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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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物語る私たち

  1. 2014/10/28(火) 00:42:56|
  2. 洋画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

たとえばきみが少女だったとしよう。夏の夜の空気は水のようだ。きみは浴衣の袖をひるがえして、水草の森のネオンテトラみたいに鮮やかに人の群れをすり抜けていく。祭りの太鼓の響きに誘われて、神社の参道は人であふれかえっている。巾着に結びつけた鈴が、きみの足取りにあわせてはずんで響く。かくれんぼをする子供なら皆そうなるものだが、きみは背中にありもしない目線を感じて、首をすくめたくなる。うしろから伸びてきた手が、いまにもきみの襟をつかみあげるのではと気が気ではない。だがきみの名前を呼ぶお父さんの声は、喧噪のはるかむこうから聞こえてくる。きみは背の高い男の人の陰に隠れるようにして、微笑む。きみの頬を一筋の汗が流れる。きみの瞳は輝いている。
きみは夏休みを父方のお婆ちゃんの家で過ごした。田舎の子供たちは都会からきたきみを受け入れてくれなかった。せっかくの夏休みを退屈で塗りつぶされた、きみ。長女で、親のいいつけをよく守るいい子だったきみの、唯一の反抗が夏祭りで迷子になることだった。両親の愛情に、爪先までどっぷりと浸かったきみにとって、それは堅牢な籠のなかから崖の底を見下ろすような、安全で刺激的な遊びだった。じきに心配に顔をゆがめた両親が、きみに駆け寄ってきて大きな声をあげるだろう。きみはおざなりな謝罪のことばを口にする。そうしてお父さんの両手にがっちりと抱きしめられて、ポロシャツに染み込んだ、いがらっぽい臭いを深く吸い込むとき、きみは幸せを感じるだろう。
きみはタイトスカートが良く似合う二十四歳で、テーブルの上に男が置き残したライターを片手でもてあそびながら、幼い少女を見つめている。子供の計算高さを見せつけられるのは楽しいものではない。いつか成長した少女が自然に身につけるだろう媚びの、幼い萌芽はすでにほころんでいる。苛立ったきみはオイルライターの蓋をしきりに開け閉めする。レストランの向かいの席に座ったカップルの男の方が、きみを睨みつけているのにも気がつかない。
やがてトイレから男が帰ってくる。きみは無意識のうちに男の顔に答えを――より直截に云うなら救いを――求めようとするが、男はどんな表情も浮かべてはいない。
遅くなっちまったな、と男は言う。でもまだ間に合うだろう、急ごうか。どこへ行くの? 映画だよ。映画? 問いただすきみの声は尖っている。失望が、足の爪先を冷たくする。わたしが話したことの意味を、この人はわかっているのだろうか。だがそんなことは口に出せない。グラスに残ったフルーツ・ブランデーとともに言葉を飲みこみ、代わりに違うことを云う。歯ブラシを買わなきゃ。男は物問いたげにきみを見つめてくる。あなたの歯ブラシ、古くなったから、今は靴から泥を落とすのに使っているの。男は口の中に靴墨を放り込まれたような、不快そうな顔をする。泊まらないよ、今夜は。明日も仕事だ。男の口調に侮蔑の響きがある。そんなにがっつくほど、若かないぜ。おまえは違うのか?
男のことばはきみの胸を突き刺すけれど、きみはとっさに言い返すことができない。まごまごしているうちに男はレシートをつかんで荒っぽくレジへと歩いていく。きみは迷子の子供のような不安とともに、ふらつきながら席を立つ。
きみはもちろん十四歳の女の子で、レストランを出たあと、すがりつくように男に腕を絡ませる女の姿を見つめて眉をひそめる。無様だと思う。覚悟のない生き方を送れば惨めな人生しか待っていない。
きみは中学校の制服に身を包んだまま、実家の庭に素足で立って、枝の枯れた百日紅の木を見つめている。片手には三日前に役所でもらった戸籍謄本の写しを握りしめている。きみの名前には「養子」の二文字が書き添えられている。昨日の夜、両親はきみの目の前で土下座しながら泣き崩れた。きみは、会った事もない母の姉の娘だと知らされる。すべてが嘘だったのだときみは思う。両親の愛情も、幸せな家庭もすべて。きみは残りの生涯を墓場へ向かう老いた象のように孤独に過ごそうと決意する。孤高に、気高く生きよう。誰かに人生の舵を預けたりすることがないように。
他人にはなにも望まず。期待を小さく。簡単なことだ。
だけどやがて聞こえてくる艶やいだ声が、少女の夢想を破る。十九歳のきみは高校時代からつきあってきた彼氏と別れた三日後に、バイト先のケータリングショップを経営している妻子持ちの男と一緒に腰を振っている。一人暮らしを始めたきみの南向きの部屋は茹だるほど暑く、痙攣したように右足を突き出した拍子に、扇風機も明後日の方を向いてしまった。きみは全身から汗を流しながら、微笑んで男の首にしがみつく。ねぇ、好きだって言って。ずっと、死ぬまで好きだって言って。男は頷いただけで、腰の動きを止めず、やがて短い呻き声と共にきみの中で果てる。歓びがきみの身体を満たす。
そして。
きみはやっと映画館にたどりつく。
二十四歳のきみは、すっかり口をつぐんでしまった男の大きな身体に萎縮しながら、まるで気乗りしないままに映画館のポスターを眺める。
サラ.ポーリー監督。物語る私たち。それがきみがいまから観る映画のタイトルだ。

