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『ちはやふる』をまだ知らないあなたのための、ちはやふる32巻レビュー(ネタバレなし)

  1. 2016/07/15(金) 23:48:32|
  2. | トラックバック:0
  3. | コメント:0
32.jpg

『ちはやふる』とは、情熱の因数分解だ。
ここまで巻数がすすんでやっと、そのことが理解できた気がする。

物語は未だ佳境である。千早が、詩暢が、新が、太一が、わたしたちに最後に見せてくれるであろう景色は、まだ見えない。
だけれど9年間この物語につきあってきて、この32巻を読んだ瞬間にふっと、「腑に落ちた」。
そこでやっと気がついたのだ。自分が目にしていたものが、ひとつの数式の展開の過程であるということに。

数式だの、因数分解だの、おまえはさっきからなにを世迷い言をぬかしておるのか、とお怒りの方もおられるやもしれない。
「ちはやふる」はかるたというマイナースポーツを題材にした、きらびやかな青春の情熱を描いた、明朗なスポーツ漫画だ。
そのどこに無機質で冷たい「数式」などということばが入る余地があるのか……と。
では無機質で冷たい(かどうかはわたしは理系ではないのでわからないけれども)数字の代わりに「情熱」でこの式はできて
いるのだと考えてもらいたい。

情熱の足し算で出来たマンガというのは、とてもよく見かける。というよりもむしろマンガの基本構造と云ってもいいかもしれない。
上手くいけばその足し算はかけ算に変わる。
主人公がいて、その情熱が物語を前へすすめるベクトルとなり、友人や恋人やライバルやいろんなものが掛け合わされて、
さいごのさいごにイコールがつく。そこで物語は大団円をむかえる。そこでやっとわたしたちはこの物語の意味に気づく……
と云いたいところだけれども、あるていど経験をつんだ読者であれば、その物語の構造が単純な加算や乗算の産物であること
にあっさりと気がつく。それでもそれを補ってあまりあるキャラクターや他の魅力に補われ、わたしたちは暗黙の了解として
自分が見えた物語の単純な数式に目をつぶる。

「ちはやふる」はそのような構造を持ってはいなかった。
いろとりどりの魅力に目をくらませ、みえみえのイコールをぐずぐずと引き延ばすような数式では構成されていなかった。
ここにいたるまで、いったい何十回、何百回、おどろかされてきたことか。
「えっ、そんな小さなキャラクターを拾うの?」
「えっ、そこまでこのキャラクターを掘り下げるの?」
「えっ、主役そっちのけにして、そのキャラクターが表紙になるの?」
「えっ、そこで負けたほうの心情描写をしちゃうの? やめてよ、泣けるじゃんか!」
読みながら、不思議でしょうがなかった。
「ちはやふる」はおそろしく多彩な膨大な数のキャラクターを描いた群像劇でありながら、主役3人(と、詩暢)の物語であること
からついぞブレない。末次由紀の頭のなかには、彼女が描いたどんな些末なキャラクターであろうとも、無数のサイドストーリー
が展開されているはずだ。たのしい巻末のおまけマンガでその一端に触れつつも、「そんなことはいいから本筋に戻れよ」とは
いちどたりとも読者に云わせない。いやむしろ、なにかを急くような、生き急ぐような慌ただしさで、物語は奔り抜けていくのだ。
とにかく奔っている。いつもだれかが奔っている。一巻、一巻、読むたびに自分のなかに与えられた情熱が行き場を失い、叫びを
あげたくなる。自分もなにかに情熱をぶつけてみたいという衝動に抗えなくなる。
いったい、この物語はなんなのか?

