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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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思い出のマーニー ~湿地をわたって、木立を抜けて

  1. 2014/07/30(水) 23:57:28|
  2. 邦画
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marnieCP_postcard.jpg

この映画は、ジブリが初めてたどりついた正しいジュヴナイルです。
いや、むしろ児童文学といった方がよろしいか。
児童文学には頻繁に顔を出すのに、大人の小説にはめったに描かれない、ある一つのテーマがあります。
それは「居場所」の問題。心理的、社会的なよりどころのことを意味する居場所、ではありません。
もっと物理的な「わたしが手足を伸ばし、自由に占有できる空間」についての問題です。
ピアス「トムは真夜中の庭で」の主人公は、病気の療養のために親戚の家を訪れ、そのアパートの狭さ、味気なさに
苦しみます。マーヒー「危険な空間」では、同じく親戚の家にひきとられた一人の少女が、その家の居心地の悪さに
苦しみ、広々とした自分だけの空間を夢想します。そもそも児童文学の名作バーネット「秘密の花園」にしてからが、
心理的、社会的なよりどころのなさを、物理的な「居場所」を獲得することにより解消していく話でした。

大人になること、というのは物理的な「居場所」に対する繊細な問題意識を失っていくことでもあります。
狭いマイホームの中で追いやられたおとうさんが、夜中に台所の排煙ファンの下で煙草を吸うときに感じる切なさは、
そもそもその家族を、そして家を選択したのは自分自身である、という認識によって解消はされなくても納得できます。
だが、子供たちにとってはそうではない。家も、学校も、住んでいる街も、なにひとつ選択を許されてはいない。
「子供は、自分が含まれる状況について、まったく事前に知らされることなく家族に含まれる、唯一の構成員」とは
R・D・レインのことばです。ゆえに子供がまわりの環境に感じる違和感は先鋭化されます。

思い出のマーニーの主人公、佐々木杏奈もまた「居場所」の問題を抱えています。
わたしは映画やアニメの中に出てくる女の子の部屋の描写を見るのが大好きです。そこには作り手の少女とは何か、
という問題に対する解答が、無意識的に現れる気がするからです。
その杏奈の札幌の自宅の部屋の描写を見て、わたしは絶句してしまいました。
杏奈は絵を描くのが好きな少女として冒頭で描かれます。なのに壁には絵の一枚も掛かっていないし、本棚の蔵書も
圧倒的に少なくて、画集や写真集が並んでいるという描写もありません。
それはひとめ見ただけで忘れられなくなるような無残で無機質な味気ない部屋でした。
のちに語られることですが、彼女は母親と血で繋がっておらず、自分のいるべき場所がここだと確信を持てていません。
だからあの部屋は旅暮らしの人が泊まるホテルの部屋なのです。
広々とした自室を与えられているにも関わらず、彼女はその空間を仮住まいとしてしか規定していません。

その杏奈が釧路の親戚の家に療養のために訪れるところから、物語は動き始めるわけですが、この大岩家では
こんどは過剰なまでの色彩と豊穣さが描かれます。一見、「ああ、ジブリのいつもの綺麗な絵ね」で流してしまい
そうですが、これはもうはっきりと札幌の杏奈の部屋との対比です。

にも、かかわらず。
にもかかわらず、です。大岩家の家の色彩と豊穣さは、杏奈を救わないのですね。
釧路でも杏奈は自分の「居場所」を見つけることができません。
彼女を救うのは結局のところ、色の剥げた、一件の廃屋なのです。マーニーのいる家。
ふだんは水で隔てられた「彼岸」が、月の満ち引き――それは杏奈をはじめとするすべての女性のからだにも
影響を及ぼしています――によって歩いていける場所に変わる、という描写が素晴らしい。
そして欠けたもののある思春期の子供が、非日常との接触によって、それを満たしていく、という展開も、
また児童文学の王道の一つでもあります。

主人公、佐々木杏奈のたたずまいが、なによりも素晴らしいのですよ。
はちきれんばかりの矛盾をかかえた、思春期特有の子供の肉体の危なっかしさ、というのをわたしはいままでジブリの
作品で感じたことがありません。杏奈がベッドでうとうとしている。そんな描写ですら「かわいい、萌えー」ではなく「おいお
いお嬢ちゃん、無防備すぎるよ」と心配になってしまう。「リアルな少女」という命題と格闘し、宮崎監督が絞り出した作品
が「魔女の宅急便」でしかなかったことを思うと、米村監督おそるべし、です。

