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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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おまえのやさしい声で ~ 映画 聲の形

  1. 2016/10/06(木) 00:18:13|
  2. 邦画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
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ソロモン諸島の西に位置するパプアニューギニアでは、ビジン・イングリッシュとモツ語を公用語としながら、部族ごとに話す言語がことなり、その種類は1000を越える。
この世界にはおよそ5000の言語が存在するが、その五分の一がこの大きめの島一つのなかで話されている。
人口600万人の国に、1000の言語。
となればもちろん、話す人の数がごく限られる言語も多数存在する。パプアニューギニアは世界でもっとも多数の言語が消滅の危機に陥っている場所で、話者が200人以下に限られる言語が130もある。
想像してみて欲しい。
自分の話すことばが、書くことばが、この世界のうちのたった100人にしか伝わらなかったら。
たった10人にしか伝わらなかったら。
たった1人にしか伝わらなかったら。
そのたった1人と、一生めぐりあわなかったら。
自分には理解できない言語を話し、自分の話す言語を理解してくれないひとたちのいる世界で、あなたはどうやってすごすだろうか。
考えてみてほしい。
この世界。山ほどのコードと、山ほどの裏コードで織りなされた、適切なことば、適切な態度、適切な表情、適切な服装を要求してくるこの世界――それをすべてこなして、なんとかやっとわたっていけるこの世界で、他人のことばが理解できなかったら。
もし自分がそうなったら、わたしなら泣くか笑うかしかできそうにない。どちらも、人間がそれ以外どうしようもなくなったときにやる行為だと喝破したのはカート・ヴォネガットだ。
そして西宮硝子は後者を選択した。微笑むことを。

聴覚の障害により、世界との意思疎通に困難をともなう少女、西宮硝子。石田将也は転校してきた硝子がクラスに馴染めぬゆえに彼女をいじめはじめ、やがてそのこと自体がきっかけでいじめられる側に転じ、かつての硝子への態度を激しく悔いることになる。
原作のマンガも、映画も、障害やいじめといったナイーブな題材とまっこうから取り組んでいる。とくにこの映画では、硝子の声をあてた早見沙織の熱演もあいまって、観るものをいたたまれない気分にさせる。
抑揚の乱れた、聴覚障害者の発する声がいたたまれないのではない。
わたしたちが日々、仮面をつけてドアをくぐり、ギリギリの気分で電車にのり、ギリギリの気分で職場の同僚や学校の友達に微笑む、そんな暮らしのどこにも硝子の存在を受け止めるだけの余裕がないことを思い知らされて、いたたまれなくなるのだ。

しかしこの『聲の形』という物語の特異性は、そんな触れるだけで火傷しそうなセンシティブな題材にのまれることなく、むしろそれを逆手にとって、思春期に抱えるコミュニケーションの困難さという普遍的なテーマに昇華してしまったところにあると思う。どんな映画にも云えることだが、概要だけ聞いて二の足を踏んでいる人にこそ、ぜひ劇場に足を運んでもらいたい映画だ。

西宮硝子という存在は、障害をもっているにも関わらず、いつも微笑んでいて、自分をいじめている将也にさえ「友達になりましょう」と手話で語りかける「前向きで明るい」少女だ。感動ポルノだ!と指を突きつけるのを待ってほしい。彼女が、このカッコつきの前向きで明るい存在である理由は原作でもかなり終盤にならないと明かされず、映画ではついに彼女の口から語られることがない。西宮硝子は一種のブラックボックスとして、カッコつきの「前向きで明るい」存在として棚の上に置かれる。

そして彼女の周囲を衛星のようにめぐる他の登場人物たちは、まるで彼女の引力に引きずられるがごとく、自分のなかに黒々と鎮座する自分と他者とのディスコミュニケーション性について抉りだしはじめるのだ。

石田将也は、小学生のころの増長ぶりが嘘のようになりを潜め、すっかり他者とのコミュニケーションに絶望し、他人の顔をまっすぐに観ることができない。この映画にやたらと少女達のフェティッシュな生足が映るのはなにも大きなお友達の受容を満たすためではなく、他人を直視できないがゆえに足元を見つめながら生きていかざるを得ない将也の主観の反映だ。モブを含め、彼に拒絶されたキャラクターたちは顔に大きな「×」をつけられ、ちょっとピンク・フロイド ザ・ウォールを思い出させる。

植野直花は、硝子とは正反対(に見える)の社交性にあふれた少女だが、その攻撃性を他者にむけることを抑えられるほどには成熟していない。植野はパッと見にこの映画の敵役に見えるが、「あんたは結局、わたしと話すつもりなんてないのよ」と硝子が抱えたディスコミュニケーションを喝破し、正論しか吐けず他人を傷つける結果に涙する。彼女もまた、思春期のディスコミュニケーションに苦しむひとりなのだ。

