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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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Viva Fear! ~ ゴーン・ガール雑感

  1. 2015/01/27(火) 00:17:32|
  2. 洋画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
ありし日、アメリカ公民権運動の父マーティン・ルーサー・キングが、とある女性記者にこう訊ねられた。

「人種差別と同じくらい、女性差別も重要な問題だと思いませんか?」

これに対するキングの答えがふるっている。

「どこにそんな差別があるというのか、よくわからない」

黒人の地位向上のために奔走したキング師は、間違いなく偉大な人物であっただろうし、同胞の苦難を見捨てて
おけないだけの共感力と鋭敏さを持っていた人だったはずだ。だが、肌の色で差別を受けることの屈辱を熟知して
いたはずの彼をもってしても、すぐとなりにいたはずの女性の苦渋には気づけなかった。
キング師は家庭外での浮気も多く、それを見とがめた知人にこんな言い訳を放っている。

「月に25日から27日も家をあけているからだ。ファッキングは不安を和らげる一つの方法だ」
(上坂昇著『キング牧師とマルコムX』)


ここに見られるのは典型的な「鈍さ」の問題だ。
「外」で名の知られた仕事を成し遂げた男たちが、「内」に帰ると秘められた鈍感さを剥き出しにして弱者に
マウントをとる、というのは井上ひさしのDVから岡田斗司夫の愛人リストまで一貫して共通する構図だ。
「外」では、高い知性と豊かな感受性をもって知られる彼らの、あまりにお粗末な「内」での粗相に人々は驚く。
そして女性たちは嘆くのだ。男はどうしてこんなに鈍いんだろう?

そりゃ決まっている。弱者の都合なんて見て見ぬ振りをしていた方が、強者にとっては楽で都合がいいからだ。
特権的立場にいるうしろめたさを感じるのは嫌なものだし、真実にむきあうには労力がいる。
それよりも無言の圧力と意図的な鈍さで、弱者を黙らせてしまったほうがよっぽど楽だ。
「外」でだったら背筋とアンテナを伸ばし、相手の顔色を伺い、相手の感情を忖度し、ことばを選んでコミュニケート
するなんてことをしたとしても、「内」でまでそんな面倒なことはしたくない。
いいじゃないか、このままで、俺たちいままで上手くやってきたじゃないか。
なんでそんな面倒くさいことを云うんだよ、安らげるはずの「内」でそんなことは聞きたくない。
弱者(おまえ)のことは俺がいちばんよく知っているんだよ。細かいことを気にしすぎだよ、神経質だな。
空気を読めよ。
そうだ、もうすぐ記念日だな。プレゼントはなにがいい?
……。
かくして意図的に鈍くなり、見たくないものを見ない強者たちによって「内」はゴミ箱と化す。
典型的なゴミ箱の名前を「家」と云う。

そういうふうに些細なことを云わずに黙っているのがぼくの癖になっている。そのほうが好都合だからだ。本音を
言うと、女のように細かいことをごちゃごちゃ説明しなくても、エイミーが気持ちを察してくれないかと期待していたのだ。
(ギリアン・フリン著『ゴーン・ガール(上)260ページ)


もう公開からずいぶんと日にちが経っているし、ネタバレ全開で書かせてもらうけれども、『ゴーン・ガール』は搾取される
弱者が逆襲をこころみる話だ。

ニューヨークでライターをしていたニック(ベン・アフレック)は、ニューヨーク育ちの洗練された美女であるエイミー(ロ
ザムンド・パイク)と恋に落ち、二人は結ばれる。夫側の家族の事情により、ニックの故郷であるミズーリ州の小さな
街に移り住んでから二年後、結婚五周年の記念日に、エイミーは失踪する。
現場に残されたいくつかの証拠から、ニック自身がエイミーを殺害したのではないかとの疑いが強まる。だがすべては
夫に不満を抱いたエイミーの狂言だった――。