単なる「良い子」ではないし、斜にかまえて世をすねているわけでもない。
親戚のおばさんに笑顔を見せて、当の本人がいなくなるとふっと笑顔を凍らせる。
母親に出すはずのはがきの束を、おばさんの目がなくなると同時に無造作にベッドに放り投げる。
そんないたたまれなくなるような「思春期あるある」に杏奈の行動は満ちあふれています。

そしてそんな杏奈のアンバランスな佇まいは、物語の感情ラインにも独特の緊張感を与えます。
大人なら分厚い愛想笑いでスルーできるような場面でも、杏奈は薄皮一枚下の素顔をさらけ出してしまう。
お祭りでの信子との対峙は、その緊張感とリアリティで、本年度の映画の中でも名シーンの一つだと思います。
あのことばを出してしまう、子供ゆえの制限の効かなさ、残酷さ。そして受ける信子も、悠然としているようで
あとで「泣き崩れていた」と知らされます。そのリアリティ。いたたまれなくなるのはわたしたちもまた、何人もの
信子の手をいままで払いのけて生きてきたからです。そうやって傷つけて生きてきたからです。
そして傷つけた自分が嫌いで泣く。それは責任のない(だからつらいんだよ)子供にだけ許された涙です。

杏奈は自分でも自分の感情を制御できません。だから一方の極から極へ、感情がゆらめく。
クライマックスの、劇的な感情の反転を、唐突と受け取る方もいらっしゃるかもしれません。
わたしには制御不可能な情動を持つ少女として、ごく自然な流れだと思いましたが。凡百の映画なら
「ついていけないよ」となったかもしれませんが、冒頭からの「思春期あるある」描写がここで効いています。

そして危うい思春期の杏奈をつつむ、まわりの他者たちのなんと温かく――リアルに「他人」なことか。
端的に云って「わがまま」な杏奈を、大岩家の夫婦が叱る、という描写がひとつくらいあってもおかしくない。
わけのわからん思春期、というものに対峙したときそれが大人のとるべき正しい、そして楽な逃げ道です。
でも叱らない。かと云って避けもしない。ただ大人として、そばにいる。その描写も素晴らしかったですし。

あと、さやかですねぇ。マーニーとふたり、ふわふわとしたセカイに閉じていこうとする物語を、さやかはひとりで
地上に引き戻します。年頃からしたら「あら、わたしもそっちのセカイへ~」なんてなってもおかしくないのですが、
彼女の両足はしっかり大地に根付いています。それが説明セリフでなく、絵のちから、声優さんの演技によって
裏打ちされている。彼女は単なるワトソン役ではないんですよ。杏奈が地上に戻るためのパイプなんです。

アニメにおける少女というのは、フェティッシュな目線に満ちた、身体の動きの描写によって、リアリティを獲得して
きました。
少なくとも「けいおん!」はそれで説明がついたわけですが、本作でいうとマーニーとのきゃっきゃうふふシーン。
たとえばボートを漕ぐシーンやダンスを踊るシーンには、少なくともわたしは、まったくフェティッシュな嗜好を
感じることができませんでした。ありゃ、こりゃキマシ方面の方はがっかりかしら、と心配になったりしたのですが、
どうなのでしょう?

米村監督は少女の肉体性にはあまり感心がなく、さらに云うならドラマティックな作劇にもまったく興味がなく、
描きたいのはその感情だけだったりするのかなーと思ったりしたのですが。

ならばそれはやはり正しいジュブナイル、なのですよ。正しい児童文学、正しい児童映画。
宮崎駿なきいま、ジブリにはこのまま文芸路線を突き進んでいただくことを強く願います。

Seventh Code (セブンス・コード)

