわふわとしたセカイに閉じていこうとする物語を、さやかはひとりで
地上に引き戻します。年頃からしたら「あら、わたしもそっちのセカイへ~」なんてなってもおかしくないのですが、
彼女の両足はしっかり大地に根付いています。それが説明セリフでなく、絵のちから、声優さんの演技によって
裏打ちされている。彼女は単なるワトソン役ではないんですよ。杏奈が地上に戻るためのパイプなんです。

アニメにおける少女というのは、フェティッシュな目線に満ちた、身体の動きの描写によって、リアリティを獲得して
きました。
少なくとも「けいおん!」はそれで説明がついたわけですが、本作でいうとマーニーとのきゃっきゃうふふシーン。
たとえばボートを漕ぐシーンやダンスを踊るシーンには、少なくともわたしは、まったくフェティッシュな嗜好を
感じることができませんでした。ありゃ、こりゃキマシ方面の方はがっかりかしら、と心配になったりしたのですが、
どうなのでしょう?

米村監督は少女の肉体性にはあまり感心がなく、さらに云うならドラマティックな作劇にもまったく興味がなく、
描きたいのはその感情だけだったりするのかなーと思ったりしたのですが。

ならばそれはやはり正しいジュブナイル、なのですよ。正しい児童文学、正しい児童映画。
宮崎駿なきいま、ジブリにはこのまま文芸路線を突き進んでいただくことを強く願います。
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