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生きながらフリッカーに葬られ

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「わたし」のための物語(前編) 横道世之介の巻。

  1. 2013/06/13(木) 00:26:50|
  2. 邦画
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」
という名言を残したのは北村薫先生ですが、これは映画についても同じことだと思うのですよ。

たった一つの名を持ち、取り替え不可能な家族と境遇を持ち、あーあどこか遠くへ行きたいよ、などとぼやいてみても
明日もまた同じ学校や職場に行かねばならない。
この世にたったひとりの人間であること、は時にとっても息苦しいです。
だからそんな人生でほんのひとときでも、違う空気が吸いたい、他人になった気分を味わってみたい。
そんな黄昏めいた欲望が、我々を銀幕の前へと誘うのではないでしょうか?

それなのに。
ときにそんなチンケな欲望をもったわたしたちの足元を掬ってくるような、とんでもないを持った作品に、
劇場でぶつかるときがあります。

「他人になってみたい」という欲望「いまのこの自分を肯定したい」という欲望
まったく相反する二つの欲望を持って劇場にのこのこ出かけた観客の存在を、
両手で床に叩き落とし、足で踏みつぶして全否定するような映画です。

yy400225.jpg

「横道世之介」は今年上半期に公開された邦画の中で、もっとも評価されたうちの一本ではないでしょうか。
もちろん興行収入的なことではなく、評価の面でですが。
沖田修一さんは『南極料理人』、『キツツキと雨』と前作までの評価も高く、その独特の柔らかな空気、
演出のゆったりとしたテンポなども含め、「やさしい気分になる」「青春映画の傑作」といった声を多く聞いたような
気がします。

しかし、この作品。わたしにとっては地獄でした。
いまのところ、今年劇場で観て、「殺して! いますぐ殺して!」と叫びそうになった映画はこれ一本です。

主人公である横道世之介は長崎県出身の十八歳。東京の大学に受かり、入学してきて、友人、ガールフレンド、
謎の美女などさまざまな人々と触れ合っていきます。
彼の人生を通り過ぎた、様々な人々から世之介の素顔が語られていきます。
主役の世之介を髙良健吾さんが好演しています。お人好しで、頼りなくて、でも人を引きつける魅力のある、
そんな世之介の「空気感」が伝わらなければこの映画自体が成り立ちませんが、髙良さんの存在感は見事です。

……あれ? 誉めてる?
地獄とか云っておいて?

そうです。この映画、客観的に見ればどう考えたって秀作なのですよ。脚本も見事なら、80年代を再現した美術も
見事、近藤龍人さんの撮影も見事なら、髙良さんはじめ俳優陣の演技も素晴らしい。
素直に見たなら、爽やかな青春を描いた、善意に満ちた秀作なのですよ。
たったひとつの悪意を除いて。
その悪意の名を、編集と云います。

この善意に満ちたやさしい柔らかい物語の底を、通奏低音のように耳障りに響く、ただひとつの悪意。
この物語では、いくつもの重要なシーンが抜け落ちています。
誰でも思うであろう箇所は、あれほどまでに愛し合った世之介と祥子は、なぜ別れたのか?
そこが全く描かれていないということではないでしょうか。
何故、描かれなかったのか?
そのことについて考えつめると、結論としてひとつの事実に辿りつかざるを得ません。
それはこの映画に限らず、映画で目にする全てのシーンは、制作者によって意図的に「見せられている」
シーンだと云うことです。

この映画には基本的に善意しか描かれません。
では横道世之介は悪意のかけらもない、善人だったのか。
わたしはそうは思いません。
恐らくは、涙はあったのです。愁嘆場は合ったのです。かつてあれほどまでに愛した相手に、愛故に知り得た
弱点めがけて、針のように鋭いことばを投げつけるような、そんなシーンもあったのです。
横道世之介は人間です。
彼には弱さがあったのです。
彼にはいやらしい愛欲にこころ惑される時があったのです。
彼には涙で枕を濡らす夜があったのです。
それらはすべて「編集」という無慈悲な神により削除され、あとに残るのは無臭脱臭された「爽やかな青春」。
これはひどすぎませんか? あるべき負の面を根こそぎ削っておいて、「世之介のことを思い出すと笑ってしまう」って
あんまりじゃないですか。人間をあまりにも単純化しすぎじゃないですか。
おれは横道世之介という映画は、人生に対する冒涜とすら思います。

人間は自分の人生を、ひとつの流れを持つ物語として記憶しています。それを物語的記憶と云います。
どんなに偉い人でも、あるいはどんな人間のクズのような人でも。
たった一つの物語を持つことはできます。その物語の価値は問いません。人には物語がある「はず」なのです。
あなたにも。わたしにも。

そんなおぼろげな人生観に、キックをくれたのが横道世之介でした。
たとえば、あなたの中でとても大事な思い出があったとして、映画にするとするならば、そのシーンがクライマックスに
なるかもしれない。それを、例えば誰かの恋の思い出だとしましょう。

ですが、その相手の誰かにとって、その思い出は記憶にも残らない軽い出来事だったとしたらどうでしょうか?
どうでしょうか、って問うておいてなんですが、答えは決まっています。誰かにとって特別なものが、相手にとっても
そうだとは限らない。人生の法則の一つです。

それならば。

わたしが関わりあってきたすべての人たちの人生の映画の中で、わたしの登場するシーンは
編集によってカットされるかもしれない。
あまり重要なシーンじゃないからね。後のシナリオに、影響を与えるようなカットでもないからね。
夏の日の花火も。
川辺でのキスも。
雪の日に見たあの紅色の頬も、白い息も。
あなたの映画では残っているかも知れないけれど、相手の映画の中ではあなたは編集でカットされている
かもしれない。

自分の関わりあってきた人たちの映画フィルムに鋏が入れられたら。
自分の映っているシーンはいくつ残るのだろう。
そして残ったシーンの集積から、自分という人間を計られたら、どれだけ辛いだろう。

こうやって書いているようなことも関係なく。
「ああ、はまりーさん? いつも笑っていましたね」なんて云われたら。
嫌だよ! 死んでも死にきれねぇよ!

二月にこの映画を見てから、ずっともやもやした物が溜まっていました。
自分自身の人生が編集によりカットされるノイズのようなものだとしたら。
「自分以外の人生」をスクリーンに追いかけること自体、どんな意味があるのだろう。
そんな疑問を払拭できなかったのです。

後編につづきます。



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