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生きながらフリッカーに葬られ

Buried Alive In The Bogus


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Twitterで映画の感想を書くということ。

  1. 2015/10/22(木) 23:50:52|
  2. 映画
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Twitterにあがった映画の感想をわたしが読むとき、わたしが見つめているのはあられもないあなたの身体なのだ。
と、いうような話をしたい。

Twitterで映画の感想を呟きはじめて、もう三年近くになる。ネットにはわたしと同じように映画が好きなひとがたくさんいて、
そんな人にフォローされ、フォローし返しているうちに、いつのまにかタイムラインが映画の感想で埋め尽くされるようになった。
上映初日の夕方ちかくになると、映画の感想がぽつりぽつりと上がりはじめる。
お互い何年もフォローしていると、ネタバレのリテラシーについては早々踏み外さない(と思いたい)ので、遠慮無しに読む。
初日から、爆発的な勢いで熱のこもった絶賛ツイートがならぶ映画もあれば、投げ捨てるように短い失望がころがることもある。
ともあれ、わたしのタイムラインを形成しているのは、映画の感想“だけ”ではない。
注意してみれば、意識してもいない舌打ちや笑い声のようなみじかいツイートが、感想の合間を埋めていく。
ちょっとした笑いを誘うようなリツイートがいちばん多いだろうか。にゃんこちゃん動画や、有名人のGIFなども多い。
事故やハプニングの現場写真のリツイート。職場の愚痴。きょう食べた料理や、スイーツの写真。買った玩具や本の写真。
位置情報が丸出しなツイートはずいぶんと減った。職業、学校といったその人の具体的なプロフィールを匂わせるツイートも。
それでも、自撮り写真のアップがなくても、その人の“におい”のようなものがリツイートするしないの選択からでも伝わってくる。

わたしは「映画の感想」を受け取ると同時に、あるいは前後して、その人の“におい”をツイートから受け取る。
三流プロファイリングを気取るつもりはない。誰にでもあることではないだろうか。画面のむこうを徹底的にうかがわせない、
ストイックなあの人のツイートの、ふとした語尾に、生々しい人の吐息や体温を感じることが。
それをひとは“色気”と呼ぶのだが。

わたしは「映画の感想」を受け取ると同時に、あるいは前後して、その人の裸体をみつめることになる。
自分とはまるで違う裸体だ。食べているものも違えば(このアップした写真、高いと評判の**の店だな~)、住んでいる世界も
違う(へぇ、世の中に、こんなことを職業にしている人がいるんだ)。経済状況や、学歴や、考え方だって違う。
そうなればどうしたって、「この人と同じ映画を観て、同じ感想を抱くはずがない」と思う。
三食すべてマクドナルドの人と、成城石井のスーパーで夕食の総菜を買って帰る人が、おなじ価値観なはずがあるだろうか?
そうなると、こんな余計なことまで考えてしまう。
いったいこの人がみたのと、わたしがみたのは、同じ映画なのだろうか?

70年代のある日、チリの生物学者、ウンベルト・マトゥラーナは、ハトをつかった実験をしていた。
ハトの眼にいろいろな波長の光を当てて、脳の神経パターンをしらべる。そこでマトゥラーナは、のちにオートポイエーシス理論
へと結実する、ある重要な事実に気づく。
同じ波長の光を当てても、個体ごとにちがう視神経部分が興奮する。
マトゥラーナは天啓を得た。どの神経が反応するかを決めているのは、脳の部位ではない。
光は刺激にすぎない。ハトの反応は、脳に刻まれた個体特有の歴史や体験が決めている。
同一の視神経への刺激であっても、それが脳のどのような部分に反応するかは、ハトの「こころ」の在り方によって異なるのだ。
これは被験対象が人間であっても変わらない。陽電子放射や、核磁気共鳴といった手段で、脳のどのような部分に反応が
起こっているか、確かめることはできる。だがそれが人間の内部でどのような反応を起こしているかは確かめようがない。
デジタル映写機がスクリーンに投影した光の残像が、光速であなたの視神経に突き刺さり、刺激し、それがあなたのなかに
どのような感慨をもたらしたとしても、それはあなた個人、ただひとりだけが観た「映画」の感想に過ぎない。
あなただけの感覚。あなたにしか見えない世界。それをクオリアとよぶ。

「小津安二郎の『浮草』の雨の描写は素晴らしかったね」
あなたが云い、わたしはうなずく。だがふたりが見たものはまるで違う。
ある人はスクリーンの雨を見て、肌寒さを感じるかもしれない。ある人は肌にぴったりとくっついた中学校の夏服の感触を
思い出し、ノスタルジーを感じるかもしれない。親に頬をぶたれ、土砂降りの外に追い出された記憶を思い出し、吐き気を
もよおすかもしれない。
もっと単純に、「赤」ということばが脳にむすぶイメージ、それひとつをとってもわたしのクオリアとあなたのクオリアは違う。
赤信号は止まれ。そのルールを守ることで道交法は成り立っているが、それをわたしは「Xを見たら止まれ」というルール
だと思い、あなたは「Yを見たら止まれ」というルールだと受け取る。交差点で同じ「赤」を見ている人は二人といない。
こころはどこまでも閉じている。クオリアは他人とはわかちようがない。あなたの痛みは、死んでもわたしに伝わらない。
あなたが見た映画と、わたしが見た映画は、違う。

十年前ならこんなことは考えなくてよかった。
蓮實重彦が、その映画を見たときの体調や、血糖濃度、不快指数、劇場のノイズなどが、評論に影を落とすことがありえる
だろうか?
町山智浩が、昼メシになにを食ったかとか、プライベートの人間関係がどうだといったことが、彼の信念を曲げることがあり
えるだろうか?
雑誌や書籍で映画評論を読むときに、わたしたちはそんなことは考えもしない。彼らは研鑽を積み上げたプロであり、些事に
評価を左右されないだけの訓練を積んだ、プロフェッショナルだ。
Yahoo!映画やCinemaScapeの映画評を読むときだって、そんなことは考えもしなかった。
状況が変わったのは、ウェブ2.0が浸透しつくしたここ数年だろう。爆発的な勢いでネットに映画評があふれた。そしてたとえば
Twitterでつぶやかれるあなたの映画評は、あなたが生身のからだを持ち、さまざまな事情を抱えた生身の人であることを隠そう
としていない。
情報の発信が選ばれし者の特権である時代は終わり、誰もが、ありとあらゆる「感想」をつぶやきはじめた。

シネフィルと呼ばれる人々は、この状況に眉をひそめるかもしれない(ちょうどそんなリツイートがいま流れてきた)。
そうでない人々は、シネフィルを疎みつつ、独自の価値観を形成しつつある。
莫大な映画的記憶を有さない彼らの武器は、「共感」だと思う。

パシフィック・リムが引き起こした騒動あたりが、契機だったと思う。
原理主義者と呼ばれるような映画の信奉者たちが、その映画を理解しない人を鼻で笑い、ときに攻撃する。
「脚本がどうとか、照明がどうとか、そんなくだらんことでこの映画を評する人間は、この映画を見るな」
そんな尖ったツイートを、他の映画でも何回みたかわからない。スノビズムに対する攻撃なのか、と思ったがどうやら違う。
その映画に共感できるかどうか、そのあたりが分水嶺であるらしい。
気がつけば、「共感」の通過儀礼はウェブ2.0のそこかしこに立ちはだかり、ウォーボーイズたちはニュービーたちを見つめ、
彼らを熱狂的に輪のなかへ導き入れる。

