生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


ゴーン・ガールの感想を失恋自殺したTくんの霊に語ってもらった

  1. 2014/12/11(木) 23:14:04|
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ニック(ベン・アフレック)とエイミー(ロザムンド・パイク)は誰もがうらやむ夫婦のはずだったが、結婚5周年の記念日に突然エイミーが行方をくらましてしまう。警察に嫌疑を掛けられ、日々続報を流すため取材を続けるメディアによって、ニックが話す幸せに満ちあふれた結婚生活にほころびが生じていく。うそをつき理解不能な行動を続けるニックに、次第に世間はエイミー殺害疑惑の目を向け……。(シネマトゥデイより)


「鳥に鳴くなと言える? 鳴いた鳥はうるさいから、ライフルでうてる?」
                    ――大島弓子 「夏の終わりのト短調」




やぁ。
ぼくは十八ヶ月ほど前に
恋に破れて白い首を吊った、悩めるTの亡霊だよ。
妙なる響きに誘われて、天界に上ったけれど
映画館の闇が恋しくて、すぐに地上に舞い戻ってしまったんだ。

それで『ゴーン・ガール』を観たんだけれど、これは犯罪映画だよね。
拉致と誘拐に関する映画だ。
拉致はひどいよね、自由が無くなってしまうから。
でもぼくは誰も拉致してくれなくて、それでしょうがなくて自分で首をくくったんだ。

縛りつけられて、自由がなくなって、「ここから出して!」と叫ぶ人たちを見ると、ぼくはとても奇妙な気分になる。
だってその罠にとびこんでいくのはいつも彼ら自身なんだから。
蜜壺にはまった蟻みたいに、たっぷりとした自由に身を浸しているうちには
その罠はとても蠱惑的に見えるのかな?
ぼくは首をくくる前に、拉致される人たちを何人も見たよ。
彼らはいつも拉致されるとき、しあわせそうに微笑んでいた。
彼らの指には、いつも加害者と被害者の名前が刻まれた指輪が輝いていたよ。

もうひとつの犯罪、誘拐についても語ろう。
誘拐もひどい犯罪だ。卑怯者の犯罪だよ。人質を取って、自由を無くしてしまうんだから。
卑怯な犯罪だけれど、悲しいことにこの世界からこの犯罪は無くならない。
毎年、何人、何十人、何百万人の被害者が出ている。
責任感と、血への親愛と、憎しみが、彼らを身動きできなくさせる。
何百万人もの被害者が出ているとさっき云った。
それなのに世間が騒がないのは、被害届がほとんど出ていなくて、それどころか被害者本人が自分が誘拐の被害者だと
気づかず、笑って過ごしているからだ。
誘拐の加害者に頭を撫でられて、被害者は満足そうに微笑んでいるんだよ。

加害者と被害者がいるから犯罪なの?
世間がそれは犯罪だと認めなければ、犯罪にはならないの?
ぼくにはわからないことだらけだよ。

それでもこんな風に映画館の暗闇で
浮き世のあれやこれやを見せつけられていると
生きていることが懐かしく感じられてしまう。
あの風を頬に受けて、生の実感を感じたくてたまらなくなるんだ。

でも、
恋だけはごめんだよ。
おお、神さま、勘弁してください。
恋だけは、もう二度と、ごめんだ。


フューリー ~戦争というお仕事

  1. 2014/12/09(火) 01:30:32|
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DF-11183_s.jpg

中学校のクラスメイトに、タカハシくんという男の子がいた。
喘息もちで、いつも吸入薬のケースを手放さず、女の子みたいに細い肩をしていた。田舎の中学校らしく臑毛だらけの
ジョックスが幅をきかせる弱肉強食の世界で、彼は目立たない生徒だった。勉強でも、もちろん運動でも、秀でたところは
なかったと思う。

彼が痩身に似合わない偉大な情熱の持ち主であることを知るのは、中学二年の秋のことだ。
タカハシくんは突然、「大脱走」にズッ嵌りした。いま思い返してもその嵌りっぷりは常軌を逸していた。
うちの中学校は野球に力を入れていて、グラウンドは高いフェンスに囲まれていた。
体育の授業の最中、彼は突然そのフェンスに奔り出し、よじ登り出す。体育教師が怒鳴り声を挙げると、彼は片手で
フェンスにつかまったまま絶命した。少なくとも、そのフリをした。もちろん「大脱走」の中で命を落とす哀れなアイルランド人、アイブスのものまねだ。この辺はまだボンクラ中学生エピソードとしてかわいいものだが、クラスの男子全員分の
偽造パスポートを彼が作ってきたときには目を疑った。画用紙を切ってつくった偽造パスポートには、いまでは懐かしい
英語の筆記体でわたしの本名(偽名に変換されていたように思う)と似顔絵と偽の経歴が記されていた。
わたしは海外渡航の経験がないので、あれが生涯で唯一のパスポートということになる。無くしてしまって惜しいことをした。

特筆すべきは、いつもタカハシくんやわたしのことを小馬鹿にしていた筋肉ダルマたちも、タカハシくんの熱狂にあてられ
てしまったことだ。べつに彼らと親友になったりはしなかったが、年末の大掃除の時に校外脱出のためのトンネル作成
プランを、ああだこうだとみんなで激論した記憶はある。大脱走を録画したタカハシくんのVHSテープは、クラスの男子の
あいだを回って、最後にはボロボロになっていた。

≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒

あのとき、なんだって我々は自分が生まれる前に撮られた古い戦争映画に熱狂したんだろうか?
八〇年代初頭、マンガでも、ドラマでも、他に熱狂の種になるようなものはそこかしこに転がっていたのに。
歳をとってしまってからの総括でしかないけれど、あのとき我々を突き動かしていたのは、「実質」への渇望だったように
思う。いつの時代だってそうだろうけれど、子供時代というのは世の中の「実質」とは隔離(保護とも云う)されている。
なんの役に立つのかわからない勉強、なんのために通っているのかわからない学校、そんな世界の中で、真剣な顔で
なにやら世界とガチで切り結んでいる大人たちの背中だけが見えるもどかしさ。親が自営業だってんなら別だが、我々
には当時、大人がなにをやって生活しているのか、まるでわからなかったし、そのことに漠然とした恐怖を感じていた。

その中で、「大脱走」だけが、大人たちが日々勤しんでいるはずの「仕事」について、手がかりを与えてくれた。
あの映画は詳細に、大人たちが目標へと達するまでの日々の作業を描いている。トンネルを掘ったり、兵舎から物資を
くすねたり、畑に土を捨てたり。彼らはふざけてはいない。真剣だ。だからわたしたちはそこにリアルな「大人の仕事」の
匂いを、正面切って世界と切り結ぶ、「大人の生活」の匂いを嗅ぎつけたのだ。

そうして、まぁ、大人になってみると、自分が日々勤しんでいる「仕事」は、中学生が「大脱走」の世界から夢想したものと
ずいぶん違っていたなぁと苦い笑いが込み上げてくる……と書きたいところだが。

映画の中に描かれた「仕事」、その本質がいちばん高度に象徴化された作品を拾い上げてみると、やはり戦争映画に
行きつくような気がするのだ。
たとえば、まぁ、なんでもいいんだけれど、ヤクルトのおばちゃんが自転車のカゴにジョアをつめたり、TSUTAYAの店員が
新作DVDのパッケージをシュリンク包装したり、新聞配達員が新聞紙にチラシを挟んだり、ビル管理員が分電盤で分離器
の二次側にテスターを当てて無電圧を確認してから絶縁測定を行ったり。
そういった行為を詳細に描いて、「ああ、そうだ、働くとはこういうことだなぁ」と実感できる映画がぱっと思い浮かばない。
仕事を描いた映画のシーン、というと真っ先に思い浮かぶのが
「蛇の道」で哀川翔が無表情に書類にハンコを推しているシーンだったりする
のは自分でもどうかと思うけれど。

その当たり、映画というのは本当におかしなもんで、戦争なんて、たずさわる者、それ自体の破壊を目的とした究極に
無意味な作業なはずなのだけれど、その場面を活写したものに、人が使命感を持ってなにかに携わること、仕事、という
ものが見事に浮かび上がったりする。

コンプライアンスなんか馬に食わせろ。人間、仕事に熱中しちゃうと自分の道義的立場なんてどうでもよくなっちまう
んだよ、ということを描いたのが『戦場にかける橋』。いやぁ、それでもやっぱりマニフェストといっしょに産業廃棄物と
良心の呵責を業者に押しつけちまうのはどうなのよ。いくら商売って云っても越えちゃ行けない一線があるでしょ、
ってのを描いたのが『カジュアリティーズ』。就活に失敗して人生の敗残者扱いされたけど、中小企業で肉弾営業
頑張りまッス!な『特攻大作戦』、うちの会社ブラックで上司もクソだけど金(Cross of Iron)のために働いてるんじゃ
ねぇ、自分のプライドのために働いてるんだ、な『戦争のはらわた』、うちの会社ブラックで上司もクソだわ。接待
マージャンの席を利用して上司の上司に取り入ってみたけどやっぱり無理だわ、な『攻撃』。


『攻撃』や『戦争のはらわた』や、それに『ブラックホーク・ダウン』では、敵の存在は可能な限り希薄になっているけれど、
そうなると「なんのためにこんな仕事やってんだろ」という空虚感がさらに顕著になる。昨今の就業状況の悪化で、蟹工船
な暮らしに喘いでいる向きにはこの三本はお薦めだ。

さて、それではデビッド・エアー監督作、『フューリー』はどうだろうか。
1945年4月、欧州戦線。ドイツに侵攻中の米兵、ウォーダディ軍曹は、「フューリー」と名づけたM4中戦車を率いていた。
冒頭で戦死(かなりきついゴア描写あり)した砲手の代わりに、新兵ノーマンが配属されるが、元々タイピストだった彼は、
荒々しい戦車兵たちに馴染めない。そんな中、「フューリー」に乗る五人の男たちに、決死の任務が命じられる……。

この設定で目を引くのはやはり「1945年4月」という極端な時間設定だ。あと一ヶ月で戦争は終わってしまうのだ。
頭を低くして「終戦」までやり過ごすような暮らしをしている身としては、セーフラインのぎりぎり外で生死を賭ける男たちの
生き様に暗澹たる気持ちになる。

やたらと明確な時制とは逆に、舞台は抽象化されている。フューリーの最終ミッションの場所がどこで、どの作戦の
一端を担っているのか、よくわからない。ウォーダディーたちの決死の覚悟とはうらはらに、そのミッションの目的も
なんだかあやふやだ(というかほとんど特攻に近いような無茶ぶりの任務だと思う)。