  1. 2014/03/10(月) 23:01:19|
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三千里 わが恋人の かたわらに 柳の絮(わた)の 散る日にきたる   ――与謝野晶子

pic01.jpg

明治四十五(1912)年、与謝野晶子は先に巴里へと旅立った夫・鉄幹に焦がれ、気も狂わんばかりの日々を過ごす。
五月、つのる思いを抑えきれず、晶子は鉄幹のあとを追う。新橋駅から旅立つ晶子を見送る人々の数は五百人にも
及んだという。匆々たる見送りの面子の中に、平塚らいてうの名も見える。
新橋から敦賀へ。そしてそこから船でウラジオストックへ。彼の地からはシベリア鉄道が西洋へとつながっている。

現代の極東の島国に住む我々には、ウラジオストックという場所がかつて持っていた象徴性は、即座に理解しがたい。
扉を開けてくぐり、振りかえれば、先刻まで入り口であったそれは出口となる。
ロシアの外れに位置するその街は、かつてモスクワから訪うた人にとっては終点の地であり、明治から昭和初期の
日本人にとっては、遙かなるヨーロッパへの始発点でもある、旅人が交差する土地だった。
晶子が旅立った十五年後には宮本百合子が、十九年後には林芙美子が、シベリア経由で洋行を果たしている。
強い女たちの名前が並ぶ。
当時の旅の困難さは想像を絶する。だが困難さをねじ伏せる強さ、しなやかさを彼女たちが持っていたことは、
彼女たちの創作物に触れることがあれば、即座に了解できるだろう。

ウラジオストックという街は、日本史に名を残すような強い女たちが、旅を始めた場所だったのだ。


黒沢清監督の新作「Seventh Code」である。
黒沢清は主役を演じた前田敦子に、「秋子(あきこ)」という役名を与えた。役名が示唆するところは云うまでもない。

秋子は、一人の男を捜し、ウラジオストックにやってくる。だが探し当てた男・松永(鈴木亮平)は彼女を拒絶する。
行く当てを無くした彼女は、彼の地でレストランを営む奇妙な日本人(山本浩司)に拾われる。そこには彼の恋人
である中国人の女(アイシー)が居た。レストランで働きながら、それでも松永を追い求める秋子の前を、ある日、
見覚えのある青い車が通りすぎる……。

本作の見せ場は、なんといってもウラジオストックという街そのものだ。
ウラジオストックこそが黒沢清にとって、そしてわれわれ黒沢ファンにとっての約束の地であったのだ。
いや、あのさぁ(急に口調を変えて)、われわれ黒沢ファンの、長年のいじましい渇望を知ってます?
そらもう、楽器屋のショーウィンドウの前でトランペットを眺める黒人少年に劣らんくらいの、渇きと憧れがそこにあったわ。
例えば、監督の前作「リアル ~完全なる首長竜の日」(感想はこちら)で、松重豊演じる父親が、廃墟にゴミを捨てる
シーンがありましたよね。あの背景の廃墟は実に「黒沢清っぽく」て、われわれファンはにやついたわけですが、
同時にそこに諦念があったわけですよ。カメラをわずかに左右に振れば、そこにはサラ金の看板とか、軽トラとか、
どうしようもない現実が広がっているのだろうと。黒沢清が現実からわずかに切り取ってくれる「黒沢清っぽい
ショット」(それは一作につき、多くても数ショットくらいのもんなんだけれど)でわれわれは満足するしかないと。
そこに本作ですよ。
もうどのショットを切り取ってみても、そこには黒沢清の刻印が押されているんですよ。
まるで黒沢清に撮られるためにこの街が存在するかのように。
あっちゃんが映画の中で曲がった路地。その一本向こう側の路地にすら、「黒沢清っぽい風景」が広がっていると
われわれは確信できる。
内部に鬱蒼とした緑の繁った廃工場、べたべたとポスターの貼られたレンガの壁、駅へとつづく濡れた舗道。
松永を追いかけて、山本浩司と前田敦子が街中を疾走するシーンなんか、ショット全てが恍惚感を与えてくれました。
右から左へ、斜め上方へむけて駆けて行く二人と交差して、左から右へ、斜め下方に電車が下りてくる!
その瞬間の、映画的恍惚!
松永の部屋の広大なムダ空間(オレンジのカーテンが印象的)しかり、ラストの荒野しかり。
こんなもん、日本で撮れないわ!
キヨシ、あんたのスケールに合った場所を見つけて良かったね! そのままロシアの子になっちゃいなさい!
……と思わず叫んでしまいそうになるほど、映画的豊穣さに満ちた、愉悦の一時間でありました。