グローバリズムは手袋がひっくりかえったような、奇妙な逆転現象を起こしたように思う。
グーグルアースで世界の反対側のリアルな街角が見られるようになった世界、Netflixでワンクリックで30年前の映画が
見られるようなった世界は、時間的距離と、歴史的距離を喪失させた。
それと同時に奪っていったのは、いま・ここを実感させる現地時間(オンタイム)だ。
ラディカルな進歩は反動を生む、というのは人類の歴史が教えてくれる。
たとえばマッド・マックスの爆音上映が生みだしたのは、歴史と空間がフラットになった世の中のなかで、いま・ここを実感
させてくれる、強烈な共感ではなかっただろうか。だからこそあの映画は現在のカルト映画なんではないだろうか。

去年映画を見始めた少年のツイートと、町山智浩のツイートは、140字1ツイートという制限下において、情報量的に等価だ。
それが等価になってしまう世界で、より多くの価値を獲得するのは“ふぁぼ”とリツイートで、そこに優劣の差は本質的につかない。
より正しく、価値のある情報よりも、より共感を産む情報が優遇される、共感資本主義世界、それがTwitterなのだと思っている。

その中で、廃れていく価値観もあれば、産まれてくる価値観もあるだろう。
共感資本主義だけがネットのあたらしい姿ではない、と思うけれど、少なくとも日本では、しばらくこの事態はつづきそうだ。
ソースに依った正しい情報よりも、共感を得た情報が優遇されるこの事態に、危機感をもつ人もいるかもしれない。が。
フラットにどこまでもつづく、地平線の見えないこのぶっこわれた世界。
ワイヤード・ウェイストランドに生きるウォーボーイズたちの覚悟を、もっと真摯に受け止めるべきだとは思う。
砂漠で水をみつける能力は、彼らが誰よりも秀でている。それが人間の価値観のすべてだとは云わないが、まったく新しい
水の都がその先にひろがっているかもしれないではないか。五十路に近いこの身だが、その背中を見守りたいと思う。

こころは閉じていて、クオリアは個人のものに過ぎない。
そう書いた。それでは閉じたこころの持ち主が数十億集まって、どうやってこの世界は成り立っているのか。
わたしとあなたの中間、べつのレイヤー、なにもない空間に、クオリアをもちより、互いのクオリアを変質させることで、だ。
おっぱいにしか興味のないわたしは、「カリフォルニア・ダウン」の娘のおっぱいを褒めちぎる。
あなたは、特撮の素晴らしさや、家族愛の尊さについて語る。
なるほど、そんな見方もあるのか、そう思った瞬間に、互いのクオリアは変質しているのだ。
二人のやりとりを見つめる第三者が、そのリプライの応酬をみつめていたとしよう。
その人の中には、わたしとも、あなたとも違う、まったく新しいクオリアが産まれている。
日々、何ツイート、何百ツイート、何千ツイートを繰り返し、わたしたちは互いのクオリアを変質させあっている。
そしてたまたま、おなじものを見られるはずのない、「とじたこころ」の持ち主が、おなじものを見たと錯覚するとき。
ひとは、最大限の歓びを感じるのだ。「とじたこころ」しか持たないくせに。そんな厄介なものが人間らしい。
トライアル&エラーを何億回と繰り返し。
そのひとつが、あなたがいま押そうとしている「ツイート」のボタンなのだ。こころして押したまえ、御同輩。
大河の最初の一滴となり、世界を変える。その共感を産む、最初のひとつが、そのツイートなのかもしれないのだから。


「あのー、すっごいもう、一見して、一見してもうぶっ壊れてる女がおるよね。
女ね。ナオン。一見してわかる人いるよね。ぶっこわれとる女。
いっとることぜんぜんわからん。なにいってるんすかみたいな女の人、いるよね。
つじつまもあわんし、会話もできん。ディスコミュニケーション状態に陥っとるんやけれども。
一瞬だけまともなこといって噛み合う瞬間とか、あるよね。
ああいうのって、たま、らんよね」
             (NUMBER GIRL“SENTIMENTAL GIRL'S VIOLENT JOKE”)



インサイド・ヘッド

  1. 2015/07/23(木) 00:49:02|
  2. 洋画
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  4. | コメント:0
inside-out-trailer-2_00.jpg

もうだめだ、と思う。
すべての魔法は解けてしまった。いつかこんな日が来るのではないかと思いながら、必死につくり笑いを浮かべていたけれど。
それももう終わりだ。これ以上ごまかしようがない。
嘘みたいに重い足をひきずって、部屋に帰ってきた。床に座り込んだまま、もう一歩も動けない。
このまま膝を抱えて沈み込んで、息もせず黙って死んでしまえればいいのに、と思う。
まばたきも忘れた瞳に写るのは、しわくちゃになったレシートと、携帯電話の請求書と、コンビニのビニール袋。
見慣れた風景が、何千マイルも離れた知らない星の風景のように見える。ひりひりと胸が痛んで落ち着かない。
テレビをつけて、くだらないバラエティをしばらく見つめていたけれど、すぐに消してしまった。
きっともう、笑える日はこない。
泣きそうになって、瞼をぬぐったけれど、涙さえ出なかった。
きっと、もう一生泣けない。怒ることさえできない。もう感情はない。この世のたったひとつの真実が明らかになってしまったから。
わたしはひとりぼっちだ。
わたしには愛される価値がない。


へぇ、そうなんだー。いやぁ、たいへんだねぇ。
しっかし、今日も暑かったねぇ。あはははははははははっ!!
……あ、いや、失礼、ちからいっぱい悲嘆に暮れてるところ、ごめんね。ちょっと気になることがあってねぇ。
きみさ、駅からこの部屋まで、どうやって歩いてきた?
家賃安いもんねぇ。駅から離れてるよねぇ。自転車はこないだ盗まれちゃったから、三キロは歩かなきゃいけないよねぇ。
迷わないでよく家にたどりついたね。よく覚えていない? ふーん。そっかぁ……。
途中さ、いつものコンビニに寄ったよね? それも覚えていない?
テーブルの上のビニール袋をあさってごらんよ。いつものヨーグルトとオレンジーナと高菜おにぎりが入ってるから。
なんか深刻に悩んでたみたいだけどさぁ。コンビニで買うのはお気に入りの定番なんだねぇ。馬鹿みたいだねぇ。
え? それも覚えてない?
部屋に入る前に、郵便受けのロックを外したよね? だって請求書があるじゃんか。
テレビをつけたよね? どうしてリモコンがいつもの右手側にあるってわかったの?
っていうかさ、死にたいなんて云ってる人間が、どうしてしわにならないために上着をハンガーにかける必要があるのか、
ぜーんぜん意味がわかんないんだけど。
自分じゃない? そんな記憶はない? まぁまぁ、怒らないでよ。
じゃあいったい、きみを家まで連れ帰ったのは誰なんだろう?
……ふーむ。
さっき、なんて云ったっけ? 愛される価値が……ああ、そこは、どうでもいいや。そのちょっと前。
「わたしはひとりぼっちだ。」
ふーん……へぇ……。
本当に?