任務の目標があいまいなのは、これは史実の再現を企図した映画ではないからだ。『戦争のはらわた』や『高地戦』の
ように、巧みに抽象化された舞台をもとに、男たちの苦難と生き様を浮き彫りにするのが目的だと思う。
そう云えばデビッド・エアーは『エンド・オブ・ウォッチ』でも『トレーニング・デイ』でも、極端に危険な仕事に携わる人々を
描き、その生き様を浮かび上がらせる名手だった。

いつまで観ていても戦争の大局はさっぱりイメージできず、その代わり「フューリー」に乗り込む五人の男たちの輪郭は
くっきりと伝わってくる。それがまた、誰も彼も記号的イメージに収まらず、複雑な面を垣間見せる。野卑なクーンアスは、
新兵いじめの仇役かと思いきや、思いもかけぬ素直で純粋な心情を吐露する。ゴルドやバイブルも、最初はノーマン
につらく当たるのだが、ノーマンの成長と共に彼を認め、一員として受け入れる。
その様が、セリフだけでなく、土壇場まで切羽つまった戦闘の最中の動作で描かれる。
そう、動作。

ウォーダディーが命令し、操縦手のゴルドが戦車を縦横に操り、ノーマンが機銃を撃ちまくり、クーンアスが弾を込め、
バイブルが主砲を撃つ。
その過程は劇中で何度も繰り返され、ストーリーが進行し、五人が深みに嵌っていくごとに、その動作の流れには生理的
快感を覚えるようになる。最初は銃を撃つことすらためらっていたノーマンが、糞ったれナチどもをなぎ倒していくうちに、
彼らは互いを補完し、高め、互いに欠くべからざる存在になっていく。
ああ、「仕事」ってこんな感じじゃなかったっけ。
最初は馴染めず、意味もわからず身体をこわばらせながら行っていた作業が、違和感なくこなせるようになる。
自分だけに凝り固まっていた意識が、すぐ隣で働いている同僚の動作までを自身の範疇として含むようになり、
ことばに出さなくても互いを補うように動けるようになる。

「フューリー」はイニシェーションの映画だけれども、ノーマンが初めて人を殺したことによって通過儀礼を終えた、という
描写ではなく、人殺しの「仕事」を、自分のものとしてこなしていく過程をアクションとして描いているところが新鮮だった。
ただその過程を、手元を写して細かく描写するのではなく、顔のアップで済ませてしまうのは大きな不満を感じたけれど。

ノーマンが、人殺しという「仕事」の一部を機械的にこなせるようになったとき、マシンという名が与えられるのは象徴的だ。
彼は役立たずで未熟な「坊や」から「仕事」の部品となったのだ。彼に新しい名が与えられた直後、まるで当たり前のように
ノーマンを「マシン」とさらりと呼ぶウォーダディーに涙がこぼれた。それは政治的に正しくない描写かもしれないけれど、
少なくとも社会未熟適応者だった自分が、「仕事」の中で自分の居場所を見つけてきた過程と、確かに重なって見えた。

≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒

タカハシくんとは、卒業後に、いちどだけ故郷の街で会ったことがある。
懐かしさに駆け寄ったのはわたしの方だった。彼の迷惑そうな顔に気づかず、そうそう、タカハシくんの美人のお母さん
は元気?と訊ねたわたしに、タカハシくんはぶっきらぼうに死んだよ、と答えた。病気だったそうだ。
酒乱だった父親から母親と一緒に逃げ出して、彼はその街で二人で暮らしていたのだと云った。
母親が亡くなったから、もうすぐ父親が住む横浜に引っ越すのだと。
そのあと会話がはずむこともなく、わたしたちは別れた。タカハシくんとはそれきり会うことがなかった。
彼が『大脱走』にどんな理想の大人像をたくしていたのか、わたしは知らない。想像してみることしかできない。
会うことはもうないだろうけれど、どこかの街でタカハシくんがふとむかしのことを思い出し、劇場に「フューリー」を
観に足を運ぶようなことがあったら、彼に映画の感想を聞いてみたい気がする。




インターステラーにハマったあなたに薦めるSF小説6本

  1. 2014/11/27(木) 23:39:04|
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1、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド


世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)
(2010/04/08)
村上 春樹

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インターステラーはとてもドメスティックな映画だと思います。
外宇宙の冒険を描いた169分の顛末に至るまで、わたしの精神は地上から一ミリたりとも離れることがありませんでした。
Twitterの感想の方ではついつい「これはSFじゃない」などと書いてしまったのですが、これはまぁ、半世紀前から変わらぬ
SF原理主義ブタ野郎の偏狭な妄言だと思っていただいて構いません。
ですが、そもそもクリストファー・ノーランは宇宙に興味がない、というのは外していないと思います。
ノーランという人はとても奇妙な監督です。CG嫌いの現物主義。ではリアリズムの人なのかと云えばそんなことはない。
彼が描くのはいつも寓話です。あっけらかんと明け透けに描かれる「現物」がいつも観客の判断を狂わせがちですが、
ノーランの描くものはいつも照度の高い、現実「っぽい」絵面で描かれた寓意をたっぷり含んだ御伽噺のような気がします。

インターステラーで描かれた宇宙というのは、村上春樹が「世界の終わり~」で描いた壁の中の世界のような、あるいは「輪るピングドラム」が描いたような、寓話的な空間ではなかったでしょうか。

『でも僕は自分がやったことの責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ』

そして恒星間空間(インターステラー)もまた「僕」の中にあるのでしょう。
この映画で描かれるのは恒星までの距離ではなく、終始一貫して故郷までの距離です。


2、故郷から10000光年


故郷から10000光年 (ハヤカワ文庫SF)故郷から10000光年 (ハヤカワ文庫SF)
(1991/04)
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア

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郷愁というとなんだか甘ったるい感情のようですが、ティプトリーのこの短編集で描かれるのは、脳を焦がしそうなくらいに
切実で逼迫した、作品によってはそれこそ身体的な痛みをともなうような強い望郷の念です。
タイトルではっきりと示される、もはや手遅れなくらいはるか彼方に遠ざかってしまった、故郷。
インターステラーでマコノヒーの絶望に共感した方なら、この短編集に描かれた「絶望的な郷愁」に感じ入るかと。
ティプトリーが描くのは冷たい絶望だけではなく、それでも故郷を目指す強い意志です。
「故郷へ歩いた男」という短編は、いま読み返せばきっと主人公の顔がマコノヒーでしか思い浮かばないでしょうね。

3、海を失った男


海を失った男 (河出文庫)海を失った男 (河出文庫)
(2008/04/04)
シオドア スタージョン

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宇宙から帰還しようとする男の話、といえばもう一本、スタージョンの「海を失った男」を忘れるわけにはいきません。
ここではティプトリーの作品よりもさらに純粋な形で、強い意志の力が描かれます。
望郷の念というよりも、もっと剥き出しな、死や、理不尽な運命に抗う、意志。
SF界随一の文才家と呼ばれたスタージョンが、超絶技巧を惜しげもなく振るい、最高にエモーショナルな瞬間へと
読み手を導きます。
わたしは何度読んでもこの短編の最後でボロ泣きしてしまいます。

4、中継ステーション(クリフォード・D・シマック) 絶版

じつを云うとインターステラーでいちばん「うわぁアメリカのSFっぺぇ!」と思ったのは冒頭のコーン畑のシーンなのです。
古き良きアメリカSFの宇宙はいつも、地平線まで広がる畑や、フェンダーに泥のついたトラクターや、移動遊園地の
ジンタと地続きの空間にあるのです。コーン畑の次の瞬間に宇宙に繋がるこの映画の世界観は、すごくアメリカ的だと思う。

中継ステーションはSFの古典ですが、物語は終始、ウィスコンシン州の古い農家で展開します。その農家の中に、銀河系
へと繋がる転送ステーションがある、という筋立てなのです。宇宙に出ても原風景を手放さないぜ、というアメ公のド根性
が感じられて、たいへんに微笑ましいです。

ロン・ハワードの「アポロ13」で、ビル・バクストンがこんなセリフをつぶやきます。
「俺の友達は一生を生まれた街から出ることなく死んでいくんだ。それなのに俺はこんな遠い場所にいる。奇妙だな」
アメリカ人の宇宙観をよくあらわしたセリフだと思います。

5、ねじまき少女


ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)
(2011/05/20)
パオロ・バチガルピ

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個人的にインターステラーでちょっとがっかりしたのは、環境の変化で荒廃し、食糧不足に悩む地球の姿が、まるで
説得力をもって描かれなかったこと。開始早々、ああそういう映画じゃないんだな、と割り切るしかありませんでした。
コーン畑の上をインド軍の無人ドローンが飛んでるあたりで、おお!ヨコハマ買い出し紀行が始まるか!とか思った
んですけどね……。
というわけで「ぼくのかんがえたすごいいんたーすてらー」はバチガルビのこの傑作で補うことにしましょう。
疫病の流行により穀物が壊滅し、同時に石油資源が枯渇。遺伝子操作によって生まれた巨大なゾウもどきに車輪を
まわさせて、そのエネルギーを「ネジ」にためて人々がぎりぎりに生きている世界。
ネジ駆動の人造少女なんてのが出てきて、わくわくします。

6、ぼくがハリーズ・バーガーズ・ショップをやめたいきさつ


80年代SF傑作選〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)80年代SF傑作選〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)
(1992/10)
不明

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ここまで、遥か彼方へと旅し、そして故郷へと帰ろうとする人々の物語をならべてきました。
でもまぁ、現実問題としてわれわれは気軽に宇宙の彼方へと旅立ったりはできないわけです。
じゃあ、どうすんのよ。映画のスクリーンを指くわえて眺めてるしかできないわけ? つまんねぇ人生だな、おい。
そんな人生しか選べないわけ?
いやぁ、でもさ、マコノヒーは事象の水平線の彼方まで旅立ってしまったわけだけれども、タイにでも旅立って、
マングローブの林の真ん中でパスポートと手持ちの現金を焼いたら、似たような気持ちは味わえないかな?
家からいちばん近い駅に行って、そこの路線図を睨みつけて、いちばん遠くにある駅までの切符を買ったら、
まぁちょっとは目先が変わって、新鮮な気分に浸れたりしないかな?
それじゃダメかな?
そんなの冒険とも云えないかもしれないけれど、汗だらけの手に切符をにぎりしめたあなたにはいつでも故郷に帰れる
っていう特権があるんだから。
それはとっても貴重な、他には代え難い宝物なんじゃないかな?