32巻まで読み終えた読者は、どうか1巻の冒頭にもどっていただきたい。
わたしの疑問の答えは、そこにあっさりと提示されているはずだ。
第1話、1コマ目。場所は近江勧学館。18歳になった千早は浦安の間でクイーンと対峙している。
未だ到達していない、「ちはやふる」という物語のひとつの頂点がそこで提示される。
数ページ先に登場するのは、「6年まえ 東京」。そこにいる12歳の千早は、冒頭の千早と同一人物でありながらも
「まだ情熱を知らない」。
ここだ。
「ちはやふる」という物語のイコールは、じつはここにあったのだ。第1巻、第1話の冒頭に。
情熱を極限まで駆り立て、いまやその道程の頂点に手をかけた千早と、情熱を知らない千早。
この二つを、まるで詩暢の祖母が畳の上にサインペンでそうしたように、ガッと乱暴にまっすぐな直線を引いた。
情熱の極限にいる千早がイコールの右辺、情熱を知らない千早がイコールの左辺にいる。
末次由紀は32巻168話をかけて、情熱をこめて、丁寧に、この数式を展開し、イコールの左右が同一項であり、
この因数分解式が正しいということを証明しようとしている。

小泉徳宏監督の劇場版『ちはやふる』を観たときに、広瀬すず演じる綾瀬千早という存在をあらためて不思議に思った。
彼女はまるではるかとおい未来を見通して、一直線にそちらにむかって奔っているようだ。
千早ひとりが、他の登場人物とは、目線がまるでちがうのだ。これは原作でも映画でも、おなじだ。
彼女はどこを見て、どこに進もうとしているのか。もちろん1巻、1話目、1コマ目にむけてだ。
だが「情熱を知らない千早」と「情熱の極限にいる千早」がイコールだと、すぐに読者は了承しえない。
そもそも、綾瀬千早がどんなに人並み外れた感じのよさを持っていても、ひとりで到達できる道ではない。
だからこそ「エンジンを外側にも置く」。仲間たち。家族。ライバルたち。通りすぎる通行人のふとした会話でさえ。
「すべてがかるたにつながります」。すべては綾瀬千早を1話1コマ目に辿りつかせるために。
そのためには、千早を取り巻くひとびととの絆がかりそめのものであってはいけない。そうなっては数式は壊れてしまう。
おそらくは本能的にそれを察知した千早は、「勝つ」ための最短経路を歩む。
孤立した仲間に手をさしのべること。“孤高”という壁にとりかこまれたクイーンを壁から出すこと。家族も、後輩も、みな。
そして千早から情熱を伝播されたまわりの人々もまた、自らの情熱を駆り立て、高みを目指すこと。
どんな小さな話の、どんな小さなコマに描かれた人物も、取りこぼさないこと。
夜空に浮かんだ星のまたたきに、世界というからくり時計のコマが軋む音を聞き、神秘のヴェールのむこうの真実が見える。
そんな風にして、「ちはやふる」というこの物語を読んでいると、それ自体はスポーツに打ち込む少年少女たちのお話にみえて
じつはその背後にあるもっと大きなもの、人というものが生まれて滅するまでのサイクルに一瞬、点滅する真理が見える。
「ちはやふる」は宇宙だ。東京に住む、十代のひとりの少女を描きながら、わたしと、これを読んでいるあなたが属している、
この世界そのものについて描いているのだ。

これを読んでいるあなたが「ちはやふる」を知らなくても、知る気がなくても、わたしのこの文章を読んでたったいま読む気が
なくなっても(あ。それはへこむ……)、そんなことにおかまいなしに、千早は、あなたに手をさしのべる。
“強欲”な綾瀬千早が、あなたのことを逃すはずがないではないか。

「ちはやふる」という物語はまだまだつづく。
この32巻という巻は、この長大な物語のなかでも突出して重要な巻であり、開巻からここにいたるまでの展開で、お話は
ひとつの回収をむかえた。
まだ読んでいないというあなたがうらやましい。そんな常套句をつかうことを許していただけるだろうか。
読み出すには最適のタイミングだ。まだ映画も上映している場所があると聞く。
どちらも問答無用の傑作だ。迷い無く、まずは原作一巻から読んでみてもらいたい。
それでもあなたの人生は変わらない?……いや、そんなことはない。少なくともあなたには友人がひとり増えるはずだ。
もういちど云う。
“強欲”な綾瀬千早が、あなたのことを逃すはずがないではないか。
本屋へ。早く。
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