===========================================================

ディズニー・ピクサーの新作、『インサイド・ヘッド』は、野心に満ちた意欲的な作品でありながら、ハートウォーミングな逸品でした。
主人公(というよりも「舞台」と呼んだ方がふさわしい)のライリーは11才の可愛らしい女の子。
子供らしい快活さに満ちた彼女は、住み慣れたミネソタを離れ、見知らぬ街サンフランシスコに引っ越すことになってしまいます。
故郷の喪失、親しい友人との別れ、新しい環境へのとまどい、そんなものがライリーを追いつめ、快活な少女は一気に
抑鬱状態に追い込まれて、転校初日に学校で泣き出してしまいます。
果たしてライリーは、引っ越し先で自分の居場所を見つけることができるでしょうか?
……というのが「表向きの」物語で、究極までにミニマルなお話です。

ところが、映画の真の主役はライリーではなく、彼女の頭の中にいるヨロコビやカナシミといった五人の感情たちなのですね。
改めて文字で書き起こしてみると、ぶっとんだ設定ですね、これ。ところが映画で見てみると実にすんなりと受け入れられるのです
よ。ライリーの頭の中の世界と、ライリーの日常が交互に描かれるのですが、ほとんど混乱は起きない。このあたりのこなれた
交通整理はみごとです。「シュガーラッシュ」では現実とゲーム機の中を交互に描いていましたが、この映画ではさらに進んだ
「内と外」の描写をたっぷりと堪能することができます。

まず、「内」の方です。ライリーの頭の中ですね。この描写がみごとなんです。
もちろん人間の脳のはたらき、というのは完全に解き明かされたわけではありません。
いままでのフィクションですと、たとえば90年前後あたりの日本のサブカルチャーではやたらめったら脳内報酬系がフィーチャー
されてました。猫も杓子もドーパミン。猫も杓子もA10神経系。エヴァンゲリオンでもとくに脈絡なく出てきましたねぇ。恥ずかしい。
80年代後半くらいから脳科学が進歩して、ニューロンの働きとかいろいろわかってきて、報酬系がみつかったときには、「これで
人間の欲望の源泉がわかった!」と大騒ぎになったものです。もちろん脳内モルヒネだけで人間がわりきれるわけがないので、
そのうち下火になりましたが。
それ以前だと、ユングの元型をモチーフにした作品が多かったような印象があります。自分のなかのいろんな要素が、脳の中で
おしあいへしあいしている、という「インサイド・ヘッド」に似た設定の小説が筒井康隆の「欠陥バスの突撃」ですが、アニマが
でてきたり、かなりユングの元型よりのデザインです。

で、「インサイド・ヘッド」ですが、どうもいまどきの認知神経科学の成果を取り入れているようなのですね。
出来事、に関するヒトの記憶をエピソード記憶と云います。時間と場所、そのときの感情がその記憶には含まれています。
初めてキスをした公園にきたときに胸が痛んだりするのは、その出来事と感情がむすびついたものが、ひとまとめになって
脳内に記憶されているからですね。ヒトはそのエピソード記憶のつらなりによって「自分はこういう人間だ」ということを認識
します。ヒトの性格の元になっているのは記憶なんです。そしてシーケンシャルにつながった事象(イベント)を、ひとつの
物語として認識しています。これを自伝的記憶と云います。

だから、「たいせつなきおく」によって、「おふざけのしま」「ともだちのしま」といったライリーの性格が形成されるのは説得力が
あります。いや、ちょっとずれてきた気がします。これはべつに「ちゃんとお勉強して偉いね!」と称えられるべき映画ではなく。
「とにかく絵でみせてくれるのがすげぇ!!」って映画ですよね。

「インサイド・ヘッド」はマッドマックス・怒りのデスロードとならんで、映画であるという自らの特性をフルに生かした映画です。
絵です。絵で見せてしまう。それがすごい。
長期記憶と短期記憶に関する知識なんてなくても、鮮やかに輝くボールが、ボーリング場のレーンみたいなものの上を動いて
いるのを見つめていれば、それだけでそんなものか、と理解できる。
ボールがびっしりとならんだ長期記憶保存庫を見れば、自分の脳の中にもこれだけの記憶のかけらがあるのかな、と思える。
必要ない記憶を掃除機で吸い上げる掃除人のユーモラスさに大笑いしながら、忘却していく物事の膨大さに身震いする。
「夢のスタジオ」は是枝監督のワンダフル・ライフみたいでわたしはピンときませんでしたが、「イマジナリー・ランド」の夢想の
楽しさには本当にわくわくしました。
そしてその美しい脳内世界が「ブレイン・ダメージ」によって崩壊していくわけですが、その顛末が「外」の世界の出来事と
絶妙にシンクロしているのが本当にすばらしい。

この映画の「内」の世界は、色鮮やかに、被写界深度深めに、くっきりとした輪郭で描かれるのですが、「外」の世界は陰翳に満ち、
リアルなタッチで描かれます。その違いは誰にでも見て取れると思います。
下手な演出で描かれれば、外と内は乖離して、誰にも感情移入できない奇妙な物語が二つできていたと思うのですが、この
映画は違う。「外」の世界の軋轢は「内」の崩壊をもたらし、そしてその恐ろしさが身震いするような戦慄をもって伝わる。

数日前、うちのTLで中島みゆきの「ファイト」が話題になっていました。
「ガキのくせにと頬を打たれ、少年たちの瞳が歳を取る」。という歌詞は胸につきささりますが、普通、物語というのは光を
失った子供の瞳を大写しにするくらいが限界なわけです。「インサイド・ヘッド」はそこに踏み込むのです。

ライリーが親友とのあいだに溝を感じたとき。
彼女の脳の中では「ゆうじょうのしま」が大崩壊します。
塔は倒れ、地はひび割れ、えらい騒ぎになる。
それがライリーの脳内にいるヨロコビたちの危機をもたらすのです。内と外のプロットがみごとに連動している。本当にうまい。
そしてバスの窓に映った、11才の少女の感情の死んだ瞳を見るとき、わたしたちは思うのです。
この瞳を知っている。どこかで見たことがある。
そうか。
あのときは小さなことだと思う。でも確かに、あのとき目に見えないどこかで、ひとつの王国が滅んだのだ、と。

===========================================================

わたしはひとりぼっちだ。
誰もわたしを理解してくれない。
わたしには愛される価値がない。
だから誰も愛し返してなんか、やるもんか。


うんうん、誰かを思ってやったことの価値が、相手に理解されないってつらいよねぇ。くーっ、共感できるわぁ!
どうしてこんなに頑張ってるのにって思うよねぇ! 
……え?
いやいや、いまのはきみのためのことばじゃないよ。なんでそう思ったの? 草生えるわwww
きみにはそんな労りを受ける資格がない。
いまのことばは、とうに自分を見限ったきみのからだを精一杯労って、長期記憶貯蔵(LTS)したいままでのきみの暮らしを
トレースし、きみを迷わず家にたどりつかせた非陳述記憶ちゃんへのことばだ。
明日を生きるつもりがないきみの明日のために、必死でアブドウ糖をグリコーゲンに変えている肝臓ちゃんへのことばだ。
明日を生きるつもりがないきみの明日のために、必死でグルカゴンをつくっているランゲルハンス島ちゃんへのことばだ。
明日を生きるつもりがないきみの明日のために、歯をくいしばってガス交換をしている左下葉気管支肺胞囊へのことばだ。
心臓はドゥーフ・ウォリアーのごとき戦いの鼓動をやめることがなく、循環器はV8エンジンのような唸りをあげつづける。
物言わぬすべての細胞とすべての組織が、見も知らぬ明日へときみを送り届けようと必死になっている。
それなのに、きみは「きみ」というごく狭い意識の中で、檻に閉じこもり、身勝手な孤立感にがんじがらめになって、苦しんでいる。
きみの口が、自意識過剰で自己評価の低いきみに支配されておらず、内臓か、筋肉か、どこか違う場所にあったなら。
その細胞が叫ぶことばはひとつだろう。「明日へ! 明日へ! 明日へ!」
それなのにきみだけが明日を信じられない。
誰一人、きみを殺したいやつなんていないのに。
きみのしあわせだけを願っているのに。
本当だよ?

