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高地戦  戦争という寓話

  1. 2013/05/06(月) 23:10:34|
  2. 洋画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
c48d4537.jpg

昨年からずっと観たかった、朝鮮戦争を舞台にした戦争映画です。
曰く、「プライベート・ライアン以降の戦争映画の最新型」ということでわくわくしながらレンタル解禁日を
待ち望んでおりました(劇場上映は見逃してしまったので……)。

わたしは、それほどまでに戦争映画に詳しいわけではありません。
というわけで、今回はライムスター宇多丸のシネマハスラー2012年11月17日の回
をアウトラインとして参考にさせていただきたいと思います。

1953年。朝鮮戦争はすでに泥沼の様相を呈していた。
幾度かに及ぶ停戦決議はまたも物別れに終わり、戦いはいつ終わるとも知れない。
そんなとき、韓国諜報部のカン中尉は、激戦地のエロック高地に北との内通者がいるとの情報を入手する。
内通者をあぶり出すため、現地に赴くカン中尉だったが、彼を待ち受けていたのは、想像を絶する
地獄の戦場だった……。


ちょっと、この映画の撮影は戦争映画史に残るんじゃないでしょうか。
タイトル通りに高低差のある場所を舞台にして戦争するんですけれど、仰角85度くらいの、絶対にカメラが
立てないだろう場所から、急斜面の撮影をしていたりするんです。平地じゃないってだけで、息苦しさ数倍。
死体を踏んで斜面を上がり、死体となって斜面を転がり落ちる描写は
凄まじいの一言。
リアルを極めた戦争描写のちょっとしたところから、過去の戦争映画のエッセンスが顔を出します。
チュイン!という鋭い銃声、そして飛び散る手足の描写は、当然プライベート・ライアンを思い出させます。
クライマックス後のにがーいにがーい笑いには、ペキンパーの『戦争のはらわた』を思い出しました。
宇多丸師匠情報によると塹壕から飛び出した兵隊を横移動するカメラが追っていくシーンは、
キューブリックの「突撃」からの引用だそうです。
totugeki.jpg
観てみたんですが、モロでした。

あわててつけ加えると、パクリって指摘して悦に入りたいわけじゃぜんぜんないんです。
むしろこれは、正しいリスペクトなんじゃないでしょうか。この映画を観て、制作者がふざけてパクった絵を
つなぎあわせて作ったなんて思う人は一人もいないじゃないでしょうか。一見してわかる、とても誠実な
映画です。一言で云うと真面目なんですけれど、この世になにが息苦しいって、真面目な戦争映画ほど
息苦しいものはありません。でも、大丈夫。

この映画は、シリアスとエンターテインメント(そう、娯楽)のバランスが究極に良い。
なにより輻輳する謎の数々が、ミステリとしてこの物語を引っ張っていってくれます。原作は「JSA」の方
らしいですが、要は「藪の中」で謎がひとつだったJSAに比べると、いくつもの謎を小出しにして客を
飽きさせないその脚本は見事、のひとことです。

こう書くと、物凄いリアリスティックな、史実に忠実な映画だと思うでしょ?
違うんだな、これが。

なによりやられたなと思ったのは舞台であるエロック高地の設定ですよ。
英字で書くとAero Kとなるのですが、これを逆さまに読むとKOREAになる、という。
(この情報は宇多丸師匠からの丸引きです)
これ、つまり大きな看板を掲げてるんです。これは寓話ですよ。高度に抽象化されたお話ですよ、と。
実話ではなく、コリアというひとつの地域全体を扱ったたとえ話なわけです。
それをね、寓話だからって本当にぼんやり書いてしまったらつまらない。
この映画は、大きな枠として寓話という抽象化を選びつつ、戦争の細部の描写については、ちょっと
これ以上ないくらいの微細な残酷さ、身も蓋もなさをあらわにして描いているんです。


物語の大枠は抽象的な寓話、ただし物語の細部は触れれば手が切れるくらいの尖りまくったリアリティで描く。
こう書いて、おれがなにを思い浮かべるかって、溝口健二の『雨月物語』なんですけれど。
ugetu3.jpg

大溝口と比べちゃうのはやり過ぎじゃないかと思われるかもしれませんが、おれは両者はかなり近いと思う。
寓話っていうのは、細部で手を抜けば、あっという間に観客の緊張感を失います。
あっ、これは嘘のお話なんだと思ってしまえば、登場人物がどうなろうとどうでもよくなってしまう。
溝口の「雨月物語」や「山椒大夫」は、日本人なら誰でもわかるくらい、はっきりとした御伽噺(正確には説経節)
をベースにしつつ、細部の鬼気迫る描写で、喉をしめられるような迫真感を感じてしまう。
それはわたしにとって、ひとつのフィクションの理想型なんです。(わたしのオールタイムベストは山椒大夫です)

昨年、「桐島、部活辞めるってよ」が話題になったときに、宇多丸さんや町山さんがこんなことをおっしゃって
いましたね。学校というのはひとつの象徴に過ぎない。あの映画で描かれているのは学校ではなく世界だと。
そしてあの映画の中では、極めて具体性を失った、抽象的空間の中で、この上なくリアルな描写がされていました。

高地戦も同じだと思うんですよ。
ここに描かれているのは抽象化されているKOREAだけれど、それを日本や、世界に敷延したっていいわけです。
ここに描かれているのは、ゴールデンウィークが終わり、あなたが明日から通う会社
のことだと思ってもぜんぜんOKだと思います。

寓話というものは普遍性のあるものだから、だから時代を超えて残るのです。
「高地戦」は時代の荒波にもまれても、消えないで残っていくと思います。でもそんな未来まで待たなくて良い。
いまいる場所に不条理を感じている人ならば、きっとこの物語に共感できると思います。
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