これはまた、黒沢清という類い希なる監督が、前田敦子という類い希なる女優と出会った、幸福な一作でもあります。
前田敦子という女優さんは実に不思議な存在感を持っている方でして、「苦役列車」の頭突きで気づいた人は
気づいたと思うんですけれど、スタティックな状態から、ポジであれネガであれ、
いきなりエクストリームな方向へ突き抜けていく不穏な雰囲気
を身に纏った人なんですね。無表情でなんの動作もしていない時でも、次の瞬間にはとんでもない方向へ
突き抜けていきそうな。それは無論、黒沢清的な映画の瞬間でもあるわけなんですわ。
だからこの作品の終盤の展開は、完全に中の人当て書きで書いていると俺は思います。
前田敦子という人の中に、秋子という不穏な存在が眠っていることを、黒沢監督は見抜いたのでしょう。

有能な監督が、才気溢れる新人女優を起用し、約束の地で撮った。
こんな幸福な映画がまたとありましょうや。
まだ三月ではありますが、本作を今年度ベストワンとさせていただきます。


劇中、中国人の女、シャオイェン(アイシー)が、「力」について語るシーンがある。
それは「世の中を、私の望む方向へ、ちょっとでも変える」ものであると彼女は云う。
彼女は、斎藤(山本浩司)が「好きな店を出すとか、家を建てるとか、おいしい物を食べるとか」そう云った俗世的な
思考の軛から逃れられないことに苛立ちを感じている。力とはそういうものではない。
「世界」が強いるヒエラルキーの中で、わずかでも順位を上げること。それは「世界」に隷属することに他ならない。
シャオイェンは「世界」そのものからの飛翔を求めているのだ。

シャオイェンが去ったあと、斎藤は一か八かの賭けに出て、拳銃を手にする。
その自暴自棄な賭けは無残な敗北に終わるが、斎藤のせめてもの飛翔も、「世界」にとっては蝶の羽ばたきのような
ものに過ぎず、「世の中を、変える」ことはできない。斎藤の思考はどうしてもそこに至らない。

ただ一人、秋子だけが「世の中を、変える」力を持っていることが示される。
何の力もない、か弱い少女が、実は力を持っている。そこに奇妙な逆転がある。
gloria.jpg
先日、カサヴェテスの「グロリア」を遅まきながら観たのだけれど、劇中でグロリアが銃を撃つシーンで俺は驚愕した。
それはあまたのアクション映画で観てきた「銃」とはまるで違うしろものだった。なんの取り柄もない、老いた中年女。
その女が銃を取る時、銃声は弱者と強者の逆転を告げるファンファーレとして響いた。
銃ははっきりとした「叛逆」の象徴であり、シャオイェンの云う「世界を、変える」力であったのだ。

気づけば、「武器を手にした美少女」や「男より強い女」がフィクションの中で溢れた時代が現代だ。
だがそのうちの何人がグロリアや秋子が持っている「世界を、変える」力を持っているだろうか?
はっきりと弱者の立場に身を置きながら、強者の喉に突き立てる牙を持っている存在がどれほどいるだろうか?

秋子には過去の来歴も未来の展望も示さない。ふらりとやってきて、またいずこかへ去っていくその様は、
西部劇の主人公を彷彿とさせる。実際、本作は古典的な西部劇と同一の構造を持っている。

男と世界に隷属し、媚びを売るあまたの「戦闘美少女」の屍のむこうにある荒野。
その荒野に秋子は、前田敦子は一人、独り、屹立する。
願わくば、その荒野のむこうに、こちらへむかっていく新たな「力」を持った女が現れますように。
本作は、その時代の胎動をつげているのだ。


「わたし」のための物語(前編) 横道世之介の巻。

  1. 2013/06/13(木) 00:26:50|
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「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」
という名言を残したのは北村薫先生ですが、これは映画についても同じことだと思うのですよ。

たった一つの名を持ち、取り替え不可能な家族と境遇を持ち、あーあどこか遠くへ行きたいよ、などとぼやいてみても
明日もまた同じ学校や職場に行かねばならない。
この世にたったひとりの人間であること、は時にとっても息苦しいです。
だからそんな人生でほんのひとときでも、違う空気が吸いたい、他人になった気分を味わってみたい。
そんな黄昏めいた欲望が、我々を銀幕の前へと誘うのではないでしょうか?