===========================================================

とつぜん訪れた危機により、ヨロコビとカナシミは脳内司令部から放り出され、ライリーの脳の中を彷徨うことになります。
ヨロコビはその彷徨のあいだ、「たいせつなおもいで」を後生大事にかかえています。
「たいせつなおもいで」をふたたび脳内司令部にもどすことが、ヨロコビの旅の(最初の)目的なわけですが、わたしたちは
彼女のその動機にさほど感情移入できません。
手からすべり落ちそうになってあわてたり、ビンボンといっしょに持ち出されてそれを取り返そうとしたり、ヨロコビにとって
それが大事なものだということはわかるのですが、ただのマルタの鷹、マクガフィン、以上のものには思えないのです。
それがないと話が進まないから、ヨロコビはそれにこだわるのだろう、と。
そう冷めて思ってしまうのは、巧みに誘導された感情曲線により、ヨロコビの動機に観客がセルフィッシュなものを感じてしまう
からです。
ヨロコビは、誰でも好意をもってしまう、明るくて前向きな少女として登場します。ところが、あれ、あれ、という感じでヨロコビに
対する好意には疑問符がついてしまう。ひどく前に出るその態度には、仕切りたがり屋!と野次をとばしたくなりますし、
カナシミに対するほとんど虐待ともいえる差別的な態度に、憤慨した人も多いでしょう。
なんだよ、こいつウザいな、どうせこいつが司令部に戻りたいのも身勝手なエゴからなんだろう?
ところが、物語の決定的な場面で、ヨロコビは「たいせつなおもいで」を涙を流しながら抱きしめるのですね。
いとおしく過去の記憶を愛撫しながら、これ以上この世に大切なものはない、という感じに。
それは親が子を愛撫する、そんな愛情そのもので。
そこで観客はヨロコビの行動すべてが、ライリーの幸福のみの追求という究極的に利他的な原理の上に成り立っていることを知る。
そのころ外ではライリーが死んだような瞳でバスの窓を見つめているわけです。
それで、これは偉いことだ、と思うわけですよ。ライリーが幸福でないということは世界が滅びるのと同義なくらい大変なことなん
ですよ。なぜならば、ヨロコビが叫び、走り、転げ回ったそのすべてがライリーのためであることを観客は知ってしまったからです。
この映画の表向きの話は究極にミニマルだ、と書きました。
クラスメイトからいじめられたわけでもない。ライリーの挫折はあくまでも内面的なもので、外に敵はいない。
それでいいと思うんですよね。ライリーこそが世界なんです。ライリーこそが宇宙なんです。
彼女のしあわせこそが、この映画の究極の目的なのですから。
そしてね……。
まぁ、このあたりでわたしなんかは思ってしまうわけです。
もうまったく記憶には残っていないのだけれども。あるいは記憶にも残らない脳の片隅でのお話なのかもしれないけれど。
自分のたいせつな思い出を、どこかの誰かが抱きしめてくれたかもしれない、と。
そしてそれは誰でもそうなのかもしれない。
そうでなければ、わたしたちはいままで生きてこられなかったのではないでしょうか?

===========================================================

それでも、不安でしょうがないんだ。

それでも、俺はここで南アフリカ産のブブゼラを吹きつづけるけどね。
ブオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
あ、ごめんね。ネタが古かったね。
きみの口からどんなにマイナーな音色が漏れても、俺はここでそれを吹き飛ばすようなすっとんきょうな音を奏でつづけるよ。
それがきみの耳に届かなくても。
俺は地平線の彼方のそのまたむこうで、ずっと、ずっと、きみのためにエールを送って、手を振り続けるよ。
俺に会いたくなったら、実家に帰ったときに、押し入れの古い玩具箱を開けてみればいい。
そこに俺はいるかもしれないし、いないかもしれない。
どっちでもいいじゃないか。俺はいまでもきみを見つめているし、死ぬまできみの味方なんだ。

ああ、ところで残念な知らせがある。
もう云ったっけ?
きみは一生、ひとりぼっちになんかなれないんだよ。







たそがれ酒場

  1. 2015/05/27(水) 23:44:48|
  2. 邦画
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tasogare.jpg

 酒の席で日本酒を頼む。そのときに人肌で、とひとこと添えてみたいという憧れがある。
 下戸とは云わないが、晩酌の習慣を持たず、酒に溺れたこともない私にはわからないが、酒飲みのあいだには秘儀めいたしきたりというものがあるらしい。
 燗の温度の指定などもそのひとつで、温度の高いものから順に、飛びきり、熱燗、上燗、ぬる燗、人肌、日向(ひなた)。まるで呪文だ。人肌燗はぬる燗の40度よりも若干低めの35度。なるほど、人肌である。
 人間の肌の温度にあたためられた酒を口に含んで酔う、というのはなにやら艶めかしい行為ではないか。
 アルコールを飲む行為そのものが人との距離を縮めるから、艶容さはいや増す。
 自分の知らない、人の生々しい深奥をのぞく、神秘めいたすべを酒飲みは知っているのではないか。
 これは飲酒の習慣とは縁遠い人間なら、誰でもいちどは妄想する類のものだろう。
 
 内田吐夢の「たそがれ酒場」は、ひとつの酒場の店内に舞台を限定した映画だ。
 ベネシャンブラインドの隙間からたそがれの陽が差し込む開店前の酒場を冒頭とし、あかりの消えた明け方の酒場をラストショットとする。
 夢のような一夜のあいだに、さまざまな人々が酒場にあつまり、酔い、去っていく。
 終戦から十年。未舗装の道路にむかって開け放たれた入り口からは土の匂いが漂ってくる。くすぶった紫煙の匂い。笑い声。怒声。野次。女給たちの姦しい声。汗。ピアノの音。そして歌声。
 騒然とした「たそがれ酒場」で飲む酒は、ここちよい人肌にあたたまっていそうだ。
 
 冒頭、開店前の酒場からはじまる長回しが印象的だ。
 テーブルの上にのった椅子の林のむこう、スクリーンの下方から、小杉勇が演じる元絵描きがのぼってくる。この酒場は道路から一階ぶん階段を上がった場所にあるのだ。元絵描きがゆっくりと視線を上げる。すると思ってもみなかった場所に、ピアノが据えてある。酒場の床からさらに上へとのぼる、広い踊り場のような場所だ。
 そこでは小野比呂志演じるピアノ演奏家と、宮原卓也のバリトン歌手が、演奏をつづけている。
 中二階のような場所にピアノがある、という構造にまず驚く。そして小杉勇の見上げる目線から、ピアノ演奏家とその弟子の奏でる歌が、この映画においては地上(グラウンド・ライン)よりもツーステップ高い場所、俗世から浮いた気高い場所にあることが示される。
 歌というものの持つ意味が過多で、肩を組み合う戦友のようなものだった時代。
 素っ気なくスピーカーから流れる有線放送の代わりに、生演奏と生の歌声をとどける歌声喫茶があった時代。
 この映画が描いているのはそんな時代だ。
 
 シューベルト、チャイコフスキー、「カルメン」、歌謡曲、軍歌、労働歌。
 ジャンルもでたらめな曲の数々が、客からのリクエストとして挙がるのだが、演奏家と歌手は黙々と仕事をこなす。
 選ばれる曲のチャンプルーぶりが、そのまま「たそがれ酒場」に集まる人種のごった煮感を表現している。
 サラリーマン風の三人連れがいる。
 はちまき姿の労務者たちがいて、スーツをぱりっと着こなした新聞記者の一団がいる。
 いまではただの競馬狂いになった元軍人と、その上官がいる。
 バリトン歌手は人気ストリッパーに秘めたる慕情を抱き、女給のひとりは地回りのやくざと敵対する流れ者に恋をする。
 
 群像劇が好きだ。「マグノリア」や(ハギスの)「クラッシュ」などは大好物だ。そこに「グランド・ホテル」を嚆矢とするアンサンブルキャストの一群をくわえても、「たそがれ酒場」はそのどれともことなる。映画を縁取る構造物が違うのだ。
 グランドホテルの客をへだてる壁は、たそがれ酒場にはない。
 酔客はみな、たがいの肩が触れそうな場所に座っている。
 わけへだてしない、距離の近さが「たそがれ酒場」の最大の特徴だ。
 清濁あわせ飲んだその場所は、酒場というよりも巨大な混浴風呂のようだ。
 