それはドキュメンタリー映画だった。監督であり、女優でもあるサラ・ポーリーの母は、彼女と同じく女優だった。父、兄弟、姉妹、両親の友人……登場する人物たちから語られるサラの母は、奔放で恋多き女だ。だが映画は、そんな彼女の欲望のままにふるまう人生を責めはしない。むしろ、懐かしむような温かい空気がスクリーンから漂ってくる。その理由は中盤でわかる。サラの母はサラが十一歳のときに病気で亡くなってしまったのだ。
そこから物語は急転し、サラの出生の秘密に迫る。サラの数多い兄弟姉妹の中で、サラだけが父親に似ていない。サラは果たして、父親の実の娘なのか。もしそうでないとしたら、いったい彼女の父親は誰なのか……。

きみは身じろぎすることも忘れて、食い入るように画面を見つめている。叫び出したいような居心地の悪さと、映画という娯楽のジャンルを越えた共感を、同時に感じながら。
目を見開いたままスクリーンを見つめるきみは、やがてエンドロールに辿りつく。
耐えられなくなり、きみは座席から立ち上がる。男が呼んだような気がしたが、振りかえる余裕もない。きみはふらつきながらトイレに駆け込むが、個室にすべりこむ前に吐き気が波のように押し寄せてきて、きみは胃の中身を洗面台にぶちまける。
刺すような鼻の痛みとともに、涙がこみあげてくる。出すものがなくなっても吐き気はとまらず、きみはこれがはじめての悪阻だろうかという考えに恐怖する。こめかみがずきずきと痛む。きみはあまりの苦痛に短い泣き声をあげる。
トイレの個室のドアがひらいて、浴衣を着た幼い少女が泣きながら姿をあらわす。幼いきみは祭りの雑踏の中で、完全に両親とはぐれてしまった。もはや愛情とはきみのてのひらで転がしておける愉快な玩具ではない。それは冷たい横顔を見せて去ってしまった。ひょっとしたら両親はきみを探しにこないかもしれない。喪失の恐怖に、幼いきみは泣きじゃくるしか術がない。
べつの個室のドアが開いて、大きな荷物を持った十八歳のきみが姿をあらわす。ハーフコートを着たきみは、半身をひねって背後の方に、聞くに堪えない罵声を浴びせる。きみの母親が――正確に云うならきみの母親の妹が――その奥から、必死できみを諫めようとする。うるせぇ、ババァ、もう帰ってこねぇよ! きみは叫んで、個室のドアを閉める。
閉じたドアのむこうから、きみの母親が、聞いたこともないような冷めた声で……きみの人生を決定づけるようなことばを投げる。良く似ているわ。あなたの母親も、淫売だったのよ。
べつの個室のドアがひらく。
そこにいるのはベッドに横たわり、頭に包帯を巻いて、身体に無数のチューブを突き刺したひとりの老婆だ。きみはもはや苦痛も感じない老いたまなざしで、若いきみたちの醜態をなんの感情も込めない瞳でただ見つめている。
もうやめて、ときみは思う。
まるで過去から未来へとよどみなく進むきみの人生にほつれが生じたようだ。きみの人生はバラバラになり、現在は昨日と明日の高波がぶつかる大時化の海へと姿を変えた。
過去は死んだ番犬だ。おとなしく身じろぎひとつせず、死者の国を守っていればいい。それが現在を脅かすようなことがあってはいけない。それなのに――。
たった一本の映画が、きみの足元を危うくした。
そう、きみはまた過ちを犯した。
ひとは長期記憶貯蔵庫(LTS)にたくわえられた、エピソード記憶と意味記憶のつらなりに寄って自分の過去を意味づける。それを自伝的記憶と云う。
自伝的記憶は時系列順(シーケンシャル)に記された、いわば一本の映画だ。人は自伝的記憶の性質によって自らの人生を規定する。
敗北と屈辱だけにいろどられた、悲劇的な映画もあるだろう。
歌いながら花園を歩く、ミュージカル映画だってあるだろう。
積み重ねた敗北をたった一回の15ラウンドでひっくり返してみせる、「負け犬たちのワンスアゲイン」映画の上映中だと、信じている人だっているだろう。
それでも、いちどの人生に、たった一本の映画だけしか上映されない、自伝的記憶の息苦しさに、みんな辟易しているのだ。
だからこそ人は映画館にむかう。そこで与えられるのは垣間見られる「他の人生」という幻想、明滅(フリッカー)だ。
たった一本の映画という人生の重みに耐えかねたわたしたちは、無数のフリッカーに生きたまま葬られ、幻惑されながら死へとむかっていく。
きみの過ちはサラ・ポーリーが撮った一本の映画に、いつものように絶対に安全な場所にきみを置いたまま、他の人生という明滅を見せてくれる娯楽を期待したことだ。
それはドキュメンタリーという仮面をかぶったまま、最後には現実とフィクションの境目すら危うくさせる、毒を持っていた。
まるでオセロの駒をひっくり返すように、映画に仕掛けられたたったひとつのフェイクで、長いあいだ他人の人生という明滅に浸っていたわたしたちの喉元に刃をつきつけた。
これは現実である。
これは現実ではない。
これは物語である。
きみの人生に敷きつめられたフリッカーが、サラ・ポーリーが置いた一枚の駒のおかげでひっくり返っていく。
きみの人生は現実なのか。
いや。
「きみ」などという女は存在しない。それはわたしがこのブログのために即興で書き上げた、でたらめな架空の存在にすぎない。「きみ」の生命はこのエントリーの中でしかその存続を保証されない。
実際にこのブログを読んでいる「あなた」が男なのか女なのか、どんな存在なのかわたしは知らない。知らないが、もし(酔狂にも)ここまでこのエントリーを読んでくださり、いくばくかの興味を持ってくださったというなら、それはわたしの手柄ではない。それこそが「物語」の毒なのだ。
人は物語に共感する。肯定するとは限らない。否定して反撥を覚えながら、そこから学ぶとしたら、あなたは物語からなにかを得たことになる。
この機能は、プログラムピクチャーではおおむね「彼岸」で働く。あなたは絶対的に安全な場所にいて、映画はあなたを傷つけない。あなたはいくばくかのお金を払う。そこにはある共犯関係が結ばれている。
サラ・ポーリーは映画と観客の共犯関係を逆手に取り、観客の地盤を危うくするような映画を撮った。わたしが本当に恐ろしく思うのは、それが彼女の人生そのものをベットした賭けだったこと。そしてこの映画を撮ったその年に、サラ・ポーリーが娘を産んでいることだ。いったいどこまでがサラ・ポーリーの実人生で、どこから先が仕事なのか。考えれば考えるほど恐ろしくなる。