エイミーはなぜ失踪したのか?
映画ではニックが若い女(エミリー・ラタコウスキー)と浮気したことが直接的原因ということになっていて、それは原作
でも要因のひとつではあるのだけれど、小説ではもう少し重層的な描き方がされている。
ひとつは2009年のリーマン・ショック以降、アメリカの中流層が急速に貧困層に流れていったこと。
ニックもエイミーも大卒のライターであり、それが2010年の7月以降、相次いで仕事を失う。
日本でもおなじことが起こっているので、事態の想像はしやすいだろう。雑誌の発行部数が激減し、ライターというのは
花形職業ではなくなった。文系の大学を出れば、出版業界で容易く職を得られて、食っていける、なんて構図が絵に描
いた餅になってしまった時代。まさに「いま」のとばっちりを受けた我々の同士がニックとエイミーだということが、映画だ
と理解しづらい。
もうひとつが、ニューヨーク生まれニューヨーク育ちのエイミーが、夫に引きずられて引っ越した先がミズーリだったこと。
原作では悲惨きわまりないアメリカ地方都市の現状が詳細に描かれていて、それが重要なバックボーンのひとつに
なっている。
ふたりの住む新興住宅地は、映画では華やかな場所であるように描かれていたが、リーマン・ショックで土地を手放す
人が続出し、ゴーストタウンのようになり、空き家にホームレスが棲みついている。コンピュータの普及のせいで印刷
工場がなくなり、失業者はどこにもいけずスラムを作っている。地方都市の花形だったはずの大型モールは撤退し、
そこでは怪しげなヤカラたちが徘徊している。トム・ソーヤをモチーフにした古風な観光スポットは、「よりはなやかで、
にぎやかで、マンガじみた観光地」に客を奪われた。
なんのことはない、日本で言うところのファスト風土だ。魅力も活気もない、枯れきった土地に、ニューヨークっ子が
連れてこられた、というのが顛末であり、「田舎のネズミと町のネズミ」のような寓意のある話なのだ。
これに痴呆の入ったニックの父と、ガンに冒されたニックの母の介護の問題がからみ、もちろん前述のニックの浮気の
問題もあり、エイミーは幾重にも追いつめられていく。
だがなによりもエイミーを追いつめ、彼女に最後の銃爪をひかせたのは、ニックの「鈍さ」だったのではないかと思う。

聡明で、美人で、行動力もある彼女は、自分のえらんだ伴侶の目がみるみる死んでゆき、「鈍さ」の鎧をまとって、
都合のいい無言による了承を強いる行為に耐えられなかったのではないか。だから彼女は選んだ。
すぐそばにいる、夫という見知らぬ他人を死刑にし、かつて愛した夫を取り戻す道を。

ベン・アフレックは熱演だと思うけれども、映画のニックには、原作のニックにあったある重要な要素が欠けている。
それは彼の父親の描写だ。映画では父は刑務所でわずかに姿を見せるだけだが、原作では父のバックボーンに
関する詳細な描写がある。
アル中でミソジニーのかたまりであり、「クソ女、クソ女、クソ女……」とうわごとのように繰り返す痴呆症の父。
ニックはその父を嫌悪していて、同時に父の血が自分のからだの中に受け継がれていることに心底恐怖する。
エイミーによって舞台がつくられた「なかった妻殺しの現場」は、ひょっとしたらニックが血の中に受け継ぐ暴力性
と女性蔑視により、「あり得たかも知れない妻殺しの現場」なのだ。
父の世代が呪いのように身に纏ったミソジニーに対する嫌悪と、それが自分の中に眠っていることへの恐怖。
これはいまを生きる多くの男性が誰にも云えずにひそかに抱えている葛藤ではないだろうか。
多くの女性は男がそんな葛藤を抱えていることなど知らないし、そもそも知ったことじゃないよ、と言われるのが
オチだろうが。

ニックは、自分の中に眠る「地方の男尊女卑のいやーな空気を受け継いだ血」を封印して、都会(ニューヨーク)で
まるでNY子のような顔をして、エイミーと出会う。ニックにとって、このとき彼女は遥かに見仰ぐ大都会に属する、
「外」の人間であったはずだ。「外」と接しているときは、ニックも嫌な自分を出さず、人好きのする、セクシーな男で
いられた。