 「たそがれ酒場」のチャンプルー感がもっとも顕著にあらわれているのが、加東大介演じる元軍人と、その元上官の東野英治郎が激昂するくだりだ。
 酒場に、学生服を着た一団と、彼らの恩師らしき人物が来店する。
 彼らは店に、ぬやまひろしの「若者よ」のレコードをかけてくれるように頼む。

 ♪若者よ 身体を鍛えておけ
  美しい心が たくましい身体に
  からくも支えられる時が いつかは来る♪
  
 その歌詞に、元帝国軍人たる東野英治郎が逆上する。なんと生ぬるい歌を!というわけだ。尾羽打ち枯らした彼らにしてみれば、若さを鼓舞するようなその歌声は耐え難い。
 そこへ、窓の外から人々の歌声が聞こえてくる。聞けば、懐かしの軍歌、「歩兵の本領」だ。喜び勇む東野と加東だったが、実は窓の外の群衆が歌っているのは、労働歌として替え歌された「聞け万国の労働者」だった、というオチ。
 激昂する東野を、はちまき姿の労務者がにらみつける。労働者の味方である学生を、旧態依然とした元軍人などが抑えつけるのはとんでもない。
 一方では、瞳に挫折を宿した、時代が異なるならば「アカシアの雨に打たれ」たような風情の年かさの学生たちが、襟首のぱりっとした学生服を、苦々しげに見つめている。
 いったいこの構図はなんなんだろう?
 
 考えてもみてほしい。
 現代。日曜日の午後一時、駅前のサイゼリアに、バナナリパブリックのブレザーにびしっと身を包んだアッパーミドルの父親が、そつなく着飾った娘を連れてやってくる。
 店の中にはGAROの新台開店で当てが外れたリフォーム専門の塗装工が居て、羽振りのよさそうな親子に絡み始める。
 それを定年退職した団塊世代の元公務員が止めに入る。
 その騒ぎを、ミラノ風ドリアをつつきながら、雇い止めにあったばかりの派遣社員が苦々しげに見つめて、手にしたiphoneでヘイトスピーチをネットに撒き散らす。
 やがて物憂げなイタリア民謡を流すスピーカーが、初音ミクの千本桜を流しはじめて、店内の客たちは世代の差も立場の差も超えて、肩を組んで歌い始める。
 そんな構図を思い描くことができるだろうか?
 わたしたちは目に見えない壁に十重二十重に取り囲まれ、いつのまにか息をすることすらままならない。壁は誰にも見えないけれども、そこを越えることは許されず、もはや壁のない世界を想像することすら難しい。
 街のどこにもゲットーはないけれども、立場のことなる人と、混み合った酒場で相席する機会すらこの身には過ぎた恩恵だ。
 そんな身にしてみれば、たそがれ酒場のごった煮な空気は、切ないような、情けないような複雑な憧憬を呼び起こす場所だった。
 
 人肌の、その温度。
 生ぬるい空気に慣れてくると、映画が進むごとに、この酒場がまたとない、かけがえのない場所に思えてくる。
 そこは楽園ではなく、そう描かれてもいない。ため息もあれば、涙もあり、あげくの果てには刃傷沙汰もある。
 だけどもとりあえず、とりあえず、自分とはまるで異なる人種が、同じ酒場のとなりの席にいてくれる。それだけのことがとんでもない恩寵だと思えてくる。
 ほろ酔い加減で振りかえれば。
 酔客に煙草を売って回る老女がいる。彼女はうろたえ気味に煙草を差し出し、拒まれ、また今夜も売れなかったとため息をつくのだ。
 ほろ酔い加減で振りかえれば。
 席から席へと八層飛びのごとく駆け抜けて、他人から酒をかすめとるお調子者がいる。どんな人にも愛想がよく、適当に話をあわせ、その実彼にはなんの内実もないのだ。
 ほろ酔い加減で振りかえれば。
 戦争孤児となった女給がいる。彼女は流れ者に大阪への逃避行を誘われるが、病気の母と幼い妹のために、この街にとどまることを選ぶのだ。
 ほろ酔い加減で振りかえれば。
 ストリッパーの女がいる。彼女は初心なバリトン歌手に恋心を寄せられ、そのことを歓びつつも、無邪気に浮かれることができない我が身を呪い、それでも微笑みを返す。
 振りかえれば。
 たそがれ酒場の席のあちら、こちらに、見知った顔が見える。貴方の。そしてわたしの。
 わたしたちはたったひとつの酒場で席をおなじくし、酔った頭のなかで手垢のついた夢をもてあそび、酒のちからを借りて毎晩のごとく飛翔をこころみるが、たどりつく先はため息と苦笑いの漏れるグラスの上だ。
 わたしたちは互いにどうしようもなく孤独で、互いの傷をどうすることもできず、ただおなじ場所に存在するだけだ。
 それでも、目線を同じくする場所に、この場所に生を受け同じく死ぬ運命にあるのだという実感だけが、わたしたちを救うのではないだろうか。
 
 「たそがれ酒場」という映画は、フレームの奥行きを出すために、面白い試みをしている。
 前述のとおりこれは群像劇で、座席のひとつを選んでドラマが進行するのだけれども、X軸のむこうがわで、必ず他のうごきがあるのだ。
 たとえば地回りのやくざ(丹波哲郎!)がひそひそ声で悪巧みをするむこうで、元軍人が競馬新聞をめくっていたりする。
 座席のあいだをひっきりなしに他の客が歩き回り、あるいは店に入ってきて、あるいは店から出て行く。その合間を縫うように女給たちの元気な声が響く。
 加藤大介演じる元軍人などは、デモ隊の歌う労働歌に激昂し、店からふいと出て行ってしまい、戻らない。そのまま「たそがれ酒場」から、この映画から、この物語から、退場してしまう。
 彼の退場をいぶかしんでいるヒマはない。新しい客が、新しいシーンが、新しい物語が、つぎつぎにこの酒場にやってくるのだ。
 そのうちに「たそがれ酒場」という場所が、なにかの隠喩ではないかという疑いが芽生えてくる。
 わたしたちはふらりとこの店にやってきて、まばたきのようなわずかな瞬間、出会いを繰り返すのだ。そしていつか千鳥足でこの店を出て、こう思うのだ。ずいぶんと酔い、そして喉が嗄れるまでよく喋ったものだ、と。
 「たそがれ酒場」という映画は90分ほどで終わってしまうけれども、エンドロールのあとで暗くなった画面を見つめていれば、やがてすでに顔なじみになった彼らは帰ってきて、また酔ってくだを巻始めるのではないかと期待してしまうのだ。
 これは奇蹟だと思う。すでに鬼籍に入ったひとも多い、役者の演じる彼らに、わたしたちは実在感を感じる。映画というのは、人類が発明した唯一の奇蹟なのかもしれない。
 映画になにを求めるのか。人それぞれだろうと思うけれども、わたしはきっとそこに人肌を求めているのだと思う。わたしはきっと寂しいのだ。人と人の肌が触れ合う、リアルな瞬間に出会って、驚いてみたいのだ。
 
 わたしに「たそがれ酒場」の存在を教えてくれたのは、とある知人のひとりだ。彼女は今月、亡くなった。
 与えられたものだけが多く、返し得た恩はあまりにも小さく。勇気のなさからかけることのできなかった言葉の数々は、わたしを責め立てた。わたしは絶望し、途方に暮れた。そんなときにこの映画のことを思い出した。
 
 映画好きにとって、眠れぬ夜を癒してくれる映画の一本を教えてくれることが、どれほどありがたい恩恵か、わかるだろうか。
 たとえ眠れぬ夜が、その人の不在がもたらしたものであったとしても。
 永遠に消えることのなくなった寂しさを抱えたことを痛感しつつ、いまのわたしは満ち足りている。彼女とふたたび出会えることのできる場所を、見つけたからだ。
 