……というようなことを描いた、ローレンス・ワット=エヴァンズの短編を最後に紹介して、この稿を締めたいと思います。

物語る私たち

  1. 2014/10/28(火) 00:42:56|
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たとえばきみが少女だったとしよう。夏の夜の空気は水のようだ。きみは浴衣の袖をひるがえして、水草の森のネオンテトラみたいに鮮やかに人の群れをすり抜けていく。祭りの太鼓の響きに誘われて、神社の参道は人であふれかえっている。巾着に結びつけた鈴が、きみの足取りにあわせてはずんで響く。かくれんぼをする子供なら皆そうなるものだが、きみは背中にありもしない目線を感じて、首をすくめたくなる。うしろから伸びてきた手が、いまにもきみの襟をつかみあげるのではと気が気ではない。だがきみの名前を呼ぶお父さんの声は、喧噪のはるかむこうから聞こえてくる。きみは背の高い男の人の陰に隠れるようにして、微笑む。きみの頬を一筋の汗が流れる。きみの瞳は輝いている。
きみは夏休みを父方のお婆ちゃんの家で過ごした。田舎の子供たちは都会からきたきみを受け入れてくれなかった。せっかくの夏休みを退屈で塗りつぶされた、きみ。長女で、親のいいつけをよく守るいい子だったきみの、唯一の反抗が夏祭りで迷子になることだった。両親の愛情に、爪先までどっぷりと浸かったきみにとって、それは堅牢な籠のなかから崖の底を見下ろすような、安全で刺激的な遊びだった。じきに心配に顔をゆがめた両親が、きみに駆け寄ってきて大きな声をあげるだろう。きみはおざなりな謝罪のことばを口にする。そうしてお父さんの両手にがっちりと抱きしめられて、ポロシャツに染み込んだ、いがらっぽい臭いを深く吸い込むとき、きみは幸せを感じるだろう。
きみはタイトスカートが良く似合う二十四歳で、テーブルの上に男が置き残したライターを片手でもてあそびながら、幼い少女を見つめている。子供の計算高さを見せつけられるのは楽しいものではない。いつか成長した少女が自然に身につけるだろう媚びの、幼い萌芽はすでにほころんでいる。苛立ったきみはオイルライターの蓋をしきりに開け閉めする。レストランの向かいの席に座ったカップルの男の方が、きみを睨みつけているのにも気がつかない。
やがてトイレから男が帰ってくる。きみは無意識のうちに男の顔に答えを――より直截に云うなら救いを――求めようとするが、男はどんな表情も浮かべてはいない。
遅くなっちまったな、と男は言う。でもまだ間に合うだろう、急ごうか。どこへ行くの? 映画だよ。映画? 問いただすきみの声は尖っている。失望が、足の爪先を冷たくする。わたしが話したことの意味を、この人はわかっているのだろうか。だがそんなことは口に出せない。グラスに残ったフルーツ・ブランデーとともに言葉を飲みこみ、代わりに違うことを云う。歯ブラシを買わなきゃ。男は物問いたげにきみを見つめてくる。あなたの歯ブラシ、古くなったから、今は靴から泥を落とすのに使っているの。男は口の中に靴墨を放り込まれたような、不快そうな顔をする。泊まらないよ、今夜は。明日も仕事だ。男の口調に侮蔑の響きがある。そんなにがっつくほど、若かないぜ。おまえは違うのか?
男のことばはきみの胸を突き刺すけれど、きみはとっさに言い返すことができない。まごまごしているうちに男はレシートをつかんで荒っぽくレジへと歩いていく。きみは迷子の子供のような不安とともに、ふらつきながら席を立つ。
きみはもちろん十四歳の女の子で、レストランを出たあと、すがりつくように男に腕を絡ませる女の姿を見つめて眉をひそめる。無様だと思う。覚悟のない生き方を送れば惨めな人生しか待っていない。
きみは中学校の制服に身を包んだまま、実家の庭に素足で立って、枝の枯れた百日紅の木を見つめている。片手には三日前に役所でもらった戸籍謄本の写しを握りしめている。きみの名前には「養子」の二文字が書き添えられている。昨日の夜、両親はきみの目の前で土下座しながら泣き崩れた。きみは、会った事もない母の姉の娘だと知らされる。すべてが嘘だったのだときみは思う。両親の愛情も、幸せな家庭もすべて。きみは残りの生涯を墓場へ向かう老いた象のように孤独に過ごそうと決意する。孤高に、気高く生きよう。誰かに人生の舵を預けたりすることがないように。
他人にはなにも望まず。期待を小さく。簡単なことだ。
だけどやがて聞こえてくる艶やいだ声が、少女の夢想を破る。十九歳のきみは高校時代からつきあってきた彼氏と別れた三日後に、バイト先のケータリングショップを経営している妻子持ちの男と一緒に腰を振っている。一人暮らしを始めたきみの南向きの部屋は茹だるほど暑く、痙攣したように右足を突き出した拍子に、扇風機も明後日の方を向いてしまった。きみは全身から汗を流しながら、微笑んで男の首にしがみつく。ねぇ、好きだって言って。ずっと、死ぬまで好きだって言って。男は頷いただけで、腰の動きを止めず、やがて短い呻き声と共にきみの中で果てる。歓びがきみの身体を満たす。
そして。
きみはやっと映画館にたどりつく。
二十四歳のきみは、すっかり口をつぐんでしまった男の大きな身体に萎縮しながら、まるで気乗りしないままに映画館のポスターを眺める。
サラ.ポーリー監督。物語る私たち。それがきみがいまから観る映画のタイトルだ。

