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生きながらフリッカーに葬られ

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スーサイド・スクワッドが好きだと、小さな声でそう云いたい

  1. 2016/09/13(火) 01:30:19|
  2. 洋画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
Harley-and-Joker-Suicide-Squad.jpg

スーサイド・スクワッドは奇妙にねじくれた映画です。
物語は「バットマンVSスーパーマン」の直後からはじまります。超人的な能力を持った悪人(おそらく施政者側にとってはバットマンもスーパーマンもその一員です)に対抗するため、米国政府は重犯罪者のなかから適任者を選別し、捨て身の作戦に従事させる「タスクフォースX」計画を発動します。そして集められた隊員たちはアメコミの世界のヴィラン――人を超越した能力を持つ者を含む、悪役たちだったのでした。

筋書きだけ聞けば単純明快。アメコミ版「特攻大作戦」です。実際、ジェイ・コートニーによるとキャスト全員が「特攻大作戦」を観たそうで、そのコンセプトについては制作者側としても一致していたのだと思います。
実際、中盤で描かれる彼ら「自殺部隊」の境遇はかなりシビアです。首筋に爆発物をしかけられ、上官の機嫌しだいでいつでもそれが起動可能、というスネーク・プリスキンもかくやという状況のなかで、達成不可能に思えるミッションに挑まされます。もともとは超個性派かつ超個人主義な彼ら犯罪者は、隙あらば逃げだそうとするし、てんでばらばらで統一感がありません。
しかし、そんなダメ人間の彼らも、寝食をともにし、厳しい訓練にはげむことで次第に連帯感が芽生え……。
なんてシーンはこの映画にはありません。
な、ならば厳しい任務のさなか、最初はバラバラだった彼らが徐々に息が合っていき、見事なコンビネーションをみせ……。
なんて描写もこの映画にはありません。
自分のことしか考えていない悪人どもが、ある瞬間から唐突に「おれたちは仲間だ」と云いだします。
そのことを万人に納得させるだけの描写がなかったために、この映画は一部でさんざんな酷評にさらされることになりました。

訓練に耐えるシーンはない。大事な仲間が死んでその哀しみをみなで乗り越えていくうちに連帯感が……なんてシーンもない。
この映画にあるのは「気づき」の描写だけです。あの、酒場のシーンですね。
「わたしたちは悪くて醜いのよ」。マーゴット・ロビー演じるハーレイ・クインがそう云います。
そうか、おれたちはただの悪人でしかなかった。
なにを血迷って、人並みのしあわせなんてもの夢見ていたんだろう。
罪を犯し、手を血で染め、墜ちに墜ちて、廃墟の酒場の、このスツールに座っている。
こんな「悪くて醜い」自分たちの望めることとは、そして出来ることとはなんだろう?

「仲間」というのはこの悟りを背景にして、でてくることばなんですよ。
泥水を泥ごとすすって、すすりまくって、茶色く染まった舌からこぼれ落ちてことばでしかありません。
正義の御旗を背負い、おなじくお日様にむかって顔を上げられる、他人様になにひとつ恥じることのない「仲間」ではありません。
墜ちて、墜ちて、自分が人生のどん底にいると悟って、ふと隣をみたときに同じような境遇の連中がそこにいた。
ああ、こいつらはクズだ。そして自分もおなじクズなのだ。そんな悟りの末にやっとでてきたことばが「仲間」なのです。
そんな境遇で「仲間」を見つけたらどうするか。
デビッド・エアーの映画ではいつも結論はおなじです。疑似家族を形成するのです。

「フューリー」も「サボタージュ」も、どん底にいきついた先でおなじ境遇の人間を見つけたものが疑似家族を形成し、それが破壊される話です。それがエアーの偏執なのでしょう。それは「第二次大戦で戦車乗りが勇ましく戦う」話とも「麻薬捜査官が犯罪組織や裏切り者と戦う」話とも、食い合わせのよいものではありません。もちろん「アメコミのヴィランをあつめたチーム」の話とも。
それでもデビッド・エアーはそういう話を書かざるをえない人らしく、ことここまで至って、わたしはその偏執に愛情以外の感情を持てなくなりました。

さて、デビッド・エアーの映画はよく「正義と悪の境界があいまいになる話」を描くと云われてきました。
わたしはそうは思いません。この映画でも実に微妙なライン、ぎりぎりで細い線だけれど確かに引かれている境界線を引いてきました。
それは悪(BAD)と邪悪(EVIL)のあいだにです。

この映画の悪役……というとまぎらわしいか、お話の構成上のラスボスのような敵は、境遇だけ聞けば被害者でもあるように思える人です。
長いあいだ眠りつづけ、心臓は政府に(文字通り)握られ、なけなしの復讐戦から世界を破滅へと追いやろうとします。
最初の弱々しげな外見も含め、この映画の主役たるヴィランたちとおなじく同情の余地があるようにも思えるのです。
ですがこれに、エアーはきっぱりと「NO」を叩きつけます。
邪悪(EVIL)は邪悪だからこそ邪悪なのである、という小学生のようなトートロジーがそこで展開されます。ラスボスがやる悪事はそのトートロジーの先にぽんと置いたものであって、その「悪さ」を掘り下げた末のことではありません。
邪悪(EVIL)は絶対に許されません。救えません。カトリックだというエアーの宗教観がそこには多分に含まれていると思います。
対して主役のヴィランたちは悪(BAD)です。彼らはよりよく生きたいと願い、それにも関わらず罪を犯してしまう。いってしまえば我々凡人の延長線にある存在です。
日本人には判別つきがたいですが、悪と邪悪はぜんぜん別!とエアーは断言するのです。

だからこそ怒る人がでてきます。悪人がひたすらに悪を積み重ねるピカレスクを期待した人。あるいは悪人たちがしかるべき段取りを経て、奇妙な連帯感をもつようになる丁寧ば描写を期待していた人。そんな人たちはこの映画の歪んだ倫理を理解できず、しかるべくして感情移入もできず、死んだような瞳でスクリーンを見つめる羽目になるのでしょう。本当にお気の毒です。

あるのはただ、邪悪が悪に垣間見せる、夢のような幻視だけです。
ディアボロも、ハーレイ・クインも、そこで見るのは「まるで自分が罪を犯さなかったかのような」普通のしあわせを見て、そしてそれが決定的に自分からはほど遠いと悟るのです。邪悪の心理攻撃は裏目に出たのでした。

だから、この映画を「底の底で自分の境遇を受け入れた悪(BAD)の話」としてみれば、それなりに首尾一貫はしているのです。
もっともだからといってあなたがこの映画を楽しめるかどうかまでは、保証はできませんが。
でもわたしは、この映画がとても好きだと、愛していると、ちいさな声で云って、手を挙げたいのです。
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