 そこには死んだ人間も、生きた人間も区別がない。
 死んだ役者がリアルな生を見せつけるその場所に、そんな区別など意味のあるものか。
 くだらない歪んだプライドが見せつける壁など越えて、いつかまた、「たそがれ酒場」に行こう。
 そこにはすべての人間がいるはずだ。決して楽園ではない。ため息も涙もある。
 それでもそこには、みんながいるはずだ。
 
 本当にありがとうございました。
 ご恩は忘れません。安らかにお眠りください。
 いつか、また、たそがれ酒場で会いましょう。
 
 

Viva Fear! ~ ゴーン・ガール雑感

  1. 2015/01/27(火) 00:17:32|
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ありし日、アメリカ公民権運動の父マーティン・ルーサー・キングが、とある女性記者にこう訊ねられた。

「人種差別と同じくらい、女性差別も重要な問題だと思いませんか?」

これに対するキングの答えがふるっている。

「どこにそんな差別があるというのか、よくわからない」

黒人の地位向上のために奔走したキング師は、間違いなく偉大な人物であっただろうし、同胞の苦難を見捨てて
おけないだけの共感力と鋭敏さを持っていた人だったはずだ。だが、肌の色で差別を受けることの屈辱を熟知して
いたはずの彼をもってしても、すぐとなりにいたはずの女性の苦渋には気づけなかった。
キング師は家庭外での浮気も多く、それを見とがめた知人にこんな言い訳を放っている。

「月に25日から27日も家をあけているからだ。ファッキングは不安を和らげる一つの方法だ」
(上坂昇著『キング牧師とマルコムX』)


ここに見られるのは典型的な「鈍さ」の問題だ。
「外」で名の知られた仕事を成し遂げた男たちが、「内」に帰ると秘められた鈍感さを剥き出しにして弱者に
マウントをとる、というのは井上ひさしのDVから岡田斗司夫の愛人リストまで一貫して共通する構図だ。
「外」では、高い知性と豊かな感受性をもって知られる彼らの、あまりにお粗末な「内」での粗相に人々は驚く。
そして女性たちは嘆くのだ。男はどうしてこんなに鈍いんだろう?

そりゃ決まっている。弱者の都合なんて見て見ぬ振りをしていた方が、強者にとっては楽で都合がいいからだ。
特権的立場にいるうしろめたさを感じるのは嫌なものだし、真実にむきあうには労力がいる。
それよりも無言の圧力と意図的な鈍さで、弱者を黙らせてしまったほうがよっぽど楽だ。
「外」でだったら背筋とアンテナを伸ばし、相手の顔色を伺い、相手の感情を忖度し、ことばを選んでコミュニケート
するなんてことをしたとしても、「内」でまでそんな面倒なことはしたくない。
いいじゃないか、このままで、俺たちいままで上手くやってきたじゃないか。
なんでそんな面倒くさいことを云うんだよ、安らげるはずの「内」でそんなことは聞きたくない。
弱者(おまえ)のことは俺がいちばんよく知っているんだよ。細かいことを気にしすぎだよ、神経質だな。
空気を読めよ。
そうだ、もうすぐ記念日だな。プレゼントはなにがいい?
……。
かくして意図的に鈍くなり、見たくないものを見ない強者たちによって「内」はゴミ箱と化す。
典型的なゴミ箱の名前を「家」と云う。

そういうふうに些細なことを云わずに黙っているのがぼくの癖になっている。そのほうが好都合だからだ。本音を
言うと、女のように細かいことをごちゃごちゃ説明しなくても、エイミーが気持ちを察してくれないかと期待していたのだ。
(ギリアン・フリン著『ゴーン・ガール(上)260ページ)


もう公開からずいぶんと日にちが経っているし、ネタバレ全開で書かせてもらうけれども、『ゴーン・ガール』は搾取される
弱者が逆襲をこころみる話だ。

ニューヨークでライターをしていたニック(ベン・アフレック)は、ニューヨーク育ちの洗練された美女であるエイミー(ロ
ザムンド・パイク)と恋に落ち、二人は結ばれる。夫側の家族の事情により、ニックの故郷であるミズーリ州の小さな
街に移り住んでから二年後、結婚五周年の記念日に、エイミーは失踪する。
現場に残されたいくつかの証拠から、ニック自身がエイミーを殺害したのではないかとの疑いが強まる。だがすべては
夫に不満を抱いたエイミーの狂言だった――。

エイミーはなぜ失踪したのか?
映画ではニックが若い女(エミリー・ラタコウスキー)と浮気したことが直接的原因ということになっていて、それは原作
でも要因のひとつではあるのだけれど、小説ではもう少し重層的な描き方がされている。
ひとつは2009年のリーマン・ショック以降、アメリカの中流層が急速に貧困層に流れていったこと。
ニックもエイミーも大卒のライターであり、それが2010年の7月以降、相次いで仕事を失う。
日本でもおなじことが起こっているので、事態の想像はしやすいだろう。雑誌の発行部数が激減し、ライターというのは
花形職業ではなくなった。文系の大学を出れば、出版業界で容易く職を得られて、食っていける、なんて構図が絵に描
いた餅になってしまった時代。まさに「いま」のとばっちりを受けた我々の同士がニックとエイミーだということが、映画だ
と理解しづらい。
もうひとつが、ニューヨーク生まれニューヨーク育ちのエイミーが、夫に引きずられて引っ越した先がミズーリだったこと。
原作では悲惨きわまりないアメリカ地方都市の現状が詳細に描かれていて、それが重要なバックボーンのひとつに
なっている。
ふたりの住む新興住宅地は、映画では華やかな場所であるように描かれていたが、リーマン・ショックで土地を手放す
人が続出し、ゴーストタウンのようになり、空き家にホームレスが棲みついている。コンピュータの普及のせいで印刷
工場がなくなり、失業者はどこにもいけずスラムを作っている。地方都市の花形だったはずの大型モールは撤退し、
そこでは怪しげなヤカラたちが徘徊している。トム・ソーヤをモチーフにした古風な観光スポットは、「よりはなやかで、
にぎやかで、マンガじみた観光地」に客を奪われた。
なんのことはない、日本で言うところのファスト風土だ。魅力も活気もない、枯れきった土地に、ニューヨークっ子が
連れてこられた、というのが顛末であり、「田舎のネズミと町のネズミ」のような寓意のある話なのだ。
これに痴呆の入ったニックの父と、ガンに冒されたニックの母の介護の問題がからみ、もちろん前述のニックの浮気の
問題もあり、エイミーは幾重にも追いつめられていく。
だがなによりもエイミーを追いつめ、彼女に最後の銃爪をひかせたのは、ニックの「鈍さ」だったのではないかと思う。

聡明で、美人で、行動力もある彼女は、自分のえらんだ伴侶の目がみるみる死んでゆき、「鈍さ」の鎧をまとって、
都合のいい無言による了承を強いる行為に耐えられなかったのではないか。だから彼女は選んだ。
すぐそばにいる、夫という見知らぬ他人を死刑にし、かつて愛した夫を取り戻す道を。

