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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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フューリー ~戦争というお仕事

  1. 2014/12/09(火) 01:30:32|
  2. 洋画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
DF-11183_s.jpg

中学校のクラスメイトに、タカハシくんという男の子がいた。
喘息もちで、いつも吸入薬のケースを手放さず、女の子みたいに細い肩をしていた。田舎の中学校らしく臑毛だらけの
ジョックスが幅をきかせる弱肉強食の世界で、彼は目立たない生徒だった。勉強でも、もちろん運動でも、秀でたところは
なかったと思う。

彼が痩身に似合わない偉大な情熱の持ち主であることを知るのは、中学二年の秋のことだ。
タカハシくんは突然、「大脱走」にズッ嵌りした。いま思い返してもその嵌りっぷりは常軌を逸していた。
うちの中学校は野球に力を入れていて、グラウンドは高いフェンスに囲まれていた。
体育の授業の最中、彼は突然そのフェンスに奔り出し、よじ登り出す。体育教師が怒鳴り声を挙げると、彼は片手で
フェンスにつかまったまま絶命した。少なくとも、そのフリをした。もちろん「大脱走」の中で命を落とす哀れなアイルランド人、アイブスのものまねだ。この辺はまだボンクラ中学生エピソードとしてかわいいものだが、クラスの男子全員分の
偽造パスポートを彼が作ってきたときには目を疑った。画用紙を切ってつくった偽造パスポートには、いまでは懐かしい
英語の筆記体でわたしの本名(偽名に変換されていたように思う)と似顔絵と偽の経歴が記されていた。
わたしは海外渡航の経験がないので、あれが生涯で唯一のパスポートということになる。無くしてしまって惜しいことをした。

特筆すべきは、いつもタカハシくんやわたしのことを小馬鹿にしていた筋肉ダルマたちも、タカハシくんの熱狂にあてられ
てしまったことだ。べつに彼らと親友になったりはしなかったが、年末の大掃除の時に校外脱出のためのトンネル作成
プランを、ああだこうだとみんなで激論した記憶はある。大脱走を録画したタカハシくんのVHSテープは、クラスの男子の
あいだを回って、最後にはボロボロになっていた。

≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒

あのとき、なんだって我々は自分が生まれる前に撮られた古い戦争映画に熱狂したんだろうか?
八〇年代初頭、マンガでも、ドラマでも、他に熱狂の種になるようなものはそこかしこに転がっていたのに。
歳をとってしまってからの総括でしかないけれど、あのとき我々を突き動かしていたのは、「実質」への渇望だったように
思う。いつの時代だってそうだろうけれど、子供時代というのは世の中の「実質」とは隔離(保護とも云う)されている。
なんの役に立つのかわからない勉強、なんのために通っているのかわからない学校、そんな世界の中で、真剣な顔で
なにやら世界とガチで切り結んでいる大人たちの背中だけが見えるもどかしさ。親が自営業だってんなら別だが、我々
には当時、大人がなにをやって生活しているのか、まるでわからなかったし、そのことに漠然とした恐怖を感じていた。

その中で、「大脱走」だけが、大人たちが日々勤しんでいるはずの「仕事」について、手がかりを与えてくれた。
あの映画は詳細に、大人たちが目標へと達するまでの日々の作業を描いている。トンネルを掘ったり、兵舎から物資を
くすねたり、畑に土を捨てたり。彼らはふざけてはいない。真剣だ。だからわたしたちはそこにリアルな「大人の仕事」の
匂いを、正面切って世界と切り結ぶ、「大人の生活」の匂いを嗅ぎつけたのだ。

そうして、まぁ、大人になってみると、自分が日々勤しんでいる「仕事」は、中学生が「大脱走」の世界から夢想したものと
ずいぶん違っていたなぁと苦い笑いが込み上げてくる……と書きたいところだが。