これは「物語ること」についての映画でもある。
物語の主要登場人物二人が、真実を知って、まずなによりも自分の経験を「物語」として本にしようとしたのは本当に象徴的だ。そこには計算よりも本能的な保護機能のはたらきを感じる。ある種の人々は、傷ついたときに、物語ることによって人生の舵を取り直そうとするのかもしれない。ちょうどこのエントリーがそのようなものだ。
この映画の中で、遺伝子について語られるのは、一種のフェイクだ。
この映画は情報子(ミーム)についての映画だと思う。自分の死の先に届かせようと、思いっきり前に伸ばした腕。それこそが物語なのかもしれない。

そうして、きみは目を覚ます。
泣き疲れて眠ってしまったきみは、気がつくとお父さんの背中に背負われて揺られている。
汗で湿ったお父さんの背中が、ひどく温かい。
お父さんは、隣に立ったお母さんとなにか話をしていて、きみが起きたことには気がつかない。
きみは意味のないことを口の中でふたつ、みっつつぶやくと、お父さんの背中にしがみつく。お父さんはきみが寝ぼけていると思ったのか、振り返らない。
階段の灯籠の明かりが、きみが揺られるたびに上下に揺れる。
それがいくつも、いくつも連なって、ゆっくりときみは階段を下りていく。
このままずっと、灯籠のおぼろげな明かりに導かれて、永遠に地の底まで下っていくのかもしれない。ふときみは、そんなことを思う。
きみは知らない。お父さんの背中に揺られながらみた灯籠の明かりのことを、何歳になっても覚えていることを。
きみを抱いた幾人もの男に、きみはそのことについて話さない。
きみは六十四歳のときに痰を喉につまらせて死ぬことになるが、そのときまでこの日の記憶が消えずに残っていることを知らない。
まばたきするごとに、目の前に現れて、消えていく、明滅。そのうちのどれが永遠に過ぎ去り、どれがわたしたちの中に残るのか、わたしたちは知らない。
きみはお父さんの背中に頬をこすりつけて、しあわせなあくびをする。
消えない灯りがまたたいている。
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