それはドキュメンタリー映画だった。監督であり、女優でもあるサラ・ポーリーの母は、彼女と同じく女優だった。父、兄弟、姉妹、両親の友人……登場する人物たちから語られるサラの母は、奔放で恋多き女だ。だが映画は、そんな彼女の欲望のままにふるまう人生を責めはしない。むしろ、懐かしむような温かい空気がスクリーンから漂ってくる。その理由は中盤でわかる。サラの母はサラが十一歳のときに病気で亡くなってしまったのだ。
そこから物語は急転し、サラの出生の秘密に迫る。サラの数多い兄弟姉妹の中で、サラだけが父親に似ていない。サラは果たして、父親の実の娘なのか。もしそうでないとしたら、いったい彼女の父親は誰なのか……。

きみは身じろぎすることも忘れて、食い入るように画面を見つめている。叫び出したいような居心地の悪さと、映画という娯楽のジャンルを越えた共感を、同時に感じながら。
目を見開いたままスクリーンを見つめるきみは、やがてエンドロールに辿りつく。
耐えられなくなり、きみは座席から立ち上がる。男が呼んだような気がしたが、振りかえる余裕もない。きみはふらつきながらトイレに駆け込むが、個室にすべりこむ前に吐き気が波のように押し寄せてきて、きみは胃の中身を洗面台にぶちまける。
刺すような鼻の痛みとともに、涙がこみあげてくる。出すものがなくなっても吐き気はとまらず、きみはこれがはじめての悪阻だろうかという考えに恐怖する。こめかみがずきずきと痛む。きみはあまりの苦痛に短い泣き声をあげる。
トイレの個室のドアがひらいて、浴衣を着た幼い少女が泣きながら姿をあらわす。幼いきみは祭りの雑踏の中で、完全に両親とはぐれてしまった。もはや愛情とはきみのてのひらで転がしておける愉快な玩具ではない。それは冷たい横顔を見せて去ってしまった。ひょっとしたら両親はきみを探しにこないかもしれない。喪失の恐怖に、幼いきみは泣きじゃくるしか術がない。
べつの個室のドアが開いて、大きな荷物を持った十八歳のきみが姿をあらわす。ハーフコートを着たきみは、半身をひねって背後の方に、聞くに堪えない罵声を浴びせる。きみの母親が――正確に云うならきみの母親の妹が――その奥から、必死できみを諫めようとする。うるせぇ、ババァ、もう帰ってこねぇよ! きみは叫んで、個室のドアを閉める。
閉じたドアのむこうから、きみの母親が、聞いたこともないような冷めた声で……きみの人生を決定づけるようなことばを投げる。良く似ているわ。あなたの母親も、淫売だったのよ。
べつの個室のドアがひらく。
そこにいるのはベッドに横たわり、頭に包帯を巻いて、身体に無数のチューブを突き刺したひとりの老婆だ。きみはもはや苦痛も感じない老いたまなざしで、若いきみたちの醜態をなんの感情も込めない瞳でただ見つめている。
もうやめて、ときみは思う。
まるで過去から未来へとよどみなく進むきみの人生にほつれが生じたようだ。きみの人生はバラバラになり、現在は昨日と明日の高波がぶつかる大時化の海へと姿を変えた。
過去は死んだ番犬だ。おとなしく身じろぎひとつせず、死者の国を守っていればいい。それが現在を脅かすようなことがあってはいけない。それなのに――。
たった一本の映画が、きみの足元を危うくした。
そう、きみはまた過ちを犯した。
ひとは長期記憶貯蔵庫(LTS)にたくわえられた、エピソード記憶と意味記憶のつらなりに寄って自分の過去を意味づける。それを自伝的記憶と云う。
自伝的記憶は時系列順(シーケンシャル)に記された、いわば一本の映画だ。人は自伝的記憶の性質によって自らの人生を規定する。
敗北と屈辱だけにいろどられた、悲劇的な映画もあるだろう。
歌いながら花園を歩く、ミュージカル映画だってあるだろう。
積み重ねた敗北をたった一回の15ラウンドでひっくり返してみせる、「負け犬たちのワンスアゲイン」映画の上映中だと、信じている人だっているだろう。
それでも、いちどの人生に、たった一本の映画だけしか上映されない、自伝的記憶の息苦しさに、みんな辟易しているのだ。
だからこそ人は映画館にむかう。そこで与えられるのは垣間見られる「他の人生」という幻想、明滅(フリッカー)だ。
たった一本の映画という人生の重みに耐えかねたわたしたちは、無数のフリッカーに生きたまま葬られ、幻惑されながら死へとむかっていく。
きみの過ちはサラ・ポーリーが撮った一本の映画に、いつものように絶対に安全な場所にきみを置いたまま、他の人生という明滅を見せてくれる娯楽を期待したことだ。
それはドキュメンタリーという仮面をかぶったまま、最後には現実とフィクションの境目すら危うくさせる、毒を持っていた。
まるでオセロの駒をひっくり返すように、映画に仕掛けられたたったひとつのフェイクで、長いあいだ他人の人生という明滅に浸っていたわたしたちの喉元に刃をつきつけた。
これは現実である。
これは現実ではない。
これは物語である。
きみの人生に敷きつめられたフリッカーが、サラ・ポーリーが置いた一枚の駒のおかげでひっくり返っていく。
きみの人生は現実なのか。
いや。
「きみ」などという女は存在しない。それはわたしがこのブログのために即興で書き上げた、でたらめな架空の存在にすぎない。「きみ」の生命はこのエントリーの中でしかその存続を保証されない。
実際にこのブログを読んでいる「あなた」が男なのか女なのか、どんな存在なのかわたしは知らない。知らないが、もし(酔狂にも)ここまでこのエントリーを読んでくださり、いくばくかの興味を持ってくださったというなら、それはわたしの手柄ではない。それこそが「物語」の毒なのだ。
人は物語に共感する。肯定するとは限らない。否定して反撥を覚えながら、そこから学ぶとしたら、あなたは物語からなにかを得たことになる。
この機能は、プログラムピクチャーではおおむね「彼岸」で働く。あなたは絶対的に安全な場所にいて、映画はあなたを傷つけない。あなたはいくばくかのお金を払う。そこにはある共犯関係が結ばれている。
サラ・ポーリーは映画と観客の共犯関係を逆手に取り、観客の地盤を危うくするような映画を撮った。わたしが本当に恐ろしく思うのは、それが彼女の人生そのものをベットした賭けだったこと。そしてこの映画を撮ったその年に、サラ・ポーリーが娘を産んでいることだ。いったいどこまでがサラ・ポーリーの実人生で、どこから先が仕事なのか。考えれば考えるほど恐ろしくなる。