佐原みよこというキャラクターに、内心共感を覚えていた人はじつは多いのではないか。彼女はかつて硝子に肩入れしたためにクラスから疎外され、不登校となる。そしてその自分の弱さを克服しようと努力する。その克服への告白が、上昇するジェットコースターの動きとシンクロするシーンの心地よさは、一瞬だけ映るフレアの入り込んだ青空とともに、この映画の「陽」の部分の白眉だろう。だが内心では彼女は自分は成長していないのではないかという恐れを感じていて、硝子と関わることでその恐怖とむきあうことになる。

川井みきは将也のいじめを「やめなよー」と半笑いでたしなめ、加害者には積極的に荷担しない。彼女はいちばんうまくコミュニケーションのゲームをくぐり抜けているように見えるが、裏では「仕切り屋」と陰口をたたかれ、みずから旗を振って千羽鶴をあつめようとしても、千羽をあつめきれない。まるでこのゲームを無傷でやりすごせる人間はいないのだとばかりに、彼女も涙にくれることになる。川井を偽善者と断じることは容易いが、断罪する指が自分のほうをむいたときに、わたしたちは果たして無実でいられるだろうか?

じつは誰よりも深い闇をかかえた真柴も、コミックリリーフの役を一身に担う永束も、少なくとも映画のなかでは血を流すことはなくとも、ひとりベッドのなかで枕をかかえて身悶えした夜があるはずだ。硝子の守護者であり、一見、彼らの青春とはファインダーを置いて距離をとっているようにみえる妹の結絃も、姉という巨大なディスコミュニケーションのブラックボックスの前で苦渋を味わう。

そして映画は、血だらけのディスコミュニケーションを描いたあとで、まるでそうなるのが当然というように、まっすぐに死にむかう。
橋での決定的な断絶のあと、この映画はおそろしく静謐で、なにかの予感に満ち溢れた夏休みに突入する。
画面からモブが消え、養老の滝や、養老天命反転地をさまよう硝子と将也はまるで世界から迷子になったようだ。
そして美しく、無残な、花火が夜の闇を照らす。

この映画が素晴らしいのは、死の予感に満ち満ちた夏休みから、一転、生への希望を描く、その反転の手並みが素晴らしく容赦がなくかつ周到だからだ。映画がタイトルバックからひたすらに描きつづけた、落下。将也が本来であれば映画がはじまって一分で飛び込むはずだった、「高い橋」。それを妨げる花火。「墜ちるなよ、少年」という警告のことば。繰りかえされる川への落下。これだけの手筈を踏んで、ようやく仮死を経て再生へといたる、本物の生が描かれる。それに触れることで、西宮硝子のブラックボックスは開放され、表情は豊かになり、一転してベクトルは死から生へとむかう。

この映画の前半は小鳥たちのためのチュートリアルであり、いつかフレームにおさまる、飛翔する二羽の鳥をとらえるためのはばたきにすぎなかったのだ。

そこからの最後の顛末は、どうぞ自分の目でたしかめて欲しい。綺麗事と目をそむける人もいるかもしれない。あたたかい希望に涙する人もいるかもしれない。
どちらの方も、監督・山田尚子が、その気になれば全身の皮膚を総毛立たせるような、瘴気あふれる本物の“死”を描ける作家だということを忘れないで欲しい。たとえそれが“過程”であってもわたしの目はごまかせない。
惜しむらくは、思春期の普遍的な問題によりすぎてしまったために、障害者としての硝子が現実とどう折り合いをつけていくのか、その具体的な行為が描かれなかったことだ。しかしおそらくは原作者も、監督も、本当に描きたかったものはそこではないと思う。

この文章を、わたしはMSゴシックのサイズ10で記している。
この世界に、わたしのことばを理解できる人がどれくらいいるだろうか。一億人? 二億人?
この拙いブログの文章を読んでくれる人がどれくらいいるだろうか。十人? 二十人?
わからないけれども、どちらにしろわたしは自分のことばがどこかに伝わるであろうという幸運にあぐらを書いてこの文章を書いた。
それすらもできず、はかりしれない孤独を抱えて、自分のなかだけでことばをぐるぐると回している人がきっとこの世には居る。
何度もこのことばを出して申し訳ない、そのことを考えると本当に、いたたまれない気分になる。
どうか、自分が、世界が、もう少しだけやさしく、もう少しだけ余裕をもてて、硝子のような人々の声に少しでも耳を傾けられますように。
あなたのやさしい声で紡がれることばが、どうか、誰かの耳にとどきますように。
勇気をだして、両手をあげて、「友達」のかたちをつくる。
その小さなきっかけに、この映画が成ればいい。
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