それが失業により「外面」に傷がつき、勝手知ったる「内」であるところの故郷に引っ込んだところから、彼はエイミー
を「内」へと追いやる。待っているのは「鈍さ」による無言の搾取だ。
ところが、エイミーの失踪により、彼は死の危険にさらされる(ミズーリ州には死刑がある)。
究極の危機により、「鈍さ」に錆びついていた彼の脳は奮い立つ。アンテナを張り巡らせ、思考し(鈍かった時期の
ニックが脳味噌を使っていたとはわたしには思えない!)、敏感になり、周囲の動きを把握する。いざ「外」へ。

そしてそんなニックこそが、実はエイミーが再会を待ち望んだ、彼女の「愛する夫」だったのだ、というのがこの物語の
最大の皮肉になっている。
エイミーの術策により追いつめられたニックが、逆転の一手としてテレビの出演をこころみる。
彼はもう必死だ。しくじれば待っているのは最悪、死なのだ。ニックはこころの底からエイミーのことを思い、エイミーの
こころに至ることを願い、ことばを絞り出す。
それをテレビで見つめるエイミーの微笑みを、わたしは最初に観たときに、復讐が成し遂げられた残酷な歓びによる
ものだと思い、嫌悪した。
いまはまったく違う印象を持っている。
エイミーは、あそこでニックに惚れ直したのだと思う。理由は、彼がセクシーだったから。
追いつめられてわけがわからなくなり、必死になって妻のことだけを考えた男性が、ありったけの知恵と機転を
ふりしぼり、妻の胸にとどくためだけにことばを選ぶ。
女性にとって、そんな男の状態のことをセクシーと呼ぶのだと愚考したのだが、如何?

そもそも、エイミーによる壮大な狂言は、ニックという男がどういう欲望を持ち、どういう行動原理を持つ男か、熟知
していないとまったく成り立たない。エイミーは冷徹に事態を俯瞰しているように見えるが、「ニックを熟知している」
という一点において、図らずもそこに彼への執着と愛が露見してしまう。

あの日記というのも曲者で、創作というものに少しでも関わった人なら周知していることだが、創作物というのは
まったくの絵空事のようでいて、どうしても自分の秘められた欲望というのが露呈してしまう。あり得べき自分と
いうものを創作したあの日記は、まるでニックにむけた迂遠な恋文のようだ。

迂遠な恋文による危険な純愛は成就し、エイミーは帰還し、ニックの待つ家に戻る。
搾取された弱者が、知恵と行動によりその構図をひっくり返すというこの物語のプロットは、ここに至るまでで充分に
痛快なのだけれども、真に驚くべきはそのあと(映画で言えば終盤30分)だ。

血だらけで家に戻ってきたエイミーを、ニックは抱きしめ、その耳元で「クソ女」とつぶやく。
それは父から受け継いだ呪いのことばだ。
さらには怒りにまかせて、彼女の頭を壁に叩きつける。
理性と利己主義によって築き上げられた「いい夫」は敗北し、やはり「地方に根付く男尊女卑の血」が勝利するのか。
だが、そこでニックは気づくのだ。ここでエイミーを殺せば、自分は父とおなじ敗北者になる。それだけではない。
彼女の失踪後、冷たい汗で背筋を濡らしながらもがいてきた自分。それこそが自分にとって最大限に高められた
自分であることにニックは気づく。エイミーを殺し、どこかで退屈な普通の女と結婚したところで自分は満足できない
だろう(原作でも映画でも、ニックはじつにあっさりと若い愛人を手放す)。
父から受け継いだ、惨めな女性蔑視の血に打ち勝ち、最大限に自分を生かす道。
それはエイミーとともに生きることではないのか。
そこまで理解しても、エイミーに対する恐怖は消えない。ニックは寝室にひとりで籠もり、ドアに鍵をかける。
その寝室のカギが落ちる、かちり、という音。
それは実はニックとエイミー、彼ら夫婦の勝利の凱旋ラッパの響きであると思う。
これは「虐げられた妻(エイミー)が、夫(ニック)に復讐しました」で終わる話ではない。
妻と夫が、同時に最良の伴侶を手に入れる、希望の物語なのだ。
エイミーは死んだ目をした「鈍い」夫ではなく、聡明な夫と結ばれ。ニックは自分を「鈍さ」から解放する妻と結ばれた。
なんによってか。愛? ふざけちゃいけない。
かちりと鳴る、寝室のカギがかかる音が象徴するもの。
恐怖によってだ。