映画の中に描かれた「仕事」、その本質がいちばん高度に象徴化された作品を拾い上げてみると、やはり戦争映画に
行きつくような気がするのだ。
たとえば、まぁ、なんでもいいんだけれど、ヤクルトのおばちゃんが自転車のカゴにジョアをつめたり、TSUTAYAの店員が
新作DVDのパッケージをシュリンク包装したり、新聞配達員が新聞紙にチラシを挟んだり、ビル管理員が分電盤で分離器
の二次側にテスターを当てて無電圧を確認してから絶縁測定を行ったり。
そういった行為を詳細に描いて、「ああ、そうだ、働くとはこういうことだなぁ」と実感できる映画がぱっと思い浮かばない。
仕事を描いた映画のシーン、というと真っ先に思い浮かぶのが
「蛇の道」で哀川翔が無表情に書類にハンコを推しているシーンだったりする
のは自分でもどうかと思うけれど。

その当たり、映画というのは本当におかしなもんで、戦争なんて、たずさわる者、それ自体の破壊を目的とした究極に
無意味な作業なはずなのだけれど、その場面を活写したものに、人が使命感を持ってなにかに携わること、仕事、という
ものが見事に浮かび上がったりする。

コンプライアンスなんか馬に食わせろ。人間、仕事に熱中しちゃうと自分の道義的立場なんてどうでもよくなっちまう
んだよ、ということを描いたのが『戦場にかける橋』。いやぁ、それでもやっぱりマニフェストといっしょに産業廃棄物と
良心の呵責を業者に押しつけちまうのはどうなのよ。いくら商売って云っても越えちゃ行けない一線があるでしょ、
ってのを描いたのが『カジュアリティーズ』。就活に失敗して人生の敗残者扱いされたけど、中小企業で肉弾営業
頑張りまッス!な『特攻大作戦』、うちの会社ブラックで上司もクソだけど金(Cross of Iron)のために働いてるんじゃ
ねぇ、自分のプライドのために働いてるんだ、な『戦争のはらわた』、うちの会社ブラックで上司もクソだわ。接待
マージャンの席を利用して上司の上司に取り入ってみたけどやっぱり無理だわ、な『攻撃』。


『攻撃』や『戦争のはらわた』や、それに『ブラックホーク・ダウン』では、敵の存在は可能な限り希薄になっているけれど、
そうなると「なんのためにこんな仕事やってんだろ」という空虚感がさらに顕著になる。昨今の就業状況の悪化で、蟹工船
な暮らしに喘いでいる向きにはこの三本はお薦めだ。

さて、それではデビッド・エアー監督作、『フューリー』はどうだろうか。
1945年4月、欧州戦線。ドイツに侵攻中の米兵、ウォーダディ軍曹は、「フューリー」と名づけたM4中戦車を率いていた。
冒頭で戦死(かなりきついゴア描写あり)した砲手の代わりに、新兵ノーマンが配属されるが、元々タイピストだった彼は、
荒々しい戦車兵たちに馴染めない。そんな中、「フューリー」に乗る五人の男たちに、決死の任務が命じられる……。

この設定で目を引くのはやはり「1945年4月」という極端な時間設定だ。あと一ヶ月で戦争は終わってしまうのだ。
頭を低くして「終戦」までやり過ごすような暮らしをしている身としては、セーフラインのぎりぎり外で生死を賭ける男たちの
生き様に暗澹たる気持ちになる。

やたらと明確な時制とは逆に、舞台は抽象化されている。フューリーの最終ミッションの場所がどこで、どの作戦の
一端を担っているのか、よくわからない。ウォーダディーたちの決死の覚悟とはうらはらに、そのミッションの目的も
なんだかあやふやだ(というかほとんど特攻に近いような無茶ぶりの任務だと思う)。

