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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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インサイド・ヘッド

  1. 2015/07/23(木) 00:49:02|
  2. 洋画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
inside-out-trailer-2_00.jpg

もうだめだ、と思う。
すべての魔法は解けてしまった。いつかこんな日が来るのではないかと思いながら、必死につくり笑いを浮かべていたけれど。
それももう終わりだ。これ以上ごまかしようがない。
嘘みたいに重い足をひきずって、部屋に帰ってきた。床に座り込んだまま、もう一歩も動けない。
このまま膝を抱えて沈み込んで、息もせず黙って死んでしまえればいいのに、と思う。
まばたきも忘れた瞳に写るのは、しわくちゃになったレシートと、携帯電話の請求書と、コンビニのビニール袋。
見慣れた風景が、何千マイルも離れた知らない星の風景のように見える。ひりひりと胸が痛んで落ち着かない。
テレビをつけて、くだらないバラエティをしばらく見つめていたけれど、すぐに消してしまった。
きっともう、笑える日はこない。
泣きそうになって、瞼をぬぐったけれど、涙さえ出なかった。
きっと、もう一生泣けない。怒ることさえできない。もう感情はない。この世のたったひとつの真実が明らかになってしまったから。
わたしはひとりぼっちだ。
わたしには愛される価値がない。


へぇ、そうなんだー。いやぁ、たいへんだねぇ。
しっかし、今日も暑かったねぇ。あはははははははははっ!!
……あ、いや、失礼、ちからいっぱい悲嘆に暮れてるところ、ごめんね。ちょっと気になることがあってねぇ。
きみさ、駅からこの部屋まで、どうやって歩いてきた?
家賃安いもんねぇ。駅から離れてるよねぇ。自転車はこないだ盗まれちゃったから、三キロは歩かなきゃいけないよねぇ。
迷わないでよく家にたどりついたね。よく覚えていない? ふーん。そっかぁ……。
途中さ、いつものコンビニに寄ったよね? それも覚えていない?
テーブルの上のビニール袋をあさってごらんよ。いつものヨーグルトとオレンジーナと高菜おにぎりが入ってるから。
なんか深刻に悩んでたみたいだけどさぁ。コンビニで買うのはお気に入りの定番なんだねぇ。馬鹿みたいだねぇ。
え? それも覚えてない?
部屋に入る前に、郵便受けのロックを外したよね? だって請求書があるじゃんか。
テレビをつけたよね? どうしてリモコンがいつもの右手側にあるってわかったの?
っていうかさ、死にたいなんて云ってる人間が、どうしてしわにならないために上着をハンガーにかける必要があるのか、
ぜーんぜん意味がわかんないんだけど。
自分じゃない? そんな記憶はない? まぁまぁ、怒らないでよ。
じゃあいったい、きみを家まで連れ帰ったのは誰なんだろう?
……ふーむ。
さっき、なんて云ったっけ? 愛される価値が……ああ、そこは、どうでもいいや。そのちょっと前。
「わたしはひとりぼっちだ。」
ふーん……へぇ……。
本当に?

===========================================================

ディズニー・ピクサーの新作、『インサイド・ヘッド』は、野心に満ちた意欲的な作品でありながら、ハートウォーミングな逸品でした。
主人公(というよりも「舞台」と呼んだ方がふさわしい)のライリーは11才の可愛らしい女の子。
子供らしい快活さに満ちた彼女は、住み慣れたミネソタを離れ、見知らぬ街サンフランシスコに引っ越すことになってしまいます。
故郷の喪失、親しい友人との別れ、新しい環境へのとまどい、そんなものがライリーを追いつめ、快活な少女は一気に
抑鬱状態に追い込まれて、転校初日に学校で泣き出してしまいます。
果たしてライリーは、引っ越し先で自分の居場所を見つけることができるでしょうか?
……というのが「表向きの」物語で、究極までにミニマルなお話です。

ところが、映画の真の主役はライリーではなく、彼女の頭の中にいるヨロコビやカナシミといった五人の感情たちなのですね。
改めて文字で書き起こしてみると、ぶっとんだ設定ですね、これ。ところが映画で見てみると実にすんなりと受け入れられるのです
よ。ライリーの頭の中の世界と、ライリーの日常が交互に描かれるのですが、ほとんど混乱は起きない。このあたりのこなれた
交通整理はみごとです。「シュガーラッシュ」では現実とゲーム機の中を交互に描いていましたが、この映画ではさらに進んだ
「内と外」の描写をたっぷりと堪能することができます。

まず、「内」の方です。ライリーの頭の中ですね。この描写がみごとなんです。
もちろん人間の脳のはたらき、というのは完全に解き明かされたわけではありません。
いままでのフィクションですと、たとえば90年前後あたりの日本のサブカルチャーではやたらめったら脳内報酬系がフィーチャー
されてました。猫も杓子もドーパミン。猫も杓子もA10神経系。エヴァンゲリオンでもとくに脈絡なく出てきましたねぇ。恥ずかしい。
80年代後半くらいから脳科学が進歩して、ニューロンの働きとかいろいろわかってきて、報酬系がみつかったときには、「これで
人間の欲望の源泉がわかった!」と大騒ぎになったものです。もちろん脳内モルヒネだけで人間がわりきれるわけがないので、
そのうち下火になりましたが。
それ以前だと、ユングの元型をモチーフにした作品が多かったような印象があります。自分のなかのいろんな要素が、脳の中で
おしあいへしあいしている、という「インサイド・ヘッド」に似た設定の小説が筒井康隆の「欠陥バスの突撃」ですが、アニマが
でてきたり、かなりユングの元型よりのデザインです。

