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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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マップ・トゥ・ザ・スターズ

  1. 2015/01/22(木) 01:02:15|
  2. 洋画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
350457_001.jpg

ハリウッドには怪談話があふれている。
あの有名な蝋人形館には子供の幽霊が出るらしいし、ハリウッド・パシフィック・シアターにはワーナー・ブラザースの
ひとり、サム・ワーナーの霊が出没するという。パラマウントスタジオは墓地の跡地に建っていて、スタッフは幽霊に
悩まされているなんて、まことしやかな話まである。

ずっと気になっているのは、ハリウッド・ルーズベルト・ホテルに出没する、マリリン・モンローの幽霊の話だ。
このホテルは第一回アカデミー賞の授賞式会場でもあり、例年ラジー賞が授賞式を行うという由緒正しき(?)建造物
なのだが、そこにマリリン・モンローの霊が出るという。
モンローとホテルの由縁については不明だが、彼女の霊は昼夜を問わず、廊下を歩いていたり、鏡の前に立っていたり、
水着姿でプールサイドにいるところを目撃されている。
おかしな話だと思いませんか。なぜよりによって幽霊が水着姿で?
アメリカでも幽霊は水辺の近くを好むのかもしれない。でもそんなリラックスした姿をなぜ見せるのか。
どこかユーモラスなその情景に、恐怖は感じない。代わりに立ち上ってくるのはひとつの疑問だ。
ひょっとしてマリリン・モンローは自分が死んだことを知らないんじゃないのか。

デビッド・クローネンバーグの新作、「マップ・トゥ・ザ・スターズ」を観た。
セラピストの父(ジョン・キューザック)、ステージママの母(オリヴィア・ウィリアムズ)、そして人気子役のベンジー
(エヴァン・バード)。ワイス家は人もうらやむハリウッドセレブだ。そこへ少女アガサ(ミア・ワシコウスカ)がネットで
知り合った脚本家を訪ねて、ハリウッドにやってくる。とあるきっかけから、有名女優ハバナ(ジュリアン・ムーア)
がアガサを秘書として雇ったことから、物語は不穏な方向へと舵を切っていく……。

あらすじだけを追っていくなら、これは「ハリウッドの裏幕もの」だ。盛りを過ぎた女優のサンセット大通り的な執念
あり、麻薬に溺れる天才子役の退廃あり。ライバル俳優同士が火花を散らし、食っていくために運転手を兼業する
脚本家(ロバート・パティンソン)はひそかな野望を抱く。

ところが画面から伝わってくるのは、生身の人間のドロドロとした欲望などではなく、どこか遠い過去の物語を見て
いるような――それこそエンドロールが示唆するような遠い星の世界の出来事のような――絶妙な隔絶感なのだ。
冷たく、湿度がない。
産毛も抜けない子役たちが、すれきった露悪的な会話をかわす。
そこに興味を惹かれこそすれ、生々しさや嫌悪感は感じない。
星座の物語――暴力、姦通、近親相姦、etc――に眉をひそめたりはしないように。

影を失ったようなあいまいな彼らと対照的に描かれる、ある存在がある。
幽霊だ。
ふっとカメラがパンしたところにいる、この世ならざるもの。
子役のベンジーは、こころない慰めを与えたまま死別したファンの少女の霊に悩まされ、ハバナは亡き母の霊に
脅かされる。
この霊が、おどろおどろしい演出などなく、生きた人間とフラットに描かれる。それは黒沢清の映画に出てくるような
“触れる幽霊”で、神秘的なヴェールで遮られてなどいない。寝室に、撮影スタジオに、プールサイドに(前出のマリリン・
モンローの霊からインスパイヤされたとまでは云わないが、気になる類似だ)、日常の風景の中に呵責なく干渉してくる。
そして霊を見た者たちは、ホラー映画のように大仰な驚き方をするのではなく、こころの傷にふいに触れられたときの
ような“痛いところを突かれた”顔をする。それは生きている厄介な隣人に対する態度のようで、観ていると、だんだん
生者と死者の境界があいまいになってくる。

そしてようやく、映画の最初から感じていた、ぶあついビニールを隔てたような、遠い感じの意味するものがわかってくる。
この映画では生者と死者が逆転している。生きたものは死んでいて、死んだものは生きている。

ハリウッドという幻想と現実の境界で、いったいどれほどの架空の死が描かれてきたか。
そこで架空の人生を身にまとい生きる人たちは、もはや本当の死というものがわからないし、生きている感覚もない。
だからこそベンジーはファンの少女のリアルな死に触れて、はじめて揺らぎ、「安定した虚構」という足場を失う。
ハバナは、映画の中で描かれてこそいないが、女優人生の中で架空の死をいくつも経てきただろう。
だが、自らの苦痛の源泉であり、最大の憎悪の対象であったはずの母の人生を演じようとしたとき、みずから進んで
「安定した虚構」という足場を捨て去る。セラピストにかかってまで母から与えられた苦痛を癒そうとしながら、その母を
映画の中で演じようとする彼女は矛盾そのものだ。その滑稽な矛盾が彼女を押しつぶしていく。
日々の糧と名声を虚構から得ようとする彼らが、影を失ったような存在にならないはずがない。

そして対照的に描かれる死者の存在感は、ハリウッドという場所が、虚構の死をつみあげる死の殿堂であることを
喝破してみせる。生がもっとも死に近くなり、死がもっとも生に近づく、黄泉比良坂。それがハリウッドではないだろうか。

ミア・ワシコウスカが存在感のある演技で息を吹き込んだ、アガサという少女は、ハリウッドに、そしてワイス家に溢れる
瘴気を祓いにきた巫女なのだろう。だからこの映画の終わりが、彼女の唱える(あからさまに呪術的な)祝詞で終わるの
は必然といえる。ハリウッドに棲まう悪霊の調伏は、果たして成功したのか。

それは、この物語でじつに中途半端に捨て置かれる、ロバート・パティンソンに託されているのではないかと思うのだ。
彼の物語の顛末が不明なのは、彼がまだ生者/死者と死者/生者の決定的な境を超えていないからだ。
彼はまだ真の「生きた」人間として自分の人生をまっとうすることができる。しかし野望を捨てきれぬならば、ハバナが
落ちて行った奈落へと落ちて行くしかない。

この物語はまだ完結していないが、きっとつづきは星の世界で語られるのだろう。
そしてわたしたちが、その世界に足を踏み入れることはついぞ無いのだ。
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