ベン・アフレックは熱演だと思うけれども、映画のニックには、原作のニックにあったある重要な要素が欠けている。
それは彼の父親の描写だ。映画では父は刑務所でわずかに姿を見せるだけだが、原作では父のバックボーンに
関する詳細な描写がある。
アル中でミソジニーのかたまりであり、「クソ女、クソ女、クソ女……」とうわごとのように繰り返す痴呆症の父。
ニックはその父を嫌悪していて、同時に父の血が自分のからだの中に受け継がれていることに心底恐怖する。
エイミーによって舞台がつくられた「なかった妻殺しの現場」は、ひょっとしたらニックが血の中に受け継ぐ暴力性
と女性蔑視により、「あり得たかも知れない妻殺しの現場」なのだ。
父の世代が呪いのように身に纏ったミソジニーに対する嫌悪と、それが自分の中に眠っていることへの恐怖。
これはいまを生きる多くの男性が誰にも云えずにひそかに抱えている葛藤ではないだろうか。
多くの女性は男がそんな葛藤を抱えていることなど知らないし、そもそも知ったことじゃないよ、と言われるのが
オチだろうが。

ニックは、自分の中に眠る「地方の男尊女卑のいやーな空気を受け継いだ血」を封印して、都会(ニューヨーク)で
まるでNY子のような顔をして、エイミーと出会う。ニックにとって、このとき彼女は遥かに見仰ぐ大都会に属する、
「外」の人間であったはずだ。「外」と接しているときは、ニックも嫌な自分を出さず、人好きのする、セクシーな男で
いられた。

それが失業により「外面」に傷がつき、勝手知ったる「内」であるところの故郷に引っ込んだところから、彼はエイミー
を「内」へと追いやる。待っているのは「鈍さ」による無言の搾取だ。
ところが、エイミーの失踪により、彼は死の危険にさらされる(ミズーリ州には死刑がある)。
究極の危機により、「鈍さ」に錆びついていた彼の脳は奮い立つ。アンテナを張り巡らせ、思考し(鈍かった時期の
ニックが脳味噌を使っていたとはわたしには思えない!)、敏感になり、周囲の動きを把握する。いざ「外」へ。

そしてそんなニックこそが、実はエイミーが再会を待ち望んだ、彼女の「愛する夫」だったのだ、というのがこの物語の
最大の皮肉になっている。
エイミーの術策により追いつめられたニックが、逆転の一手としてテレビの出演をこころみる。
彼はもう必死だ。しくじれば待っているのは最悪、死なのだ。ニックはこころの底からエイミーのことを思い、エイミーの
こころに至ることを願い、ことばを絞り出す。
それをテレビで見つめるエイミーの微笑みを、わたしは最初に観たときに、復讐が成し遂げられた残酷な歓びによる
ものだと思い、嫌悪した。
いまはまったく違う印象を持っている。
エイミーは、あそこでニックに惚れ直したのだと思う。理由は、彼がセクシーだったから。
追いつめられてわけがわからなくなり、必死になって妻のことだけを考えた男性が、ありったけの知恵と機転を
ふりしぼり、妻の胸にとどくためだけにことばを選ぶ。
女性にとって、そんな男の状態のことをセクシーと呼ぶのだと愚考したのだが、如何?

そもそも、エイミーによる壮大な狂言は、ニックという男がどういう欲望を持ち、どういう行動原理を持つ男か、熟知
していないとまったく成り立たない。エイミーは冷徹に事態を俯瞰しているように見えるが、「ニックを熟知している」
という一点において、図らずもそこに彼への執着と愛が露見してしまう。

あの日記というのも曲者で、創作というものに少しでも関わった人なら周知していることだが、創作物というのは
まったくの絵空事のようでいて、どうしても自分の秘められた欲望というのが露呈してしまう。あり得べき自分と
いうものを創作したあの日記は、まるでニックにむけた迂遠な恋文のようだ。

迂遠な恋文による危険な純愛は成就し、エイミーは帰還し、ニックの待つ家に戻る。
搾取された弱者が、知恵と行動によりその構図をひっくり返すというこの物語のプロットは、ここに至るまでで充分に
痛快なのだけれども、真に驚くべきはそのあと(映画で言えば終盤30分)だ。

血だらけで家に戻ってきたエイミーを、ニックは抱きしめ、その耳元で「クソ女」とつぶやく。
それは父から受け継いだ呪いのことばだ。
さらには怒りにまかせて、彼女の頭を壁に叩きつける。
理性と利己主義によって築き上げられた「いい夫」は敗北し、やはり「地方に根付く男尊女卑の血」が勝利するのか。
だが、そこでニックは気づくのだ。ここでエイミーを殺せば、自分は父とおなじ敗北者になる。それだけではない。
彼女の失踪後、冷たい汗で背筋を濡らしながらもがいてきた自分。それこそが自分にとって最大限に高められた
自分であることにニックは気づく。エイミーを殺し、どこかで退屈な普通の女と結婚したところで自分は満足できない
だろう(原作でも映画でも、ニックはじつにあっさりと若い愛人を手放す)。
父から受け継いだ、惨めな女性蔑視の血に打ち勝ち、最大限に自分を生かす道。
それはエイミーとともに生きることではないのか。
そこまで理解しても、エイミーに対する恐怖は消えない。ニックは寝室にひとりで籠もり、ドアに鍵をかける。
その寝室のカギが落ちる、かちり、という音。
それは実はニックとエイミー、彼ら夫婦の勝利の凱旋ラッパの響きであると思う。
これは「虐げられた妻(エイミー)が、夫(ニック)に復讐しました」で終わる話ではない。
妻と夫が、同時に最良の伴侶を手に入れる、希望の物語なのだ。
エイミーは死んだ目をした「鈍い」夫ではなく、聡明な夫と結ばれ。ニックは自分を「鈍さ」から解放する妻と結ばれた。
なんによってか。愛? ふざけちゃいけない。
かちりと鳴る、寝室のカギがかかる音が象徴するもの。
恐怖によってだ。

紀伊國屋渋谷店の文庫女子問題、通称ダサピンク事案が発生したとき、興味を持って関連するツイートを読んでいた。
非常に興味深かったのが、憤慨している女性たちの多くが「舐めるな」という語彙を使っていたことだ。
これは男の「鈍さ」に触れて憤った女性たちの口から頻出することばらしい。わたしも、知人の女性からそのことばを
ぶつけられたことがある。
「おなじ人間だと認めろ」という、極めてまっとうな主張がその真意だという理解をしている。男の「鈍さ」によって摩耗した
精神が、みずからの窮地をことこまかに説明する余裕すら失わせ、「舐めるな」ということばになるのではないだろうか。
しかし誠に残念ながら、このことばの真意はひどく男性側には伝わりにくいと思う。みずから好きこのんで「鈍く」なり、
そのことによる生き安さを確保した人間が、相手の立場に想像力を働かせる、なんてことをするわけがなく、たまに
「理解のある」男性が現れても、「お互いに平等な立場で、理論的に話をしよう」なんて云いだすのがオチではないか。
そもそも互いの立つ場所がすさまじく離れていて、議論に着手する前に相手が日々の生活でどれだけ摩耗しているか
なんてことは「平等」の中には入っていないのだから、これも不毛な話だと思う。
だったらどんな風に解決すればいいのか。
愛によってか。
だからちがうつってんだろ、殺すぞ、ボケ。

人類愛、なんて呆然としたものを振りまわしたところで実効的なものなどあるわけがなく、愛はたぶんこれからどれだけ
月日を重ねても、「わたしはあなたが好き」「ぼくはきみが好き」ということの積み重ねでしかすぎない。愛はこれからも
無数の勝利を刻むだろうが、それらはすべて局地戦で、戦略的にはなんの意味もない。
愛じゃ足りない。愛じゃ追いつかない。
ほんとうは人間すべてが想像力を発達させれば問題解決なのだが、世の中には愛の情動を育てる契機は山ほどあれ
想像力を育てる契機なんてほとんどないのだから、望み薄だ。