で、「インサイド・ヘッド」ですが、どうもいまどきの認知神経科学の成果を取り入れているようなのですね。
出来事、に関するヒトの記憶をエピソード記憶と云います。時間と場所、そのときの感情がその記憶には含まれています。
初めてキスをした公園にきたときに胸が痛んだりするのは、その出来事と感情がむすびついたものが、ひとまとめになって
脳内に記憶されているからですね。ヒトはそのエピソード記憶のつらなりによって「自分はこういう人間だ」ということを認識
します。ヒトの性格の元になっているのは記憶なんです。そしてシーケンシャルにつながった事象(イベント)を、ひとつの
物語として認識しています。これを自伝的記憶と云います。

だから、「たいせつなきおく」によって、「おふざけのしま」「ともだちのしま」といったライリーの性格が形成されるのは説得力が
あります。いや、ちょっとずれてきた気がします。これはべつに「ちゃんとお勉強して偉いね!」と称えられるべき映画ではなく。
「とにかく絵でみせてくれるのがすげぇ!!」って映画ですよね。

「インサイド・ヘッド」はマッドマックス・怒りのデスロードとならんで、映画であるという自らの特性をフルに生かした映画です。
絵です。絵で見せてしまう。それがすごい。
長期記憶と短期記憶に関する知識なんてなくても、鮮やかに輝くボールが、ボーリング場のレーンみたいなものの上を動いて
いるのを見つめていれば、それだけでそんなものか、と理解できる。
ボールがびっしりとならんだ長期記憶保存庫を見れば、自分の脳の中にもこれだけの記憶のかけらがあるのかな、と思える。
必要ない記憶を掃除機で吸い上げる掃除人のユーモラスさに大笑いしながら、忘却していく物事の膨大さに身震いする。
「夢のスタジオ」は是枝監督のワンダフル・ライフみたいでわたしはピンときませんでしたが、「イマジナリー・ランド」の夢想の
楽しさには本当にわくわくしました。
そしてその美しい脳内世界が「ブレイン・ダメージ」によって崩壊していくわけですが、その顛末が「外」の世界の出来事と
絶妙にシンクロしているのが本当にすばらしい。

この映画の「内」の世界は、色鮮やかに、被写界深度深めに、くっきりとした輪郭で描かれるのですが、「外」の世界は陰翳に満ち、
リアルなタッチで描かれます。その違いは誰にでも見て取れると思います。
下手な演出で描かれれば、外と内は乖離して、誰にも感情移入できない奇妙な物語が二つできていたと思うのですが、この
映画は違う。「外」の世界の軋轢は「内」の崩壊をもたらし、そしてその恐ろしさが身震いするような戦慄をもって伝わる。

数日前、うちのTLで中島みゆきの「ファイト」が話題になっていました。
「ガキのくせにと頬を打たれ、少年たちの瞳が歳を取る」。という歌詞は胸につきささりますが、普通、物語というのは光を
失った子供の瞳を大写しにするくらいが限界なわけです。「インサイド・ヘッド」はそこに踏み込むのです。

ライリーが親友とのあいだに溝を感じたとき。
彼女の脳の中では「ゆうじょうのしま」が大崩壊します。
塔は倒れ、地はひび割れ、えらい騒ぎになる。
それがライリーの脳内にいるヨロコビたちの危機をもたらすのです。内と外のプロットがみごとに連動している。本当にうまい。
そしてバスの窓に映った、11才の少女の感情の死んだ瞳を見るとき、わたしたちは思うのです。
この瞳を知っている。どこかで見たことがある。
そうか。
あのときは小さなことだと思う。でも確かに、あのとき目に見えないどこかで、ひとつの王国が滅んだのだ、と。