これは「物語ること」についての映画でもある。
物語の主要登場人物二人が、真実を知って、まずなによりも自分の経験を「物語」として本にしようとしたのは本当に象徴的だ。そこには計算よりも本能的な保護機能のはたらきを感じる。ある種の人々は、傷ついたときに、物語ることによって人生の舵を取り直そうとするのかもしれない。ちょうどこのエントリーがそのようなものだ。
この映画の中で、遺伝子について語られるのは、一種のフェイクだ。
この映画は情報子(ミーム)についての映画だと思う。自分の死の先に届かせようと、思いっきり前に伸ばした腕。それこそが物語なのかもしれない。

そうして、きみは目を覚ます。
泣き疲れて眠ってしまったきみは、気がつくとお父さんの背中に背負われて揺られている。
汗で湿ったお父さんの背中が、ひどく温かい。
お父さんは、隣に立ったお母さんとなにか話をしていて、きみが起きたことには気がつかない。
きみは意味のないことを口の中でふたつ、みっつつぶやくと、お父さんの背中にしがみつく。お父さんはきみが寝ぼけていると思ったのか、振り返らない。
階段の灯籠の明かりが、きみが揺られるたびに上下に揺れる。
それがいくつも、いくつも連なって、ゆっくりときみは階段を下りていく。
このままずっと、灯籠のおぼろげな明かりに導かれて、永遠に地の底まで下っていくのかもしれない。ふときみは、そんなことを思う。
きみは知らない。お父さんの背中に揺られながらみた灯籠の明かりのことを、何歳になっても覚えていることを。
きみを抱いた幾人もの男に、きみはそのことについて話さない。
きみは六十四歳のときに痰を喉につまらせて死ぬことになるが、そのときまでこの日の記憶が消えずに残っていることを知らない。
まばたきするごとに、目の前に現れて、消えていく、明滅。そのうちのどれが永遠に過ぎ去り、どれがわたしたちの中に残るのか、わたしたちは知らない。
きみはお父さんの背中に頬をこすりつけて、しあわせなあくびをする。
消えない灯りがまたたいている。

007 美しき獲物たち

  1. 2014/01/07(火) 22:08:27|
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「お姉さん」
「うわ、びっくり。きみ、誰? 学校は?」
「ぼくはBG。はじめまして」
「なに? ハーフなの? 髪の毛黒いけど。とりあえずガードレールから下りなよ。危ないよ」
「お姉さん、ぼくとつきあってくれない?」
「あはは、今年はじめてのコクられだ。春から縁起がいいね。でも小学生じゃね」
「それでは問題です、あなたは何者でしょうか?」
「クイズ? 十回云う?」
「そんなに云わなくていいよ」
「ただの女子高生にそんなこと聞かれても」
「お姉さんはJB、ぼくはBG」
「女子高生……はJKだよね、死語だけど。って、はぁ? ええっ、どこ、ここ?」
「雪山」
「なんか足元がチュイン!って云った」
「うしろからは東側の追っ手が山ほど追いかけてきてる。お姉さんは重要なマイクロチップを持って、
彼らから逃げおおせなきゃいけない。ほら、そこにスキー板があるよ」
「スキーしろって? スカートで?……って、また撃ってきた!」
「取りあえず滑ろう。斜面を下りたところに潜水艦が待ってる。並んで滑りながらブリーフィングをするよ」
「あたし寒いの嫌いなんだけどぉ!」
「お姉さんが持ってるマイクロチップは核攻撃にも耐えうるスーパーチップなんだ。それが東側の手に渡った」
「西とか東とかなんなのよぉ! おはし持つ方の手で云ってよ!」
「(舌打ち)これだから平成生まれは」
「なんか云った!?」
「とにかくなんだかんだあって、お姉さんが頑張らないとシリコンバレーが海に沈む」
「だから分かるように云ってってば!」
「お姉さんの身近な地域で例えると、福岡市西区今宿の三菱電機のデバイス工場のあるあたりが海に沈む」
「そりゃたいへんだー!」
「全宇宙に偏在する超思念存在は、エントロピー崩壊をしつづける世界の均衡を保つためにお姉さんを選んだ。
 超思念存在は事態を憂いている。そのためこの惑星でもっともポピュラーな「均衡を取り戻すもの」の象徴
 をお姉さんに与えた。それがJB」
「JBってなに! 雪、つめたい! おしるこ食べたい!」
「ボンド、ジェームズ・ボンド」
「あたし外人じゃないよ!」
「ぼくはお姉さんを均衡へと導くためのガイドライン。ジェームズ・ボンドの世界はいくつもの約束事でできている。
 守らないと死ぬよ。まずマティーニは必ずシェイクで。ステアしちゃダメだ。カジノでは勝たなきゃいけないけど
 謎の美女になら負けてもいい。最後は敵の秘密地下基地に突入だ。そして、これ」
「なにその時計みたいなやつ」
「時限爆弾。ジェームズ・ボンドは必ず残りカウント1でこの爆弾を止めなきゃいけない」
「あたしにそんなこと無理だよ!」
「(ため息)しょうがないね。お約束には反するけれど、ひとつくらいの反則もいいさ。これはぼくが持っていく」
「持っていく……って、それ、爆弾なんじゃ……ってねぇ、BG! BGってば!……あっ(爆音)」
「……」
「BGあなたって子は」
「……」
「忘れないよ、あなたのこと。あたしよくわかんないけどボンドとして頑張るよ」
「呼んだ?」
「うわっ、びっくり。あんたいま、あたしの前でばらっばらの死体になったじゃないのよ」
「BG(ボンドガール)の代わりなんていくらでもいるよ。それよりお姉さん、お約束をつづけよう」
「ちょっ、さわんな、そこはダメ!」
「ボンドの物語の最後は、ボンドガールと結ばれて終わるんだ」
「む、むすばれ……まって、さーわーるーなー」
「大丈夫。ボンドガールの寿命は一作限り。ぼくたちは蝉よりも短い命を、ボンドのために生きるのさ」
「さーわーるーなー!」