それなのに。
ときにそんなチンケな欲望をもったわたしたちの足元を掬ってくるような、とんでもないを持った作品に、
劇場でぶつかるときがあります。

「他人になってみたい」という欲望「いまのこの自分を肯定したい」という欲望
まったく相反する二つの欲望を持って劇場にのこのこ出かけた観客の存在を、
両手で床に叩き落とし、足で踏みつぶして全否定するような映画です。

yy400225.jpg

「横道世之介」は今年上半期に公開された邦画の中で、もっとも評価されたうちの一本ではないでしょうか。
もちろん興行収入的なことではなく、評価の面でですが。
沖田修一さんは『南極料理人』、『キツツキと雨』と前作までの評価も高く、その独特の柔らかな空気、
演出のゆったりとしたテンポなども含め、「やさしい気分になる」「青春映画の傑作」といった声を多く聞いたような
気がします。

しかし、この作品。わたしにとっては地獄でした。
いまのところ、今年劇場で観て、「殺して! いますぐ殺して!」と叫びそうになった映画はこれ一本です。

主人公である横道世之介は長崎県出身の十八歳。東京の大学に受かり、入学してきて、友人、ガールフレンド、
謎の美女などさまざまな人々と触れ合っていきます。
彼の人生を通り過ぎた、様々な人々から世之介の素顔が語られていきます。
主役の世之介を髙良健吾さんが好演しています。お人好しで、頼りなくて、でも人を引きつける魅力のある、
そんな世之介の「空気感」が伝わらなければこの映画自体が成り立ちませんが、髙良さんの存在感は見事です。

……あれ? 誉めてる?
地獄とか云っておいて?

そうです。この映画、客観的に見ればどう考えたって秀作なのですよ。脚本も見事なら、80年代を再現した美術も
見事、近藤龍人さんの撮影も見事なら、髙良さんはじめ俳優陣の演技も素晴らしい。
素直に見たなら、爽やかな青春を描いた、善意に満ちた秀作なのですよ。
たったひとつの悪意を除いて。
その悪意の名を、編集と云います。

この善意に満ちたやさしい柔らかい物語の底を、通奏低音のように耳障りに響く、ただひとつの悪意。
この物語では、いくつもの重要なシーンが抜け落ちています。
誰でも思うであろう箇所は、あれほどまでに愛し合った世之介と祥子は、なぜ別れたのか?
そこが全く描かれていないということではないでしょうか。
何故、描かれなかったのか?
そのことについて考えつめると、結論としてひとつの事実に辿りつかざるを得ません。
それはこの映画に限らず、映画で目にする全てのシーンは、制作者によって意図的に「見せられている」
シーンだと云うことです。

この映画には基本的に善意しか描かれません。
では横道世之介は悪意のかけらもない、善人だったのか。
わたしはそうは思いません。
恐らくは、涙はあったのです。愁嘆場は合ったのです。かつてあれほどまでに愛した相手に、愛故に知り得た
弱点めがけて、針のように鋭いことばを投げつけるような、そんなシーンもあったのです。
横道世之介は人間です。
彼には弱さがあったのです。
彼にはいやらしい愛欲にこころ惑される時があったのです。
彼には涙で枕を濡らす夜があったのです。
それらはすべて「編集」という無慈悲な神により削除され、あとに残るのは無臭脱臭された「爽やかな青春」。
これはひどすぎませんか? あるべき負の面を根こそぎ削っておいて、「世之介のことを思い出すと笑ってしまう」って
あんまりじゃないですか。人間をあまりにも単純化しすぎじゃないですか。
おれは横道世之介という映画は、人生に対する冒涜とすら思います。

人間は自分の人生を、ひとつの流れを持つ物語として記憶しています。それを物語的記憶と云います。
どんなに偉い人でも、あるいはどんな人間のクズのような人でも。
たった一つの物語を持つことはできます。その物語の価値は問いません。人には物語がある「はず」なのです。
あなたにも。わたしにも。