===========================================================

わたしはひとりぼっちだ。
誰もわたしを理解してくれない。
わたしには愛される価値がない。
だから誰も愛し返してなんか、やるもんか。


うんうん、誰かを思ってやったことの価値が、相手に理解されないってつらいよねぇ。くーっ、共感できるわぁ!
どうしてこんなに頑張ってるのにって思うよねぇ! 
……え?
いやいや、いまのはきみのためのことばじゃないよ。なんでそう思ったの? 草生えるわwww
きみにはそんな労りを受ける資格がない。
いまのことばは、とうに自分を見限ったきみのからだを精一杯労って、長期記憶貯蔵(LTS)したいままでのきみの暮らしを
トレースし、きみを迷わず家にたどりつかせた非陳述記憶ちゃんへのことばだ。
明日を生きるつもりがないきみの明日のために、必死でアブドウ糖をグリコーゲンに変えている肝臓ちゃんへのことばだ。
明日を生きるつもりがないきみの明日のために、必死でグルカゴンをつくっているランゲルハンス島ちゃんへのことばだ。
明日を生きるつもりがないきみの明日のために、歯をくいしばってガス交換をしている左下葉気管支肺胞囊へのことばだ。
心臓はドゥーフ・ウォリアーのごとき戦いの鼓動をやめることがなく、循環器はV8エンジンのような唸りをあげつづける。
物言わぬすべての細胞とすべての組織が、見も知らぬ明日へときみを送り届けようと必死になっている。
それなのに、きみは「きみ」というごく狭い意識の中で、檻に閉じこもり、身勝手な孤立感にがんじがらめになって、苦しんでいる。
きみの口が、自意識過剰で自己評価の低いきみに支配されておらず、内臓か、筋肉か、どこか違う場所にあったなら。
その細胞が叫ぶことばはひとつだろう。「明日へ! 明日へ! 明日へ!」
それなのにきみだけが明日を信じられない。
誰一人、きみを殺したいやつなんていないのに。
きみのしあわせだけを願っているのに。
本当だよ?

===========================================================

とつぜん訪れた危機により、ヨロコビとカナシミは脳内司令部から放り出され、ライリーの脳の中を彷徨うことになります。
ヨロコビはその彷徨のあいだ、「たいせつなおもいで」を後生大事にかかえています。
「たいせつなおもいで」をふたたび脳内司令部にもどすことが、ヨロコビの旅の(最初の)目的なわけですが、わたしたちは
彼女のその動機にさほど感情移入できません。
手からすべり落ちそうになってあわてたり、ビンボンといっしょに持ち出されてそれを取り返そうとしたり、ヨロコビにとって
それが大事なものだということはわかるのですが、ただのマルタの鷹、マクガフィン、以上のものには思えないのです。
それがないと話が進まないから、ヨロコビはそれにこだわるのだろう、と。
そう冷めて思ってしまうのは、巧みに誘導された感情曲線により、ヨロコビの動機に観客がセルフィッシュなものを感じてしまう
からです。
ヨロコビは、誰でも好意をもってしまう、明るくて前向きな少女として登場します。ところが、あれ、あれ、という感じでヨロコビに
対する好意には疑問符がついてしまう。ひどく前に出るその態度には、仕切りたがり屋!と野次をとばしたくなりますし、
カナシミに対するほとんど虐待ともいえる差別的な態度に、憤慨した人も多いでしょう。
なんだよ、こいつウザいな、どうせこいつが司令部に戻りたいのも身勝手なエゴからなんだろう?
ところが、物語の決定的な場面で、ヨロコビは「たいせつなおもいで」を涙を流しながら抱きしめるのですね。
いとおしく過去の記憶を愛撫しながら、これ以上この世に大切なものはない、という感じに。
それは親が子を愛撫する、そんな愛情そのもので。
そこで観客はヨロコビの行動すべてが、ライリーの幸福のみの追求という究極的に利他的な原理の上に成り立っていることを知る。
そのころ外ではライリーが死んだような瞳でバスの窓を見つめているわけです。
それで、これは偉いことだ、と思うわけですよ。ライリーが幸福でないということは世界が滅びるのと同義なくらい大変なことなん
ですよ。なぜならば、ヨロコビが叫び、走り、転げ回ったそのすべてがライリーのためであることを観客は知ってしまったからです。
この映画の表向きの話は究極にミニマルだ、と書きました。
クラスメイトからいじめられたわけでもない。ライリーの挫折はあくまでも内面的なもので、外に敵はいない。
それでいいと思うんですよね。ライリーこそが世界なんです。ライリーこそが宇宙なんです。
彼女のしあわせこそが、この映画の究極の目的なのですから。
そしてね……。
まぁ、このあたりでわたしなんかは思ってしまうわけです。
もうまったく記憶には残っていないのだけれども。あるいは記憶にも残らない脳の片隅でのお話なのかもしれないけれど。
自分のたいせつな思い出を、どこかの誰かが抱きしめてくれたかもしれない、と。
そしてそれは誰でもそうなのかもしれない。
そうでなければ、わたしたちはいままで生きてこられなかったのではないでしょうか?

===========================================================

それでも、不安でしょうがないんだ。

それでも、俺はここで南アフリカ産のブブゼラを吹きつづけるけどね。
ブオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
あ、ごめんね。ネタが古かったね。
きみの口からどんなにマイナーな音色が漏れても、俺はここでそれを吹き飛ばすようなすっとんきょうな音を奏でつづけるよ。
それがきみの耳に届かなくても。
俺は地平線の彼方のそのまたむこうで、ずっと、ずっと、きみのためにエールを送って、手を振り続けるよ。
俺に会いたくなったら、実家に帰ったときに、押し入れの古い玩具箱を開けてみればいい。
そこに俺はいるかもしれないし、いないかもしれない。
どっちでもいいじゃないか。俺はいまでもきみを見つめているし、死ぬまできみの味方なんだ。

ああ、ところで残念な知らせがある。
もう云ったっけ?
きみは一生、ひとりぼっちになんかなれないんだよ。






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