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……などという小咄はともかくとして。
007シリーズ第十四作目、美しき獲物たちのレビューを始めます。

まず、1985年製作のこの作品をなにゆえいまレビューするのか、というお話からしなくてはならないでしょう。
このブログめを運営しているわたくしは、昭和四十三年生まれの今年四十五歳。
昨年、スカイフォールを観て感動し、007シリーズを一作目のドクター・ノウから順に観ていっている最中です。
今年四十五歳と云えば、はっきり云ってロジャー・ムーア・ボンド直撃世代。
それなのに……いや、それ故に、若い頃には007には見向きもしませんでした。
テレビで見かけるロジャー・ボンドは、年寄りのくせに気障で女ったらしで気の利いたセリフを連発する。
汚い大人の物語だと子供のころは思っていました。
それが、年を取るとわかってくるんですね。
ジェームズ・ボンドのような「大人」なんていやしません。これはただの御伽噺なんです。
生まれた土地に縛られ、家族に縛られ、人間関係に縛られて、もはや逃げることも夢見なくなった大人が、
せめても見る甘い夢、それが007なんですね。去年から、それを美しく、そして切ないものだと思うようになりました。
007は当たり外れありますけれど、ぜんぶひっくるめて愛おしいです。

そんな、駄目な豚児を慈しむみたいな生ぬるい姿勢で007シリーズに接してきたわたしですが。
いや、この美しき獲物たちにはたまげました。

なによりびっくりしたのは、「現代に合うようにアップトゥデートされた007」というのが、スカイフォールが最初ではなかったという事実です。
はっきり云って本作のストーリーは初期の代表作、ゴールドフィンガーの焼き直しです。
ですが、だからこそ、お約束を踏襲しているからこそ、お約束をしっかりリファインした要素のひとつひとつが輝いて
見えるのです。

たとえばボンドガールの扱いひとつ取っても、作り手の意気は汲み取れます。
中盤に現れるタニア・サットン、彼女がエレベーターの中で炎に包まれたとき、彼女は死ぬのだろうと思っていました。
ボンドガールは救えないのが007のお約束だからです。
それが炎の中に突入してのまさかの救出劇。消防車のはしごをボロボロになって下りるボンドはかっこわるいけど。
いや……かっこいい! 格好悪いけれどかっこいい!
そしてグレーズ・ジョーンズ演じる「悪のボンドガール」メイ・デイの迎える結末たるや!
2014年、まだ始まって7日ですけれど、現時点での今年のベストガイはメイ・デイですよ!

なによりも変わったな、と思うのが悪役に配されたクリストファー・ウォーケンです。
このウォーケン、ロジャー・ムーアと比べるとびっくりするくらい若くて魅力的なんですよ。
頭脳派で、「グッドフェローズ」にそのまま出演してもいけるくらい暴力的なサイコで、おまけに若い。
はっきり云って、ボンドよりも悪役の方がかっこいいんですよ、この映画。
でも!
だからこそ!
ボンドが、ベタな手段、これまでの13作で培われたお約束の力でもって、泥臭く、格好悪く、勝利に持ち込む
終盤がとっても感動的なんです。
007は誰よりもお父さんに夢を与えなきゃいけない映画なんですよ。
これを劇場で観て、「まだまだ若い者には負けへんで~」とほくほくして帰ったお父さんは多いんじゃないでしょうか。
ロジャー・ムーア・ボンド、見事な幕引きだと思いました。

しかし、ウォーケンの演じる頭脳派サイコの悪役には、007にとって生きにくい、コンテンポラリーな身も蓋もない
「徹底した利己主義」の匂いを感じます。ダイ・ハードの足音がすぐそこまで迫っています。

ボンドにとってもっとも生きにくかった時代。
それを007シリーズはどう生き抜いたのでしょうか。
それは続くティモシー・ダルトンに託されます。
というわけで、これから観る「リビング・デイライツ」にいまからわくわくしているわたしがいるのです。

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