そんなおぼろげな人生観に、キックをくれたのが横道世之介でした。
たとえば、あなたの中でとても大事な思い出があったとして、映画にするとするならば、そのシーンがクライマックスに
なるかもしれない。それを、例えば誰かの恋の思い出だとしましょう。

ですが、その相手の誰かにとって、その思い出は記憶にも残らない軽い出来事だったとしたらどうでしょうか?
どうでしょうか、って問うておいてなんですが、答えは決まっています。誰かにとって特別なものが、相手にとっても
そうだとは限らない。人生の法則の一つです。

それならば。

わたしが関わりあってきたすべての人たちの人生の映画の中で、わたしの登場するシーンは
編集によってカットされるかもしれない。
あまり重要なシーンじゃないからね。後のシナリオに、影響を与えるようなカットでもないからね。
夏の日の花火も。
川辺でのキスも。
雪の日に見たあの紅色の頬も、白い息も。
あなたの映画では残っているかも知れないけれど、相手の映画の中ではあなたは編集でカットされている
かもしれない。

自分の関わりあってきた人たちの映画フィルムに鋏が入れられたら。
自分の映っているシーンはいくつ残るのだろう。
そして残ったシーンの集積から、自分という人間を計られたら、どれだけ辛いだろう。

こうやって書いているようなことも関係なく。
「ああ、はまりーさん? いつも笑っていましたね」なんて云われたら。
嫌だよ! 死んでも死にきれねぇよ!

二月にこの映画を見てから、ずっともやもやした物が溜まっていました。
自分自身の人生が編集によりカットされるノイズのようなものだとしたら。
「自分以外の人生」をスクリーンに追いかけること自体、どんな意味があるのだろう。
そんな疑問を払拭できなかったのです。

後編につづきます。




『リアル 完全なる首長竜の日』 それでも彼女はいなくならない。

  1. 2013/06/10(月) 01:57:08|
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ICO.jpg

黒沢清、という名前を聞くと、どうしても胸の高鳴りを抑えられません。
ましてやその新作がたった現在、劇場でかかっているこの瞬間に、どうしてそれについて語らずにいられましょうや。

黒沢清って誰? 知らないよ、という方のためにざっとおさらいを。
黒沢清は、相米信二が80年代からずっともがき苦しんでいた、ジャンル映画と作家性の葛藤という
おもーい十字架を譲り受けた方です。

そもそものキャリアの始まりが神田川淫乱戦争(ドレミファ娘の血は騒ぐ)というピンク映画でした。
黒沢清は、ここでピンク映画という枠組みの中で精一杯、ジャンル映画にあらがってみせます。
それはもはや、ゴダールのデッドコピーと云ってもいいような、とても純粋なピンク映画とは云えない出来でした。
その後、スゥイートホームというビッグバジェット(国内ではね)ホラー映画の興行的大失敗を経て、
黒沢清は「自分の描きたい作品をジャンルの枠を飛び越えて描く」ということが不可能になりました。
そのため仕事を選べなくなり、次に受けたのが哀川翔主演のVシネマです。
ところが「蜘蛛の瞳」「蛇の道」という二作が、傑作でした。
ぎりぎりでVシネマの枠の中におさまっているのですが、オマージュを捧げているのはあいかわらずゴダールです
しかも哲学的で虚無的な、あまりにも暗いクライマックスの後味は「ジャンル映画の枠を越えた」と評判になりました。

その後、黒沢清はホラーに活躍の場所を移します。やはりジャンル映画です。
ですがおりしも時は20世紀末、小中理論というドグマを得て、役者は揃っていました。
Jホラーの快進撃が始まります。
黒沢清もその中で、「CURE」「回路」「降霊」「カリスマ」など、名前を並べるだけで陶然とするような傑作を連打します
その後の黒沢清のキャリアはホラージャンルに収まりませんが、いまでも黒沢と云えばホラーを思い浮かべる人
(おれ含む)は多いと思います。

黒沢清の最大の特徴は現実が描けないってことです。
それは郊外の中流家庭の崩壊を描いた「トウキョウ・ソナタ」の許し難いほどのリアリティの無さが証明していると
思います。黒沢映画はやはり象徴であり、夢なんですよ。現実ではない舞台で、役者たちは現実を模した動きを
する。そこで黒沢映画は最大の運転効率を発揮します。だから夢の世界が舞台の本作の題材チョイスは、
ベストにしてマストだったのではないでしょうか。