恐怖だ。
「舐めるな」という舌から血を流すような訴えを吐く相手と、おなじ目線で立つには恐怖しかない。
ソーシャルネットワークのどんづまりがもたらす、転落の危機が蔓延したこの世界で、手を携えて生きるにはそれしかない。
地位があろうが、名声があろうが、不用意な発言ひとつで地の底に落とされるこの世界。
広告に大金をばらまいてイメージアップをはかる大企業が、バイト店員のリーク一発でブラック企業よばわりされる世界。
歌手、芸能人、新聞社、批評家、評論家。かつては雲の上の存在だった彼らも、いまでは安全圏にいない。
誰ももう、「鈍さ」による搾取から得られる安寧の上にでんと構えてはいられない。
恐怖万歳!(Viva Fear!)
女を怖れ、男を怖れ、子供を怖れ、老人を怖れ、都市を怖れ、地方を怖れ、外国を怖れ。
びくびくと怯えながら。この世にいるすべての人々を恐れながら、生きていこう。
どんなに弱く、力なく見えても、彼らはあなたに致命傷を与える、蜂の一刺しを持っている。
そしてかつては見下していた相手を恐怖すること。それは相手の力を認め、相手を自分の目線まで引き上げることだ。
それが「舐めない」ってことなんじゃないだろうか。

2009年に外れた鍋の底が、永遠に右肩下がりのグラフを生みだしたこの世界。
地方が衰退していくなか、旧時代のヘイトと蔑視が息を吹き返しつつあるこの世界。
そこを生き延びるには恐怖することだ。

『ゴーン・ガール』はそんな「いま」の世界をサバイブする方法を提示した、未来への希望に溢れた物語だと思う。



マップ・トゥ・ザ・スターズ

  1. 2015/01/22(木) 01:02:15|
  2. 洋画
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ハリウッドには怪談話があふれている。
あの有名な蝋人形館には子供の幽霊が出るらしいし、ハリウッド・パシフィック・シアターにはワーナー・ブラザースの
ひとり、サム・ワーナーの霊が出没するという。パラマウントスタジオは墓地の跡地に建っていて、スタッフは幽霊に
悩まされているなんて、まことしやかな話まである。

ずっと気になっているのは、ハリウッド・ルーズベルト・ホテルに出没する、マリリン・モンローの幽霊の話だ。
このホテルは第一回アカデミー賞の授賞式会場でもあり、例年ラジー賞が授賞式を行うという由緒正しき(?)建造物
なのだが、そこにマリリン・モンローの霊が出るという。
モンローとホテルの由縁については不明だが、彼女の霊は昼夜を問わず、廊下を歩いていたり、鏡の前に立っていたり、
水着姿でプールサイドにいるところを目撃されている。
おかしな話だと思いませんか。なぜよりによって幽霊が水着姿で?
アメリカでも幽霊は水辺の近くを好むのかもしれない。でもそんなリラックスした姿をなぜ見せるのか。
どこかユーモラスなその情景に、恐怖は感じない。代わりに立ち上ってくるのはひとつの疑問だ。
ひょっとしてマリリン・モンローは自分が死んだことを知らないんじゃないのか。

デビッド・クローネンバーグの新作、「マップ・トゥ・ザ・スターズ」を観た。
セラピストの父(ジョン・キューザック)、ステージママの母(オリヴィア・ウィリアムズ)、そして人気子役のベンジー
(エヴァン・バード)。ワイス家は人もうらやむハリウッドセレブだ。そこへ少女アガサ(ミア・ワシコウスカ)がネットで
知り合った脚本家を訪ねて、ハリウッドにやってくる。とあるきっかけから、有名女優ハバナ(ジュリアン・ムーア)
がアガサを秘書として雇ったことから、物語は不穏な方向へと舵を切っていく……。

あらすじだけを追っていくなら、これは「ハリウッドの裏幕もの」だ。盛りを過ぎた女優のサンセット大通り的な執念
あり、麻薬に溺れる天才子役の退廃あり。ライバル俳優同士が火花を散らし、食っていくために運転手を兼業する
脚本家(ロバート・パティンソン)はひそかな野望を抱く。

ところが画面から伝わってくるのは、生身の人間のドロドロとした欲望などではなく、どこか遠い過去の物語を見て
いるような――それこそエンドロールが示唆するような遠い星の世界の出来事のような――絶妙な隔絶感なのだ。
冷たく、湿度がない。
産毛も抜けない子役たちが、すれきった露悪的な会話をかわす。
そこに興味を惹かれこそすれ、生々しさや嫌悪感は感じない。
星座の物語――暴力、姦通、近親相姦、etc――に眉をひそめたりはしないように。

影を失ったようなあいまいな彼らと対照的に描かれる、ある存在がある。
幽霊だ。
ふっとカメラがパンしたところにいる、この世ならざるもの。
子役のベンジーは、こころない慰めを与えたまま死別したファンの少女の霊に悩まされ、ハバナは亡き母の霊に
脅かされる。
この霊が、おどろおどろしい演出などなく、生きた人間とフラットに描かれる。それは黒沢清の映画に出てくるような
“触れる幽霊”で、神秘的なヴェールで遮られてなどいない。寝室に、撮影スタジオに、プールサイドに(前出のマリリン・
モンローの霊からインスパイヤされたとまでは云わないが、気になる類似だ)、日常の風景の中に呵責なく干渉してくる。
そして霊を見た者たちは、ホラー映画のように大仰な驚き方をするのではなく、こころの傷にふいに触れられたときの
ような“痛いところを突かれた”顔をする。それは生きている厄介な隣人に対する態度のようで、観ていると、だんだん
生者と死者の境界があいまいになってくる。

そしてようやく、映画の最初から感じていた、ぶあついビニールを隔てたような、遠い感じの意味するものがわかってくる。
この映画では生者と死者が逆転している。生きたものは死んでいて、死んだものは生きている。

ハリウッドという幻想と現実の境界で、いったいどれほどの架空の死が描かれてきたか。
そこで架空の人生を身にまとい生きる人たちは、もはや本当の死というものがわからないし、生きている感覚もない。
だからこそベンジーはファンの少女のリアルな死に触れて、はじめて揺らぎ、「安定した虚構」という足場を失う。
ハバナは、映画の中で描かれてこそいないが、女優人生の中で架空の死をいくつも経てきただろう。
だが、自らの苦痛の源泉であり、最大の憎悪の対象であったはずの母の人生を演じようとしたとき、みずから進んで
「安定した虚構」という足場を捨て去る。セラピストにかかってまで母から与えられた苦痛を癒そうとしながら、その母を
映画の中で演じようとする彼女は矛盾そのものだ。その滑稽な矛盾が彼女を押しつぶしていく。
日々の糧と名声を虚構から得ようとする彼らが、影を失ったような存在にならないはずがない。

そして対照的に描かれる死者の存在感は、ハリウッドという場所が、虚構の死をつみあげる死の殿堂であることを
喝破してみせる。生がもっとも死に近くなり、死がもっとも生に近づく、黄泉比良坂。それがハリウッドではないだろうか。

ミア・ワシコウスカが存在感のある演技で息を吹き込んだ、アガサという少女は、ハリウッドに、そしてワイス家に溢れる
瘴気を祓いにきた巫女なのだろう。だからこの映画の終わりが、彼女の唱える(あからさまに呪術的な)祝詞で終わるの
は必然といえる。ハリウッドに棲まう悪霊の調伏は、果たして成功したのか。

それは、この物語でじつに中途半端に捨て置かれる、ロバート・パティンソンに託されているのではないかと思うのだ。
彼の物語の顛末が不明なのは、彼がまだ生者/死者と死者/生者の決定的な境を超えていないからだ。
彼はまだ真の「生きた」人間として自分の人生をまっとうすることができる。しかし野望を捨てきれぬならば、ハバナが
落ちて行った奈落へと落ちて行くしかない。

この物語はまだ完結していないが、きっとつづきは星の世界で語られるのだろう。
そしてわたしたちが、その世界に足を踏み入れることはついぞ無いのだ。

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