紀伊國屋渋谷店の文庫女子問題、通称ダサピンク事案が発生したとき、興味を持って関連するツイートを読んでいた。
非常に興味深かったのが、憤慨している女性たちの多くが「舐めるな」という語彙を使っていたことだ。
これは男の「鈍さ」に触れて憤った女性たちの口から頻出することばらしい。わたしも、知人の女性からそのことばを
ぶつけられたことがある。
「おなじ人間だと認めろ」という、極めてまっとうな主張がその真意だという理解をしている。男の「鈍さ」によって摩耗した
精神が、みずからの窮地をことこまかに説明する余裕すら失わせ、「舐めるな」ということばになるのではないだろうか。
しかし誠に残念ながら、このことばの真意はひどく男性側には伝わりにくいと思う。みずから好きこのんで「鈍く」なり、
そのことによる生き安さを確保した人間が、相手の立場に想像力を働かせる、なんてことをするわけがなく、たまに
「理解のある」男性が現れても、「お互いに平等な立場で、理論的に話をしよう」なんて云いだすのがオチではないか。
そもそも互いの立つ場所がすさまじく離れていて、議論に着手する前に相手が日々の生活でどれだけ摩耗しているか
なんてことは「平等」の中には入っていないのだから、これも不毛な話だと思う。
だったらどんな風に解決すればいいのか。
愛によってか。
だからちがうつってんだろ、殺すぞ、ボケ。

人類愛、なんて呆然としたものを振りまわしたところで実効的なものなどあるわけがなく、愛はたぶんこれからどれだけ
月日を重ねても、「わたしはあなたが好き」「ぼくはきみが好き」ということの積み重ねでしかすぎない。愛はこれからも
無数の勝利を刻むだろうが、それらはすべて局地戦で、戦略的にはなんの意味もない。
愛じゃ足りない。愛じゃ追いつかない。
ほんとうは人間すべてが想像力を発達させれば問題解決なのだが、世の中には愛の情動を育てる契機は山ほどあれ
想像力を育てる契機なんてほとんどないのだから、望み薄だ。

恐怖だ。
「舐めるな」という舌から血を流すような訴えを吐く相手と、おなじ目線で立つには恐怖しかない。
ソーシャルネットワークのどんづまりがもたらす、転落の危機が蔓延したこの世界で、手を携えて生きるにはそれしかない。
地位があろうが、名声があろうが、不用意な発言ひとつで地の底に落とされるこの世界。
広告に大金をばらまいてイメージアップをはかる大企業が、バイト店員のリーク一発でブラック企業よばわりされる世界。
歌手、芸能人、新聞社、批評家、評論家。かつては雲の上の存在だった彼らも、いまでは安全圏にいない。
誰ももう、「鈍さ」による搾取から得られる安寧の上にでんと構えてはいられない。
恐怖万歳!(Viva Fear!)
女を怖れ、男を怖れ、子供を怖れ、老人を怖れ、都市を怖れ、地方を怖れ、外国を怖れ。
びくびくと怯えながら。この世にいるすべての人々を恐れながら、生きていこう。
どんなに弱く、力なく見えても、彼らはあなたに致命傷を与える、蜂の一刺しを持っている。
そしてかつては見下していた相手を恐怖すること。それは相手の力を認め、相手を自分の目線まで引き上げることだ。
それが「舐めない」ってことなんじゃないだろうか。

2009年に外れた鍋の底が、永遠に右肩下がりのグラフを生みだしたこの世界。
地方が衰退していくなか、旧時代のヘイトと蔑視が息を吹き返しつつあるこの世界。
そこを生き延びるには恐怖することだ。

『ゴーン・ガール』はそんな「いま」の世界をサバイブする方法を提示した、未来への希望に溢れた物語だと思う。


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