冒頭、昏睡状態の恋人=綾瀬はるかの意識内にダイブした佐藤健は、まるで重力がないかのように、ふわりと恋人
の手から浮き上がり、宙を舞うペンを目にします。
これは黒沢清の開戦の狼煙です。ここはもう現実じゃない。現実の法則は通用しない。
ゴングは鳴りました。現実の法則やルールが通用しないのだから、この映画の前半の手触りは限りなくホラーに
近いです。いつ、どんなアングルで、どんな恐ろしいものが映るかわからない。

黒沢清も、まるでこの作品を自分の集大成とすると決めたかのように、持てる技術のすべてを振り絞ります。
もちろん「小中理論=Jホラー」の技術です。肩越しに対象を見つめるカットが、横からのカットに変わった瞬間、
もう対象は消えている。あるいはいるはずもないものが画面に映っている。「いかにもなにかよからぬものが
映りそうな」画面の余白。いつ驚かされるのかという緊張感で前半はつづきます。

しかし、「いつ消えるかわからない」「いつ変質するかわからない」画面内の対象は、恋人なのですよ。
そこがちょっと、凡百のホラーと違う。
ふわりと消えてしまいそうな綾瀬はるかの存在感を出すために、ホラー的演出があるのです。

物語の中盤で、ある大きな転換が起こります。
ルールの書き換えが行われ、攻守の逆転が行われる。
もはや綾瀬はるかは、Jホラーの技術をもって描かれる、「いつ消えるかわからない」あやふやな存在ではない。

中盤、綾瀬はるかと、佐藤健が、バストショットの切り返しの連続で、会話をつづけるシーンがあります。
いままでの思わせぶりなホラーのアングルとは違う、真正面からのバストショットです。
小津映画すら思わせる安定したショット。
ここで、われわれは黒沢清からの明快なメッセージを受け取ります。
前半の、いまにも消えそうな、ホラー的な存在だった綾瀬はるかは偽りのものだった。
黒沢清が、二十数年に渡って築き上げてきたJホラーの技術は、なんとヒロインの虚像を映し出すための方便で、
それは中盤で破り捨て去られます。
自家薬籠中のものだったJホラーの技術を、黒沢清はブラフとして惜しげもなく使い捨てたのです!

もう、ここで感動して涙が止まりませんでした。
自分の殻を破り、ブレイクスルーを果たすことにより、黒沢清は新たな境地に達したのです。
それが実にシンプルで力強い、愛の物語というのがたまらないではないですか!

前半の不安定感が嘘のように、綾瀬はるかは後半、一瞬たりともフレームアウトしません。
どっしりとした安定感を持って、画面に居座りつづけます。

それに追い打ちをかけるのが、クライマックスの海辺のシーンでしょう。
ここで佐藤健を追いかけて、なんと綾瀬はるかは疾走するんです!
黒沢キャラの疾走なんて、いままで見たっけ? 記憶にありません。
必至で走り、恋人とのあいだを隔てる門をゆさぶり、門をよじ登り、あまつさえ門から落下します。
夢の中に、生々しい身体感覚を用いることにより、切実感と感動が生まれます

昨今、口先だけで語られる愛のなんと多いことか。
綾瀬はるかの疾走は、なによりも雄弁に愛を語っていたような気がします。

そしてラスト。
佐藤健が目覚める病室の窓の外に雲の切れた、晴れた空。
そして画面が明るくなる(照明さんと撮影さん素晴らしい!)
タイトルバックの、あのあまりにも印象的な曇天との対比。
これ以上、完全無比なハッピーエンドがありましょうや?

タイトルの首長竜の登場とか、寓意の具現化に非常にすぐれたファンタジーであり、そしてなによりこれは
感動的な、愛する者が、愛する者を救う話です。
ゲーム『ICO』で、手を引くのが男の子でも女の子でもかまわないと思うのです。
大事なのは、手を離さないこと。
これはそんな、黒沢清が屈折の果てにやっとつかみとった、シンプルなハッピーエンドです。

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