任務の目標があいまいなのは、これは史実の再現を企図した映画ではないからだ。『戦争のはらわた』や『高地戦』の
ように、巧みに抽象化された舞台をもとに、男たちの苦難と生き様を浮き彫りにするのが目的だと思う。
そう云えばデビッド・エアーは『エンド・オブ・ウォッチ』でも『トレーニング・デイ』でも、極端に危険な仕事に携わる人々を
描き、その生き様を浮かび上がらせる名手だった。

いつまで観ていても戦争の大局はさっぱりイメージできず、その代わり「フューリー」に乗り込む五人の男たちの輪郭は
くっきりと伝わってくる。それがまた、誰も彼も記号的イメージに収まらず、複雑な面を垣間見せる。野卑なクーンアスは、
新兵いじめの仇役かと思いきや、思いもかけぬ素直で純粋な心情を吐露する。ゴルドやバイブルも、最初はノーマン
につらく当たるのだが、ノーマンの成長と共に彼を認め、一員として受け入れる。
その様が、セリフだけでなく、土壇場まで切羽つまった戦闘の最中の動作で描かれる。
そう、動作。

ウォーダディーが命令し、操縦手のゴルドが戦車を縦横に操り、ノーマンが機銃を撃ちまくり、クーンアスが弾を込め、
バイブルが主砲を撃つ。
その過程は劇中で何度も繰り返され、ストーリーが進行し、五人が深みに嵌っていくごとに、その動作の流れには生理的
快感を覚えるようになる。最初は銃を撃つことすらためらっていたノーマンが、糞ったれナチどもをなぎ倒していくうちに、
彼らは互いを補完し、高め、互いに欠くべからざる存在になっていく。
ああ、「仕事」ってこんな感じじゃなかったっけ。
最初は馴染めず、意味もわからず身体をこわばらせながら行っていた作業が、違和感なくこなせるようになる。
自分だけに凝り固まっていた意識が、すぐ隣で働いている同僚の動作までを自身の範疇として含むようになり、
ことばに出さなくても互いを補うように動けるようになる。

「フューリー」はイニシェーションの映画だけれども、ノーマンが初めて人を殺したことによって通過儀礼を終えた、という
描写ではなく、人殺しの「仕事」を、自分のものとしてこなしていく過程をアクションとして描いているところが新鮮だった。
ただその過程を、手元を写して細かく描写するのではなく、顔のアップで済ませてしまうのは大きな不満を感じたけれど。

ノーマンが、人殺しという「仕事」の一部を機械的にこなせるようになったとき、マシンという名が与えられるのは象徴的だ。
彼は役立たずで未熟な「坊や」から「仕事」の部品となったのだ。彼に新しい名が与えられた直後、まるで当たり前のように
ノーマンを「マシン」とさらりと呼ぶウォーダディーに涙がこぼれた。それは政治的に正しくない描写かもしれないけれど、
少なくとも社会未熟適応者だった自分が、「仕事」の中で自分の居場所を見つけてきた過程と、確かに重なって見えた。

≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒

タカハシくんとは、卒業後に、いちどだけ故郷の街で会ったことがある。
懐かしさに駆け寄ったのはわたしの方だった。彼の迷惑そうな顔に気づかず、そうそう、タカハシくんの美人のお母さん
は元気?と訊ねたわたしに、タカハシくんはぶっきらぼうに死んだよ、と答えた。病気だったそうだ。
酒乱だった父親から母親と一緒に逃げ出して、彼はその街で二人で暮らしていたのだと云った。
母親が亡くなったから、もうすぐ父親が住む横浜に引っ越すのだと。
そのあと会話がはずむこともなく、わたしたちは別れた。タカハシくんとはそれきり会うことがなかった。
彼が『大脱走』にどんな理想の大人像をたくしていたのか、わたしは知らない。想像してみることしかできない。
会うことはもうないだろうけれど、どこかの街でタカハシくんがふとむかしのことを思い出し、劇場に「フューリー」を
観に足を運ぶようなことがあったら、彼に映画の感想を聞いてみたい気がする。



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